神 様 図 鑑
かんむてんのう 桓武天皇
第50代天皇・平安京遷都を断行した大改革の天皇 / 坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ蝦夷を平定 / 平安神宮に御祭神として祀られる
基本情報
① 名前と出典
| 正式名称 | 山部親王(やまべのしんのう)——即位前の名。 桓武天皇(かんむてんのう)——漢風諡号(おくりな)。続日本紀・日本後紀 |
|---|---|
| 生没年 | 天平9年(737年)〜延暦25年(806年)。享年70歳(当時としては長命)。 |
| 名前の意味 | 「桓(かん)」は武勇に優れた・盛んという意味の漢字。「武(む)」は武力・武勇。全体として「武勇において盛んな天皇」——実際に蝦夷征討・政治改革・平安京建設という三大業績をすべて武力と強い意志で推進した天皇像を正確に表している漢風諡号。 |
| 父母 |
父:光仁天皇(こうにんてんのう)——白壁王(しらかべおう)とも。奈良時代末期の天皇。 母:高野新笠(たかのにいがさ)——渡来人・百済王族(くだらおうぞく)の血を引く女性。桓武天皇は日本の歴史上、母方に朝鮮半島の王族の血を引く天皇として注目される。2002年のサッカーワールドカップを前に当時の明仁天皇(上皇)が「高野新笠が百済の武寧王の子孫と続日本紀に記されていることに、韓国との縁を感じる」と発言したことで広く知られるようになった。続日本紀・桓武天皇の系譜 |
| 初出文献 | 続日本紀(しょくにほんぎ)・日本後紀(にほんこうき)。在位中の記録は「続日本紀」(奈良時代)と「日本後紀」(平安初期)の両書にまたがって記録される。六国史(りっこくし)のうち最も詳細な記録を持つ天皇のひとり。 |
| 神様の種類 | 人神(ひとがみ)——平安時代を創始した「改革の天皇」——1100年以上続いた平安時代という日本文化の黄金期の「幕を開けた」天皇として、死後に神として祀られた。平安神宮(京都)に御祭神として鎮座し、「改革・都市建設・勝負必勝」のご利益で現代も信仰を集める。 |
② 桓武天皇の三大業績
③ 活躍した時代
奈良時代の末期、仏教勢力(特に南都の寺院)が朝廷の政治に過度に干渉する状況を打破するため、桓武天皇は都を長岡京→平安京へと二度も移した。奈良の仏教権力から切り離し、唐(とう・中国)の長安をモデルとした計画都市・平安京を建設。この大胆な遷都政策が「平安時代」という日本文化の黄金期を生み出した。
祀られる神社
歴史・伝説
平安京遷都の経緯——二度の遷都が語る桓武天皇の強い意志
坂上田村麻呂——桓武天皇が育てた日本史上最初の「征夷大将軍」
桓武天皇は東北地方の蝦夷(えぞ)征討のために複数の将軍を派遣したが、その中で最も大きな戦功を挙げたのが坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ・758〜811年)だった。田村麻呂は797年に「征夷大将軍」という称号を授けられ、801年の東征で岩手県・胆沢(いさわ)の蝦夷の首長・アテルイを降伏させ、胆沢城(いさわじょう)を築いて東北の統治拠点を確立した。桓武天皇が田村麻呂を信任し活躍の場を与えたことで、「征夷大将軍」という役職が確立し、後の源頼朝・足利尊氏・徳川家康という歴代「将軍」の制度的な原点となった。田村麻呂は「鬼を倒した将軍」として各地の伝説に登場し、清水寺(京都)の創建にも関わったとされる。
早良親王の祟り——弟の怨霊に苦しんだ桓武天皇の晩年
長岡京遷都後、造営の実務責任者・藤原種継が暗殺された際に、桓武天皇の弟・早良親王(さわらしんのう)が犯人の一味として疑われ、皇太子の地位を剥奪されて淡路島へ流された。親王は無実を訴えて断食し、護送の途中で崩御した。その後、桓武天皇の家族・側近に次々と不幸が続いた——皇后・皇太子の死・疫病・旱魃——を人々は「早良親王の祟り」と恐れた。これが平安京への再遷都の一因ともなり、早良親王は「崇道天皇(すどうてんのう)」という称号を贈られ(桓武天皇の後の時代)、奈良の崇道天皇社・京都の御霊神社などに怨霊鎮魂の神として祀られた。「怨霊を恐れ鎮魂する」という平安時代の御霊信仰の原点に、桓武天皇と早良親王の兄弟の悲劇がある。
平安神宮の創建——桓武天皇が御祭神となった明治の物語
平安神宮(京都市左京区)は明治28年(1895年)、平安遷都1100年記念事業として京都市民が発願し建立した神社。桓武天皇と最後の平安京の天皇・孝明天皇(こうめいてんのう)の二柱を御祭神とする。社殿は平安京の正庁・朝堂院(ちょうどういん)を縮小復元したもので、朱塗りの応天門・白砂の広庭・神苑の池泉回遊式庭園は平安時代の美意識を今に伝える。明治維新で東京遷都が決まり京都が都の地位を失ったことへの「京都の誇りの象徴」として建てられた側面も持つ平安神宮は、「平安時代を創始した桓武天皇と平安時代最後の天皇・孝明天皇」を並べて祀ることで、平安時代という日本文化の黄金期全体を象徴する神社となっている。
逸話・エピソード
桓武天皇の母・高野新笠(たかのにいがさ)は、百済(くだら・現在の韓国)の武寧王(ぶねいおう)の子孫とされる渡来系氏族の出身だった。「続日本紀」には高野新笠の系譜として「百済の武寧王の後裔」と明記されており、桓武天皇は母方に朝鮮半島の王族の血を引く天皇として日本史上特別な存在。2002年のFIFAワールドカップ(日韓共催)の前年、当時の明仁天皇(現在の上皇)が「高野新笠が百済王族の子孫と続日本紀に記されていることに韓国との縁を感じる」と述べたことで広く知られるようになった。桓武天皇が推進した平安京建設には渡来系技術者・工人の力が大きく貢献したともされており、「大陸文化を積極的に取り入れた天皇」という側面は母方の出自とも関係しているかもしれない。
桓武天皇は晩年、二大事業——平安京の造営・蝦夷征討——が民衆に与えた財政的・肉体的な負担の大きさを認め、「蝦夷征討と平安京造営の両方を止める」という「二つの徳政(とくせい)」を宣言した(805年)。側近・藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)が「天下の苦しむ所は軍事と造作(造営工事)の二事である」と訴え、桓武天皇がこれを受け入れたとされる。強権的な改革主義者として知られる桓武天皇が「民の苦しみを聞いて政策を転換した」というこのエピソードは、「強さと柔軟さを合わせ持つ指導者」という桓武天皇の人物像の奥行きを示している。この決断の翌年(806年)、桓武天皇は崩御した。
毎年10月22日に行われる平安神宮の「時代祭(じだいまつり)」は、京都三大祭のひとつとして知られる。明治維新列から平安時代まで時代を遡る約2,000人の大行列が京都市内を練り歩き、最後(最古の時代)を飾るのが「桓武天皇の遷都を祝う延暦武官行列(えんりゃくぶかんぎょうれつ)」——桓武天皇が平安京に遷都した延暦13年(794年)の武人たちの姿を再現した行列。「794年の平安京遷都の場面で終わる」という時代祭の構成が、「京都という都市の始まりに桓武天皇がいた」という歴史的事実を毎年10月の祭りで確認させてくれる。名古屋から新幹線で京都まで約35分と日帰り可能な距離。
ご利益
平安京という1000年の都を建設し・征夷大将軍という制度を確立し・律令制を改革した「行動の天皇」として、改革・建設・勝負必勝・新しい出発という現代的なご利益で信仰されます。平安神宮(京都)の御祭神として「桜(神苑の紅しだれ桜)」とも縁が深い。

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