【神話図鑑】古事記 人代篇 第28話(最終回)
推古天皇と聖徳太子
日本初の女帝と摂政の改革——古事記が記す最後の天皇が治めた飛鳥の時代
継体天皇から推古天皇へ——飛鳥時代の幕開け
継体天皇(第26代)の即位から約80年後、日本の歴史は「飛鳥時代」と呼ばれる新たな段階を迎えます。この時代の中心にいるのが、推古天皇(第33代・在位593〜628年)と、その甥にして摂政を務めた聖徳太子(厩戸皇子)です。
古事記(712年成立)はこの推古天皇を最後の天皇として記録を終えます。神々の時代から始まった物語は、仏教が花開き、大陸との外交が始まり、律令制の礎が築かれるこの時代で幕を閉じます。全28話にわたる神話図鑑シリーズの最終回として、古事記の世界観全体を振り返りながら、推古天皇と飛鳥の時代を描きます。
-
1継体天皇の息子・欽明天皇(第29代)の時代に仏教が朝鮮半島から伝来(552年または538年)
-
2敏達・用明・崇峻の三天皇を経て、欽明天皇の娘・豊御食炊屋比売が推古天皇として即位(593年)
-
3推古天皇の甥・厩戸皇子(聖徳太子)が摂政に就任。冠位十二階(603年)・十七条憲法(604年)を制定
-
4遣隋使を派遣(600年・607年)し、中国隋との対等外交を試みる
-
5四天王寺・法隆寺などを建立。仏教文化が日本に定着していく
-
6推古天皇36年(628年)に崩御。古事記はここで記録を終える
第29代〜33代・欽明〜推古の系譜
| 代 | 天皇名 | 読み | 在位・特記事項 |
|---|---|---|---|
| 第29代 | 欽明天皇 | きんめいてんのう | 539〜571年。継体天皇と手白香皇女の子。仏教公伝(552年/538年)があった天皇。朝鮮半島との外交が活発 |
| 第30代 | 敏達天皇 | びだつてんのう | 572〜585年。欽明天皇の子。物部守屋(廃仏派)と蘇我馬子(崇仏派)の対立が始まる |
| 第31代 | 用明天皇 | ようめいてんのう | 585〜587年。敏達天皇の弟。聖徳太子の父。在位わずか2年で崩御 |
| 第32代 | 崇峻天皇 | すしゅんてんのう | 587〜592年。蘇我馬子に擁立されるが、後に馬子に暗殺される。日本書紀が明記する最初の「天皇暗殺」 |
| 第33代 | 推古天皇 | すいこてんのう | 593〜628年。日本初の女帝。欽明天皇の娘。聖徳太子を摂政に。古事記が記す最後の天皇 |
欽明天皇の時代に始まり、推古天皇の即位に至るまでの半世紀は、崇仏派・蘇我氏と廃仏派・物部氏の激しい政治的対立の時代でした。587年、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼし(丁未の乱)、仏教を国策として推進する道が開かれます。推古天皇の即位と聖徳太子の摂政政治は、この蘇我氏勝利の延長線上にあります。
仏教公伝——日本の精神文化の大転換
推古天皇の時代を語る上で欠かせないのが、仏教の伝来と定着です。日本書紀は仏教の「公伝」(公式な伝来)について以下の記録を残しています。
仏教伝来後、日本の豪族社会では「仏教を受け入れるか廃するか」をめぐる政治的・宗教的対立が生じました。蘇我稲目(崇仏派)vs 物部尾輿(廃仏派)の対立から始まり、次世代の蘇我馬子 vs 物部守屋の対立、そして丁未の乱(587年)での仏教派勝利へと続きます。
推古天皇の時代には仏教はすでに国家的政策として位置づけられ、聖徳太子は「三宝(仏・法・僧)を敬え」と十七条憲法第二条に明記します。
推古天皇の即位——日本初の女帝
崇峻天皇が蘇我馬子によって暗殺された後、次の天皇として選ばれたのは欽明天皇の皇女・豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)、後の推古天皇です。593年に即位し、日本史上初めての女帝となりました。
父:欽明天皇 母:蘇我堅塩媛(蘇我稲目の娘)
在位:593年〜628年(36年間)
宮:小治田宮(おわりだのみや)— 奈良県高市郡明日香村付近
推古天皇は即位前に敏達天皇の皇后(妃)であり、夫の崩御後に即位しました。女性が即位した背景には、対立する豪族勢力の双方から受け入れられる存在として「天皇家の血を持つ女性」が選ばれたという政治的事情があります。
推古天皇の在位は36年間に及び、この間に聖徳太子(厩戸皇子)を摂政として起用し、古代日本の政治・文化・外交の基礎を築きました。古事記が記す「最後の天皇」として、上古の神話世界から始まった日本の物語に幕を引く存在です。
古事記は初代神武天皇から第33代推古天皇まで記録する。推古天皇が最後の天皇として記されるのは、古事記の成立(712年)から見て、推古天皇崩御(628年)から約80年後であり、まだ記憶が生きていた比較的近い時代の天皇だったため。
聖徳太子の政治改革
推古天皇の摂政として政治を主導した厩戸皇子(うまやとのみこ)、後世に「聖徳太子」と呼ばれるこの人物は、日本古代史上最も有名な政治家・思想家の一人です。ただし「聖徳太子」という呼称は後世のものであり、古事記には登場しません。
聖徳太子の実在・事績については20世紀末以降に「聖徳太子虚構説」も提唱されましたが、現在の歴史学では実在は認めつつ、後世の「聖人化」による誇張や付加を整理する作業が続けられています。
古事記の原文(推古天皇段・最終記述)
古事記における推古天皇の記述は非常に簡潔です。全三巻の最後として、在位・崩年干支のみが記されます。これが古事記の「最後の一節」です。
小治田宮(をはりだのみや)に坐(ま)しき。
此の天皇の御年(みとし)、七十五歳(ななそぢあまりいつとせ)。
戊子年(つちのえねのとし)の三月十五日(やよひのとをかあまりいつか)に崩(かむあが)りましき。
※「七十五歳」は古代の年齢計算であり、現代換算とは異なる可能性あり
※これが古事記全体の最後の天皇記録。この後に太安万侣の「後序(あとがき)」が続く
名もなく、為(な)すこともなし……
〈中略〉
稗田阿礼(ひえだのあれ)の口誦(くち)に誦(とな)うる所の旧辞(ふることぶみ)を、
撰録(えらみしるし)て献上(たてまつ)る。
※和銅5年(712年)正月廿八日、太安万侣(おおのやすまろ)がこれを天皇(元明天皇)に献上した。
考察:古事記が「推古天皇」で終わる理由
古事記が712年に成立した時点で、最後の天皇として推古天皇(628年崩御)が選ばれた背景にはいくつかの理由が考えられます。
① 稗田阿礼が暗誦していた内容の範囲が、推古天皇の時代までだった可能性。
② 古事記の目的が「神代〜推古天皇までの正史」を確立することにあり、それ以降は別途日本書紀(720年)で詳細に扱われる設計だった。
③ 712年時点での現皇室(元明天皇)にとって、推古天皇は「遠すぎず近すぎない」時代の区切り点だった。
古事記と日本書紀は対になった国家プロジェクトとして同時進行で編纂されたと考えられており、古事記が「伝承・神話の集成」、日本書紀が「正式な歴史書(漢文体)」という役割分担がありました。推古天皇以降の近い時代の記録は日本書紀に委ねられたのです。
上巻:天地開闢〜神武天皇即位前
中巻:初代神武天皇〜第15代応神天皇
下巻:第16代仁徳天皇〜第33代推古天皇
712年1月28日に元明天皇に献上
天武天皇の命で古い伝承を暗誦させられた人物。男性か女性か不明。「舎人(とねり)」という職の人物とされるが詳細は謎。古事記のすべての内容を記憶していたとされる
奈良時代の官人。1979年に奈良市の茶畑から墓誌が発見され、「正五位上勲五等太朝臣安万侣…養老七年(723年)七月六日」と記されていた。実在が考古学的に証明された数少ない古代人の一人
関連神社・史跡
| 神社・史跡名 | 所在地 | 推古天皇・聖徳太子との関係 |
|---|---|---|
| 法隆寺 | 奈良県斑鳩町 | 聖徳太子が創建した寺院。現存世界最古の木造建築群。1993年にユネスコ世界遺産登録。金堂・五重塔が飛鳥時代の姿を今に伝える |
| 四天王寺 | 大阪市天王寺区 | 聖徳太子が物部守屋との戦いに勝利後に建立を誓った寺。593年創建とされる。日本最古の官寺のひとつ |
| 飛鳥寺(法興寺) | 奈良県明日香村 | 588年に蘇我馬子が創建した日本最古の本格的仏教寺院。飛鳥大仏(現存する最古の仏像)を安置する |
| 橘寺(聖徳太子誕生所) | 奈良県明日香村 | 聖徳太子が生まれたとされる橘宮(たちばなのみや)の跡地に建つ寺院。用明天皇の別宮があった場所 |
| 推古天皇陵(山田高塚古墳) | 奈良県明日香村 | 推古天皇の陵墓とされる。飛鳥川のほとり、明日香村に所在する |
| 太安万侣墓(史跡) | 奈良市此瀬町 | 1979年に発見された太安万侣の実際の墓。墓誌の出土により古事記編者の実在が証明された。史跡として保存 |
| 聖徳太子霊跡・上宮太子廟(叡福寺) | 大阪府太子町 | 聖徳太子の御廟所とされる。磯長山(しながさん)に太子・母・妃の三基の陵墓がある。「太子町」の地名の由来 |
神話図鑑シリーズ完結のことば
天地が初めて開けた「天地開闢」から始まり、イザナキ・イザナミの大地の創造、アマテラスの岩戸隠れ、スサノオのヤマタノオロチ退治、オオクニヌシの国造り、天孫降臨、海幸山幸、神武天皇の東征——そして人代篇へと続く、日本の神話と歴史の物語をここに完結します。

コメント