日本で唯一「現存天守」を持つ山城
岡山県高梁市にそびえる**備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)**は、
標高約430mの臥牛山(がぎゅうざん)山頂に築かれた、日本で唯一の現存山城です。
現存12天守の中でも最も高所にあり、「天空の城」「雲海に浮かぶ城」として知られ、
その姿は近年、写真や映像を通して全国的に注目を集めています。
備中松山城の基本データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 城名 | 備中松山城 |
| 別名 | 松山城、高梁城 |
| 所在地 | 岡山県高梁市内山下 |
| 築城 | 1240年(仁治元年)頃 |
| 築城者 | 秋庭三郎重信 |
| 天守 | 現存天守(国重要文化財) |
| 城郭形式 | 山城 |
| 日本百名城 | 第69番 |
城のはじまり ―― 鎌倉時代に築かれた山城
備中松山城の起源は、鎌倉時代・1240年にさかのぼります。
備中国守護・秋庭三郎重信によって、臥牛山の山上に砦が築かれたのが始まりです。
当初は純然たる「戦のための城」であり、
平野部を治めるための防御拠点として機能していました。
戦国時代 ―― 三村氏と毛利氏の攻防
戦国時代、備中松山城は備中国支配の要衝として激しい争奪戦に巻き込まれます。
三村氏の台頭
16世紀中頃、城主となったのは三村家親。
彼は毛利氏と同盟し、城の大改修を行い勢力を拡大します。
しかしその後、家親は暗殺され、
跡を継いだ三村元親は毛利氏と対立。
備中兵乱(1574〜1575年)
毛利氏は大軍を率いて備中松山城を包囲。
結果、三村氏は滅亡し、城は毛利氏の支配下に入ります。
この戦いは、中国地方における戦国史の大きな転換点の一つとされています。
江戸時代 ―― 現存天守の誕生
関ヶ原の戦い後、備中松山城は**小堀政一(遠州)**の管理下に置かれます。
その後、水谷勝宗が城主となり、城の近世城郭化を進めました。
天守の築造
現在残る天守は、1683年(天和3年)頃に完成したと考えられています。
- 三層二階
- 外観は二重、内部三階構造
- 山城としては非常に簡素で実戦的
この天守が改築・再建されることなく現存している点こそが、
備中松山城最大の価値です。
備中松山城天守の特徴
① 質実剛健な姿
姫路城のような華美さはなく、
防御を最優先した簡潔な造りが特徴。
- 石落とし
- 狭間(鉄砲狭間・矢狭間)
- 厚い土壁
すべてが「戦う城」であることを物語っています。
② 日本一高い場所にある現存天守
標高約430m。
現存天守の中で最も高所に築かれています。
この立地により、
- 攻めにくく
- 見晴らしが良く
- 少人数でも守りやすい
という山城ならではの利点を備えていました。
③ 天守内部の見どころ
内部は極めて実用的です。
- 梁や柱は太く無骨
- 装飾はほとんどなし
- 武具の収納を意識した空間設計
「城=権威の象徴」ではなく、
純粋な軍事施設であったことがよく分かります。
石垣 ―― 山城最高峰の完成度
備中松山城の石垣は、
自然の地形を巧みに利用した高石垣が特徴です。
特に有名なのが、
- 天守台石垣
- 二の丸・三の丸の曲輪石垣
これらは野面積みを主体としながらも、
極めて安定した構造を誇ります。
城下町・高梁との関係
江戸時代、城下町は現在の高梁市中心部に形成されました。
- 武家屋敷
- 商人町
- 寺町
山上の城と、麓の城下町が明確に分離されている点は、
山城から平城へ移行する過渡期の姿を示しています。
雲海に浮かぶ「天空の城」
秋から冬にかけての早朝、
条件が揃うと城は雲海に包まれます。
この幻想的な光景は、
- 雨上がり
- 早朝
- 放射冷却が強い日
に発生しやすく、
近年は国内外から多くの観光客が訪れています。
備中松山城が特別な理由
- 日本唯一の現存山城天守
- 鎌倉〜江戸までの長い歴史
- 戦国の攻防を物語る堅牢な構造
- 自然と一体化した城郭美
これらすべてを兼ね備えた城は、
日本全国を見渡しても他にありません。
まとめ ―― 「静かに語る、最古の戦城」
備中松山城は、
派手さはなくとも、日本の城郭史を静かに物語る存在です。
- 戦うために築かれ
- 改修され
- そして奇跡的に残された天守
山道を登り、城を仰ぎ見た時、
そこには「生き残った城」だけが持つ重みがあります。
城好きであれば、一度は必ず訪れるべき名城。
それが備中松山城です。


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