【書物図鑑】『古事記』伝説の英雄は誰の子?ヤマトタケルノミコトの誕生と系譜

『古事記』中巻において、最も劇的で人気のある英雄がヤマトタケルノミコト(日本武尊)です。彼は若くして全国を駆け巡り、多くの賊や神々を討伐した伝説的な存在です。

しかし、その壮大な物語が始まる前に、ヤマトタケルの誕生と、彼がどのような時代に生まれたのかという背景を理解しておくことは非常に重要です。

この記事では、ヤマトタケルが生まれた時代と、彼の家族構成、そしてその幼少期に起こる重要な出来事について解説します。


1. 治世の背景:第12代景行天皇の時代

ヤマトタケルノミコトは、第12代景行天皇(けいこうてんのう)の子として生まれます。景行天皇は、第10代崇神天皇以来、大和朝廷(ヤマト王権)の支配体制が確立されつつある時代に即位しました。

この時代、朝廷は大和を中心としつつも、国内の未だ服従しない土着の勢力(「まつろわぬ神」や「賊」)との戦いを続け、支配領域を広げようとしていました。

  • 景行天皇(第12代天皇)
  • 播磨稲日太郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)
  • :幼名を小碓命(おうすのみこと)といいます。後にヤマトタケルノミコトと呼ばれることになります。

2. 英雄の片鱗:少年時代の残酷な事件

ヤマトタケルの幼名、小碓命(オウスノミコト)の時代の記述は、『古事記』において非常に衝撃的な出来事から始まります。このエピソードは、彼の並外れた武力と、後には悲劇的な運命につながるであろう荒々しい気質を予期させるものです。

🔪 双子の兄の不在

景行天皇には、小碓命と大碓命(おおうすのみこと)という二人の王子がいました。ある時、天皇は、大碓命が食卓に現れないことを気にかけ、小碓命に「兄を呼び戻してくるように」と命じます。

しかし、何日経っても大碓命は戻らず、小碓命も兄を連れてきた報告をしませんでした。

🩸 最初の殺害

天皇が再び小碓命に尋ねたところ、小碓命は淡々と事の顛末を語ります。

「兄がなかなか出てこなかったので、私は兄を捕まえ、手足をもぎって、むしろに包んで投げ捨てました。」

この残忍な返答に、景行天皇は恐怖を覚え、小碓命の恐ろしいまでの剛毅(ごうき)さに気づきます。天皇は、宮中に置いておくには危険すぎると感じ、小碓命を遠征に送り出すことを考えます。


3. 英雄への道:最初の遠征

小碓命の才能と残忍さを恐れた父、景行天皇は、彼を遠方にいる反逆者の討伐に派遣します。これは、彼の力を宮中から遠ざけるための、ある種の追放でもありました。

🏹 熊曽建(くまそたける)の討伐

小碓命が最初に派遣されたのは、熊曽(くまそ、現在の九州南部)にいる強力な首長、熊曽建と呼ばれる二人兄弟の討伐でした。

この遠征での活躍が、小碓命に英雄的な名を与えることになります。

  1. 女装による潜入: 小碓命は、少女の姿に変装し、熊曽建兄弟が催す宴会に潜り込みます。
  2. 奇襲: 宴会で兄弟が油断したところを見計らい、小碓命は隠し持っていたで兄弟を刺し殺します。
  3. 名の継承: 瀕死の兄の熊曽建は、小碓命の勇猛さを讃え、「私よりも強いタケル(猛々しい者)がいる。これからはヤマトタケル(大和の猛々しい者)と名乗るべきだ」と言い、その名を献上します。

これ以後、小碓命はヤマトタケルノミコトと呼ばれるようになり、その名声は全国に轟くことになります。

ヤマトタケルの物語は、この最初の遠征を皮切りに、西征、そして東征という、日本古代史の広がりを象徴する壮大な旅へと展開していくのです。

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