『古事記』の神話において、最も政治的かつドラマチックな出来事の一つが、「国譲り(くにゆずり)」です。これは、大国主神(オオクニヌシノカミ)が治めていた地上世界(葦原中国)の支配権が、天上の神々(高天原)の子孫である「天孫」へと平和的に移譲された物語です。
このエピソードは、なぜ日本の統治者が天皇の祖先神の系譜にあるのかという根源的な問いに答える、神話最大の転換点です。
この記事では、高天原の決意から、出雲の神々との交渉、そして国の平和的な移譲に至るまでの詳細を解説します。
1. 高天原の決断:葦原中国の統治権
大国主神は、少名毘古那神(スクナビコナ)らの協力を得て、地上世界(葦原中国)を豊かで秩序ある国へと作り上げました。
この立派な国造りの結果は、天上の世界、高天原の主宰神である天照大御神(アマテラスオオミカミ)と高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)の目に留まります。
二柱の神は、「この地上世界は、本来、我々の子孫(天孫)が統治すべき国である」と決意します。
⛩️ 使者派遣の失敗
アマテラスたちは、オオクニヌシに対し、穏便に国を譲り渡すよう説得するため、使者を地上へ派遣することを決めます。
| 使者 | 結果 | 失敗の理由 |
| 天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト) | 派遣を拒否 | 地上を見て「国が騒がしい」と報告し、自ら降臨することをためらう。 |
| 天菩比神(アメノホヒノカミ) | 帰らず | オオクニヌシに心服し、寝返って八年間も高天原に戻らなかった。 |
| 天若日子(アメノワカヒコ) | 帰らず | オオクニヌシの娘と結婚し、自ら地上世界の王になろうと画策し八年間を過ごす。 |
特に天若日子は、高天原から送られた弓矢(天の羽々矢)で、自分を監視しに来た雉の鳴女(なきめ)を射殺すという裏切り行為まで働きました。結局、この矢は天まで届き、タカミムスヒが放った力で天若日子は死んでしまいます。
2. 最終交渉:建御雷神(タケミカヅチ)の派遣
度重なる使者派遣の失敗を受け、高天原の神々は、最強の武神を地上に送ることを決定します。
選ばれたのは、武力と威厳を兼ね備えた建御雷神(タケミカヅチノカミ)と、その従者である天鳥船神(アメノトリフネノカミ)でした。
⚔️ 力比べと説得
タケミカヅチは、出雲の伊那佐之小浜(いなさのおはま)に降り立つと、十拳剣(とつかのつるぎ)の切っ先を逆さにし、その切っ先に胡坐をかいて座るという、圧倒的な威圧感をもってオオクニヌシに迫ります。
タケミカヅチはオオクニヌシに対し、「この国は、我が子の御子(天孫)が治めるべきだ。お前はどうするつもりか?」と直談判します。
オオクニヌシは、「私一人では決められない。私の子供たちの意見を聞いてほしい」と答えます。
3. 出雲の神々の決断
タケミカヅチは、オオクニヌシの二人の息子に対し、国譲りの可否を問いかけます。
① 事代主神(コトシロヌシ)の承諾
オオクニヌシの長男である事代主神は、釣りに出かけていました。タケミカヅチが使者を送って彼を問うと、コトシロヌシは即座に国譲りを承諾します。
「父神(オオクニヌシ)の統治してきたこの国を、天つ神の御子に献上いたします。」
そう言って、彼は舟を転覆させ、自ら海に身を隠しました。これは、争いを避ける平和的な降伏の姿勢を示しています。
② 建御名方神(タケミナカタ)の抵抗
次男の建御名方神(タケミナカタノカミ)は、武力に優れた神でした。彼は国譲りを拒否し、タケミカヅチに力比べを挑みます。
タケミカヅチとタケミナカタは、お互いの手を取り合って力比べをしますが、タケミカヅチはタケミナカタの手を葦(あし)の葉のように握りつぶし、打ち負かします。敗れたタケミナカタは信濃国(現在の長野県)へと逃走しますが、タケミカヅチに追い詰められ、ついに降伏を誓います。
4. 国譲りの完成と大国主神の隠退
二人の息子が降伏したことを受け、大国主神はタケミカヅチに対し、最終的な決断を伝えます。
「私の子供たちが承諾した今、私もまた、この葦原中国を天つ神の御子に献上しましょう。ただし、一つ条件があります。」
オオクニヌシが要求したのは、天つ神の御子が高天原の宮殿のように立派な宮殿を建ててくれることでした。この宮殿で、オオクニヌシは自らの姿を隠し(幽居し)、これ以降は見えない世界(神事)の統治を担うことになります。
- 宮殿の建設: 大国主神のために、多芸志の小浜(たぎしのをはま)に壮麗な宮殿が建てられました。
- 役割の交代: オオクニヌシは、現世の統治権(政権)を天孫へ譲り、自らは幽事(かくりごと、神事や霊的な世界)を司る神、すなわち出雲大社に祀られる大神(大国主大神)となったのです。
こうして、武力ではなく対話と威厳によって、地上世界の支配権は平和的に高天原へと移譲され、神話は次の段階である「天孫降臨」へと進むことになります。

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