【書物図鑑】『古事記』民の竈(かまど)から登る煙:仁徳天皇の徳治伝説

『古事記』中巻の最後に記されているのが、第16代仁徳天皇(にんとくてんのう)の物語です。彼は、父である応神天皇とともに大和朝廷の礎を築いた偉大な天皇であり、特に**民を慈しむ「徳」**に溢れた治世で知られています。

仁徳天皇の事績は、単なる歴史の記録を超え、理想的な君主の姿を示す伝説として、後世まで語り継がれています。

この記事では、仁徳天皇の治世を象徴する「民の竈」の伝説と、その治世下で行われた偉業について解説します。


1. 仁徳天皇と「聖帝」の治世

仁徳天皇は、応神天皇の子として生まれます。彼の正式な名は大雀命(おおさざきのみこと)といい、大阪の大雀命(おおさざきのみこと)を名に冠することからも、彼の治世が畿内の中央部に及んでいたことがうかがえます。

彼の治世は、約80年間に及んだとされ、後世の歴史書では**「聖帝(せいてい)」**(聖なる賢明な君主)として称えられています。


2. 伝説:「民の竈は賑わいにけり」

仁徳天皇の治世で最も有名なエピソードが、「民の竈(かまど)」の伝説です。これは、彼の徳治主義を象徴する物語です。

🏚️ 煙が立たない都

ある時、仁徳天皇は、高い山に登って国中を見渡しました。しかし、都のあたりを見回しても、民家から炊事の煙がほとんど登っていないことに気づきます。

天皇は、民の竈から煙が登らないのは、民が貧しくて食べ物を煮る余裕がない証拠であると悟りました。

🕊️ 善政の実行

天皇はすぐに、以下の二つの決断を下しました。

  1. 三年間の租税・徭役(労役)の免除: 全国の人民に対し、三年間にわたってすべての税(租)や労役(役)を免除することを命じました。
  2. 宮殿の修繕停止: 自分の宮殿が破損しても修繕することを禁じ、自らも粗末な生活をしました。

🍲 煙が登るのを見て喜ぶ

三年後、再び山に登って国中を見渡すと、今度はすべての民家から盛んに煙が立ち登っているのが見えました。

これを見た天皇は、「民の竈は賑わいにけり」と喜び、皇后に対し、「私はすでに富を得た。この国は今、豊かになったのだ」と語りました。

皇后が「宮殿は荒れ放題なのに、どうして富を得たと言えるのですか」と尋ねると、天皇は答えました。

「朕(わたし)が高く尊いのは、民が富んでいるからだ。民が富んでいるのは、すなわち朕が富んでいるのだ。」

この言葉は、君主の富とは、民の豊かさの上に成り立つという、古代日本の理想的な統治哲学を示しています。


3. 仁徳天皇の治世下の偉業

民の生活が豊かになった後、仁徳天皇は大規模な公共事業を行い、国内の安定と発展に寄与しました。

🌊 治水事業の開始

  • 難波の堀江の開削: 淀川(よどがわ)の水を大阪湾へ流すための水路、難波の堀江(なにわのほりえ)を開削しました。これにより、水害を防ぎ、海からの舟の往来を容易にし、経済発展の基礎を築きました。

🏞️ 農業の発展

  • 茨田堤の築造: 茨田堤(まむたのつつみ)という大きな堤防を築き、農業用水の確保と水害対策を両立させました。

これらの大規模な土木事業は、民が豊かになった後、自発的に労役に協力した結果として成し遂げられたと記されています。


4. 仁徳天皇陵と巨大な古墳の時代

仁徳天皇の墓とされるのが、現在の大阪府堺市にある大山古墳(だいせんこふん)です。これは、世界最大の墳墓として知られ、仁徳天皇陵としても一般的に知られています。

この巨大な古墳の存在は、仁徳天皇の時代が、後の古墳時代の最盛期であり、大和朝廷の権力が極めて強大であったことを示す、具体的な証拠となっています。

仁徳天皇の治世は、『古事記』の物語において、神話の威光を背景に現実の統治と発展を実現した、古代王権の黄金時代として位置づけられているのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました