はじめに
日本神話に登場する「十種神宝(とくさのかんだから)」は、死者をも蘇らせる霊力を持つとされる秘宝です。
しかし、その行方は、何度となく行方が分からなくなり、所在不明となったことも、時代の移り変わりにより祀られる場所を変えてきました。
この記事では、十種神宝の伝承を追い、その歴史的な歩みをまとめていきます。
【神代】天照大神から饒速日命へ
- 授与の始まり
天照大神は、天孫降臨の際に**邇邇芸命の兄・饒速日命(にぎはやひのみこと)**へ十種神宝を授けました。 - 神宝の力
これらは「生者必死、死人必生(生者も死に、死者も生きる)」とされる霊力を秘め、祝詞とともに用いることで蘇生の力を発揮すると伝えられます。
【降臨期】饒速日命の地上降臨
- 天磐船に乗って降臨
饒速日命は天照大神から大和建国を命ぜられ、その際に十種神宝をさずかり、天磐船で河内国(現在の大阪府河内地方)に降り立ちました。 - 長髄彦の妹を娶る
饒速日命は現地の豪族・長髄彦(ながすねひこ)の妹・三炊屋媛(みかしきやひめ)を妻とし、地上に勢力を広げました。 - 子孫へ継承
このとき、十種神宝は饒速日命から子孫へと伝えられました。
【古代】物部氏による祭祀
- 物部氏の祖神祭祀
饒速日命の子孫である物部氏は、十種神宝を氏族の秘宝として継承していきます。 - 石上神宮(奈良県天理市)
石上神宮は、物部氏の総氏神として古代信仰で重要な役割を担う神社とされ、大和朝廷の武器の保管庫であったとも伝えれれており、十種神宝も納められた神社とされています。 - 物部氏の役割
物部氏は武器庫と神宝を管理する氏族であり、十種神宝はその権威を裏付ける象徴でした。
【大和王権成立期】石上神宮へ集約
- 石上神宮(奈良県天理市)
物部氏の総氏神である石上神宮に、神宝が奉斎されるようになりました。 - 神宝の国家管理
石上神宮では布都御魂剣などと並び、十種神宝も国家的祭祀の対象になったと伝えられています。 - 「先代旧事本紀」の記録
後世の史書『先代旧事本紀』には、十種神宝が石上神宮に伝わったことが明記されています。
信長公による焼き討ちで所在不明に
永禄11年足利義昭公が信長公と共に上洛を果たし、征夷大将軍となって室町幕府15代将軍となった。
しかし、義昭公は次第に信長と敵対関係になっていき、それに伴って畿内の主な大名や神社仏閣に呼びかけたため、義昭公が呼びかけた大名や神社仏閣は信長公と対立し始めた。
やがて大名や神社仏閣は手を組んで信長討伐に臨むが、信長もそれに対し反撃し、敵対する大名を制し、本願寺等を弾圧、焼き討ち等を行った。
天正元年8月に石上神宮も例外なく信長公から弾圧を受け、焼き討ちとなり財宝は奪われ十種神宝についても持ち去られた。
十種神宝は心ある武士により保護されたとのことであるが詳細はわかっていない。
秀吉公による奉納
信長公が明智光秀の謀反にあい、本能寺で自害した後、天下は豊臣秀吉公により一統された。
十種神宝は心ある武士により保護されていたが、秀吉公が十種神宝の話を聞きつけ、その有難さと因果に驚く十種神宝について生魂の森深く永遠に静まりませと生魂の森へ納め奉った。
「ええじゃないか」暴徒により所在不明に
その後時は流れ、江戸時代末期になり討幕運動が盛んになったころ、伊勢神宮に御札が舞ったと「ええじゃないか」と人々が踊り狂い、「世直し」騒動と共に世は乱れ、富豪の家に人々が押し入り踊暴れ、暴徒は神社仏閣にまでも押し入って荒れ狂った。
生魂の宮も同様に襲われ、十種神宝も暴徒のほしいままにされ、そのまま姿を消し、所在不明となった。
町の小道具屋での偶然の発見
その後、町の古道具屋の店頭に十種神宝が売られていたところを、喜連に棲む小林某なる人物により偶然発見され、小林は十種神宝を購入し自宅で祀ったとされる。
楯原神社への奉納
しかし、小林某も当地を離れることとなり、その時に浅井氏というものにわたったが、浅井氏もまたこの地の旧家である増池氏に預け、増池氏が崇敬の志高く、十種神宝を楯原神社へ奉納した
【その後】伝承の消失と神話化
- 実物の行方は不明
現在、十種神宝の実物は伝わっていません。 - 秘儀としての継承
神宝そのものは失われましたが、**「十種神宝の祝詞」**や「蘇りの信仰」として、その霊力の思想は神道の中に受け継がれています。 - 信仰の象徴へ
今日では、十種神宝は「再生」「蘇り」の象徴として、延命長寿や病気平癒の祈りに結びついています。
まとめ
十種神宝の行方を時系列に整理すると、
- 神代:天照大神 → 饒速日命へ授与
- 降臨期:饒速日命が地上に降臨し、子孫(物部氏)に継承
- 古代:石上神宮に祀られることとなった。
- 大和王権期:石上神宮に集約され、国家的祭祀の対象に
- 後世:実物は失われ、信仰の象徴として伝承
となります。
十種神宝は姿を消しても、その「蘇りの力」の伝承は今も生き続けているのです。
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