【書物図鑑】『古事記』三韓征伐と皇子の誕生:「神功皇后と応神天皇」の伝説

『古事記』中巻において、第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇后であった神功皇后(じんぐうこうごう)と、彼女が生んだ皇子、後の第15代応神天皇(おうじんてんのう)の物語は、日本古代史の伝承の中でも特に異彩を放つエピソードです。

この神話は、**海外遠征(三韓征伐)**と、異例の皇位継承という劇的な要素を含んでいます。

この記事では、神功皇后の託宣から応神天皇の誕生、そしてその後の治世の始まりまでを解説します。


1. 神功皇后と仲哀天皇の時代

神功皇后は、第14代仲哀天皇の皇后です。仲哀天皇は、九州の熊曽(くまそ)を征伐するために九州へ向かいますが、この地で物語の重要な転換点が起こります。

⛩️ 神の託宣(たくせん)と仲哀天皇の死

九州で熊曽征伐を行っていた仲哀天皇に対し、皇后である神功皇后を通じて、神の託宣(神のお告げ)が下されました。

  • 神のお告げ: 「熊曽を攻めるより、宝の国である海の向こうの国(新羅とそれに続く朝鮮半島南部の国々)を攻めなさい。そうすれば、戦わずして服従するだろう。」

しかし、仲哀天皇は「海のかなたに国があるなど、偽りである」と神のお告げを信じず、琴を弾くのをやめて神の宿る殿から離れたところ、その直後に病で急死してしまいます。

この出来事は、神の意志を無視したことへの罰と解釈され、神功皇后は、亡き夫に代わって神の託宣に従うことを決意します。


2. 皇后の遠征:「三韓征伐」

仲哀天皇の死後、神功皇后は、神のお告げ通りに海を渡る遠征を決行します。これが三韓征伐と呼ばれる物語です。

🚢 妊娠と出産時期の調整

この時、神功皇后はすでに仲哀天皇の子を身ごもっていました。しかし、出産の時が迫ると遠征が困難になるため、彼女は呪術的な力(玉や紐など)を用いて出産時期を遅らせるという驚異的な行為を行います。

準備を整えた皇后が海に乗り出すと、海神の助けもあり、船は荒波を越えて新羅(しらぎ)を目指しました。

👑 新羅の降伏

神功皇后の軍団が新羅の海域に到着すると、新羅の王は軍勢を見ることなく、その威光に恐れおののきました。

新羅王は自ら皇后の船の前にやってきて、「今後、永遠に日本の馬飼部(うまかいべ)となり、海を渡って貢物を捧げ続ける」と誓って降伏します。その後、**百済(くだら)高句麗(こうくり)**の一部も、その威勢を恐れて服従を誓ったと記されています。

これにより、神功皇后は戦うことなく、三韓を服属させるという偉業を成し遂げ、無事に帰国します。


3. 応神天皇の誕生と即位

神功皇后が帰国したのは、筑紫(現在の福岡県)の宇美(うみ)という場所でした。そこで、出産を遅らせていた皇子を無事に出産します。

  • 皇子の名: この皇子は、後に品陀和気命(ほんだわけのみこと)と名付けられ、第15代応神天皇となります。
  • 「応神」の名: 「応神」という名は、『古事記』には記されていませんが、この神功皇后の遠征時に**神の託宣(応神)**を受けて生まれた子という意味合いも込められています。

⚔️ 皇位継承の争い

神功皇后が皇子を抱えて大和へ戻ると、仲哀天皇の別の皇后の子である香坂王(かごさかのおう)と忍熊王(おしくまのおう)が皇位を狙い、反乱を起こします。

神功皇后は、神々の助けを得て、この反乱を鎮圧し、自らは皇子の摂政として政治を執り行います。


4. 応神天皇の治世の開始

神功皇后による摂政の時代が終わり、品陀和気命が応神天皇として即位します。

応神天皇の時代は、大陸との交流が本格化し、日本の国家体制が大きく発展した時代と位置づけられています。

  • 外来文化の受容: 新羅や百済などから、技術者(工人)や学者が渡来し、文字や機織りなどの文化が日本へともたらされました。
  • 新時代の象徴: 応神天皇は、神話時代と歴史時代を繋ぐ重要な天皇と見なされており、後の世では八幡神(やわたのかみ)として神格化され、武運の神として広く信仰されることになります。

神功皇后と応神天皇の物語は、皇室の権威を確立し、後の日本の外交や文化の発展に影響を与えた、力と信仰の物語として語り継がれています。

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