【書物図鑑】『古事記』日本初の女帝の治世!が記す推古天皇と飛鳥時代の始まり

『古事記』は神話時代から物語を語り継ぎ、その記述の終盤に登場するのが、第33代豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)、すなわち推古天皇です。

彼女は日本史上初の女性天皇であり、叔父である蘇我馬子と甥である厩戸皇子(うまやどのひみこ、聖徳太子)という二大実力者の補佐を受けながら、古代日本の歴史を大きく動かした画期的な時代を築きました。

ここでは、『古事記』を中心に、この重要な治世について解説します。


1. 推古天皇の即位と背景

推古天皇(豊御食炊屋比売命)は、父に欽明天皇、母に蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)を持ち、蘇我氏の血を引く皇族でした。

前代の崇峻天皇が蘇我馬子によって暗殺されるという異例の事態の後、混乱を収束させるため、有力な皇族であり、蘇我氏とも深いつながりを持つ彼女が擁立され、即位します(593年)。

『古事記』のこの時代についての記述は、主に天皇の系譜、皇居の所在地、そして主要な政治的人物の配置に焦点を当てています。

  • 皇居: 飛鳥の豊浦宮(とようらのみや)に宮殿を置きました。
  • 大臣(おおおみ): 蘇我馬子(そがのうまこ)。物部氏を滅ぼし、朝廷の最大実力者として政治を主導しました。
  • 皇太子: 厩戸皇子(うまやどのひみこ、聖徳太子)。叔母である推古天皇を補佐し、政治の中枢を担います。

2. 聖徳太子による政治改革(『古事記』外の事績も含む)

『古事記』自体は、後の『日本書紀』ほど詳細に聖徳太子の事績を記していませんが、推古天皇の治世の大きな特徴は、この厩戸皇子(聖徳太子)による数々の改革と、蘇我氏との協調体制にありました。

推古天皇の治世で行われた、日本の国家体制の基礎を築いたとされる主要な改革は以下の通りです。

改革/出来事概要目的
遣隋使の派遣小野臣妹子(おののおみいもこ)らを隋(中国)へ派遣。対等な外交関係を樹立し、先進的な隋の文化や制度を導入すること。
冠位十二階家柄に関係なく、個人の能力や功績に応じて官位を与える制度を制定。有能な人材を登用し、氏族間の身分秩序を整備すること。
仏教の隆盛聖徳太子は四天王寺を建立し、蘇我馬子は**飛鳥寺(法興寺)**を建立。仏教を国家の宗教として積極的に推進し、国際的な権威と文化を高めること。

これらの改革により、大和政権は中央集権国家としての基礎を固め、国際社会における地位を向上させました。


3. 『古事記』終盤が語る意味

『古事記』の本文は、推古天皇の後に即位した舒明天皇の時代に一旦記述が止まります。推古天皇の治世が『古事記』で重要なのは、以下の理由からです。

  1. 皇統の連続性: 神代から続く天皇の系譜を、推古天皇の時代まで途切れなく記すことで、皇室の正統性を証明しています。
  2. 歴史の始点: 推古朝は、女性天皇の登場仏教の本格的な受容、そして外交の開始という、日本の歴史が古代国家として本格的に始動した「歴史の始点」として描かれています。

🕊️ 聖徳太子の死と推古朝の終焉

推古天皇の治世は、聖徳太子が亡くなる(622年)、そして蘇我馬子が亡くなる(626年)という重要な出来事を経て続きました。

聖徳太子と蘇我馬子という二つの巨星を失った後、推古天皇も崩御(628年)し、その死後、再び皇位継承を巡る混乱が起こります。

『古事記』は、神話から続く物語をこの推古天皇の時代、すなわち飛鳥文化が花開いた激動の時代で区切りをつけ、古代日本の成立を完成させたのです。

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