神 様 図 鑑
ふじわらのすみとも 藤原純友
瀬戸内の海賊王・承平天慶の乱「西の反乱」の主役 / 海賊取締役人から海賊の首領へ転身したエリート武将 / 西国の海を制した「海の将門」
基本情報
① 人物と出典
| 正式名称 | 藤原純友(ふじわらのすみとも)日本紀略・将門記・今昔物語集ほか |
|---|---|
| 生没年 | 寛平5年(893年)頃〜天慶4年(941年)6月。享年49歳前後。生年は史料によって890年代とする説が複数あり確定していない。没年は天慶4年(941年)に伊予国で伊予国警固使・橘遠保(たちばなのとおやす)に捕縛・獄中死(一説では射殺)したとされる。 |
| 出自・系譜 | 藤原北家(摂関家として最も栄えた藤原氏の主流)の出身。祖父は右大弁(うだいべん)・藤原遠経(とおつね)、父は大宰少弐(だざいのしょうに)・藤原良範(よしのり)。父・良範の早世のため都での出世の道が断たれ、父の従兄弟・伊予守・藤原元名(もとな)に従って伊予国(愛媛県)へ赴任した。当時の摂政・藤原忠平の政治的な近しさも純友の権力基盤のひとつとされる。 |
| 初出文献 | 日本紀略(にほんきりゃく)・承平天慶の乱関連の官文書・今昔物語集(巻第二十五)。平将門の乱が「将門記」という専門の軍記物語を持つのに対し、純友の乱については専門文献が少なく、日本紀略(正史の摘要集)や各地の国司報告が主な史料となっている。日本紀略・今昔物語集 |
| 神様の種類 |
人神(ひとがみ)——承平天慶の乱「西の反乱」の主役・瀬戸内の海の守護神 岡山県倉敷市下津井の松島にある純友神社、愛媛県新居浜市種川町・新高神社内の中野神社では、純友を主祭神として祀っている。瀬戸内海を制した海賊王として、航海安全・海上守護という神格でごく限られた地域に祀られている稀少な神。 |
② 平将門との「東西同時反乱」——承平天慶の乱の全体像
10世紀に西海を中心に起こった反乱事件で、山陽・九州・四国と京を結ぶ物資輸送の大動脈である瀬戸内海には、9世紀中葉以降海賊が出没していた。939年に関東で平将門が「新皇」を宣言したほぼ同時期に、純友は瀬戸内海で挙兵した。将門の乱(陸・関東)と純友の乱(海・西国)が同時進行したことで朝廷は「東西両面作戦」という未曾有の危機に直面した。共謀説(比叡山での密約)は後世の創作とされるが、歴史的な「偶然の一致」が日本の政治史を大きく動かした。
- 舞台
- 関東(下総・常陸ほか坂東8か国)
- 方法
- 陸上の戦闘・国府占領・「新皇」宣言
- 期間
- 939年12月〜940年3月(約3か月)
- 最期
- 藤原秀郷・平貞盛に討たれ戦死
- 現在
- 神田明神・将門塚で今も祀られる
- 舞台
- 瀬戸内海〜九州(大宰府まで)
- 方法
- 海上の戦闘・大宰府占領・船1000艘超
- 期間
- 939年12月〜941年6月(約2年)
- 最期
- 橘遠保に捕縛・獄中死(一説射殺)
- 現在
- 純友神社(岡山)・中野神社(愛媛)
③ 活躍した時代
最終的には追捕使によって鎮圧されましたが、この事件を通じて都の貴族は自分たちの非力さを実感しました。平将門の乱とともに、武力を持つ「武士」という存在が政治的に重要視される大きな転換点となりました。純友の時代は中央の藤原摂関政治が全盛を迎える一方、地方では貴族制度の矛盾が限界に達しつつあった転換期でもある。
祀られる神社・縁の地
歴史——純友の乱の全経緯
純友の乱の経緯(936〜941年)
「なぜ純友は海賊になったのか」——律令制の矛盾と地方の苦しみ
当時の摂政家として栄えた藤原北家の出身だった藤原純友は早くに父を失い都での出世を諦めざるを得なかった。純友がかつて討伐していた海賊は朝廷改革で人員削減された富豪の舎人たちだが、純友の組織した海賊はそれとは性質が違い、純友の様に親の早逝で階級社会の競争から脱落したが武功でのし上がろうとする者たちだった。純友の海賊団は「中央社会から弾き出された人々の集まり」という性質を持っており、平将門の「東国武士の反乱」と同様に「律令制度の矛盾が爆発した歴史的事件」として理解できる。朝廷の腐敗した体制に毅然と立ち向かった武士の1人との見方もできるのではないだろうか。
日振島の財宝伝説——純友が沈めたとされる宝が今も海底に眠る?
純友の根拠地・日振島(愛媛県宇和島市沖)には「純友が討ち取った国司や商船から奪った財宝を島のどこかに隠した」という財宝伝説が語り継がれている。1000艘の船団を率いた純友が10年近く瀬戸内海を支配した期間に集積した財宝は相当なものだったとされ、博多津の決戦で敗走した際に「宝を海に沈めた」という伝承もある。現代でも日振島周辺の海底調査で中世の陶器・武具が発見されており、純友の財宝伝説の信憑性を高めている。島の細長い地形・豊かな漁場・険しい山という自然条件は、「天然の要塞」として1000艘の海賊船を隠す根拠地に最適な場所だったことを物語っている。
逸話・エピソード
藤原純友が後に海賊の首領となる前、伊予掾(いよのじょう)として瀬戸内海の海賊鎮圧を任された頃のエピソードが特に印象深い。朝廷の一般的な方針は「軍事力で海賊を壊滅させる」ことだったが、純友は異なるアプローチをとった。純友は海賊と直接交渉を行い、2,500名余りを一斉に投降させた。武力で鎮圧するのではなく、交渉で解決したところに、すでに当時より藤原純友が海賊たちの信頼を得ていたことが見て取れる。この「武力ではなく対話・信頼で人を動かす」能力こそが、後に純友が1000艘を超える大海賊団を組織できた根拠でもある。対話の達人が対話を超えた暴力の道に踏み込まざるを得なかった——という悲劇的な逆説が、純友という人物の複雑さを示している。
承平天慶の乱において、一般的に知名度が高いのは「東の将門」の平将門だが、実際の反乱の継続期間・朝廷への打撃という点では「西の純友」の藤原純友の方が上回っている面がある。将門が939年12月に挙兵して940年3月に討たれるまでわずか約3か月だったのに対し、純友は939年12月から941年6月まで約1年半にわたって朝廷を苦しめ続けた。さらに将門が達成できなかった「大宰府の占領」を純友は実現しており、日本史上唯一の「大宰府陥落」という歴史的事件を成し遂げた。にもかかわらず将門に比べて知名度が低い理由は、「将門記」という詳細な軍記物語が残っているのに対し、純友の乱を詳述する専門文献が少ないという史料の偏りにある。
1976年には平将門と藤原純友の生き様を描いた大河ドラマ「風と雲と虹と」が放映された。緒方拳が演じる藤原純友は貴族のことを「国家と言う大木に巣食うシロアリ」と呼んだ。原作は海音寺潮五郎の小説『海と風と虹と』(後に映像化に合わせて題名変更)。この大河ドラマは純友を「腐敗した藤原貴族社会に敢然と立ち向かった海の英雄」として描き、それまで知名度の低かった純友を全国的に有名にした。「国家と言う大木に巣食うシロアリ」というセリフは、律令制の矛盾・貴族社会の腐敗への批判として当時の視聴者の共感を呼んだ。現代の純友評価——「中央社会の理不尽に抗した英雄」——はこの大河ドラマの影響が大きい。
ご利益
1000艘の船団を率いて瀬戸内海全域を制圧した純友は、航海安全・海上守護というご利益で瀬戸内海沿岸地域に祀られています。また「エリート官人から海賊の首領へ」という劇的な転身・「武力ではなく交渉で2,500人を動かした」という対話の力・「2年にわたり朝廷に抗い続けた」という不屈の意志から、転職・開拓・逆境突破・交渉力というご利益も信仰されています。

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