スポンサーリンク

【仏様図鑑】迦葉(かしょう)-十大弟子の頭陀第一・摩訶迦葉、経典の結集と拈華微笑の謎

仏様図鑑
迦葉(かしょう)は、お釈迦さまの十大弟子の一人で、「頭陀第一(ずだだいいち)」と呼ばれた人です。お釈迦さまが亡くなったあと、弟子たちをまとめて教えを確かめ合う会議を開きました。

この記事でわかること

  • 迦葉が「頭陀第一」と呼ばれた理由と、お釈迦さまと衣を取りかえた話
  • お釈迦さまの火葬の火が、迦葉が着くまでつかなかったという経典の物語
  • 【謎】経典づくりの会議を取りしきった迦葉への受けつぎが、なぜ「拈華微笑(ねんげみしょう)」という言葉のない場面で語られたのか

お寺の本堂で、お釈迦さまの横に立つおじいさんのお坊さん。その人こそ、仏教を後の世に残した立役者かもしれません。

01. 迦葉(摩訶迦葉)の基本情報

迦葉(かしょう)基本情報
分類 羅漢・祖師(らかん・そし/十大弟子の一人)
読み方 かしょう
別名 摩訶迦葉(まかかしょう)、大迦葉(だいかしょう)、迦葉波(かしょうは)。
「摩訶」は「大きな」という意味です。同じ名前のほかの弟子と区別するためにつけます
梵名(ぼんみょう) マハーカーシャパ(Mahākāśyapa)。パーリ語ではマハーカッサパ(Mahākassapa)
若いころの名前 ピッパラーヤナ(漢字で畢鉢羅耶那〈ひっぱらやな〉)。ピッパラ樹の下で生まれたことにちなむとされます
出身 古代インドのマガダ国、王舎城(おうしゃじょう)近くの村とされます(諸説あり)。バラモン(祭司の家柄)の出
称号 頭陀第一(ずだだいいち)。頭陀とは、衣・食・住への欲を捨てる、きびしい修行のことです
真言・種子字(しゅじじ)・ご縁日 確認できる資料では見つからなかった(本記事では省略)
💡 出典:別名・梵名・幼名・出身(諸説あり)はWikipedia「摩訶迦葉」。頭陀第一・王舎城付近のバラモン出身・第一結集はコトバンク(日本大百科全書〈ニッポニカ〉・世界大百科事典)。

02. 迦葉とは? ― 頭陀第一の弟子で、経典づくりの会議の長

① 一言まとめ

迦葉は、お釈迦さまの十大弟子の一人です。ぜいたくをきびしく遠ざける修行を一番まじめに続けたので、「頭陀第一」と呼ばれました。仏様ではなく、実在したとされるお坊さんです。

② 生涯と経典上の位置づけ

迦葉は、マガダ国のバラモンの家に生まれました。妻のバッダー・カピラーニ(妙賢〈みょうけん〉)とは、おたがいに出家したい気持ちを確かめ合い、そろって出家したと伝わります。

やがて迦葉はお釈迦さまに出会い、弟子になります。お釈迦さまは、迦葉と衣(ころも)を取りかえたといいます。迦葉は自分の上等な衣を差し出し、ぼろぎれをつないだお釈迦さまの衣(糞掃衣〈ふんぞうえ〉)を受け取りました(『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』などに見える話)。

お釈迦さまが亡くなったあと、迦葉は弟子たちを集めました。そして、教えと決まりを、みんなで声に出して確かめ合います。これを「第一結集(だいいちけつじゅう)」といい、迦葉はその議長役でした。教え(経)は阿難が、決まり(律)は優波離(うぱり)が声に出して唱え、迦葉がそれを取りしきったと伝わります。今に伝わるお経のもとは、ここで形づくられたとされます。

大乗のお経にも、迦葉は登場します。『法華経』の授記品(じゅきほん)では、将来「光明如来(こうみょうにょらい)」という仏になると約束されます。

そして迦葉の最期には、ふしぎな伝えがあります。唐の玄奘(げんじょう)の旅行記『大唐西域記(だいとうさいいきき)』によると、迦葉は鶏足山(けいそくせん)に入りました。

手には、お釈迦さまの育ての母(摩訶波闍波提〈まかはじゃはだい〉)が献じた、金の糸で織った袈裟(金縷袈裟〈きんるけさ〉)。それを捧げ持つと、山の3つの峰が迦葉を包みこんだといいます。未来の仏・弥勒菩薩(みろくぼさつ)が現れたとき、その袈裟を手わたすためだと伝えられます。

③ 姿の特徴 ― 年老いた修行者の顔

迦葉の像は、きびしい修行を積んだ年配の僧として造られることが多いのが特徴です。深いしわのある顔、やせて骨ばった体であらわされます。手に持つ道具の決まりは、とくにありません。

日本や中国のお寺では、釈迦如来の両わきに、迦葉と阿難(あなん)の2人の僧が立つことがあります。迦葉は老僧、阿難は若い僧としてあらわされます。

たとえば千葉県長柄町(ながらまち)の眼蔵寺(げんぞうじ)の像(県指定文化財)では、迦葉は老いた顔で、少し前かがみになり、胸の前で手を組んで立っています(千葉県教育委員会の文化財解説)。

03. 迦葉とご縁のある祈り ― 修行・質素な暮らし

🧘 修行を続ける力
🍚 足るを知る心
📜 教えを受けつぐ
🤝 仲間をまとめる力

迦葉は、持ち物を減らし、食べ物も住まいも最低限ですませる頭陀の修行者でした。そのため、決まったご利益をさずける仏様というより、「足るを知る暮らし」の手本として親しまれてきました。

こんな人におすすめ

  • ものを減らして、身軽に暮らしたいと思っている人
  • 習いごとや仕事で、地道な努力をこつこつ続けている人
  • リーダーが去ったあとのチームを、まとめる立場になった人

結びつきの根拠:迦葉は、衣・食・住への欲を捨てる頭陀の修行で第一とされました。また、お釈迦さまが亡くなったあと、第一結集を開いて教えを守りました。

注目したいのは、結集のやり方です。迦葉は自分ひとりで教えを決めませんでした。弟子たちが集まり、覚えている言葉を声に出して、みんなで確かめたのです。リーダーを失ったチームを「ひとりで引っぱる」のではなく「みんなで確かめる」。迦葉が「仲間をまとめる力」の手本とされるのは、そのためです。

04. 迦葉と関連する仏様・人物

釈迦如来(しゃかにょらい)迦葉の師。衣を取りかえ、教えをたくしたと伝わる。
阿難(あなん)お釈迦さまのいとこで「多聞第一」。迦葉とともに釈迦如来の脇に立つ若い僧。迦葉のあとを継いだとされる。
舎利弗(しゃりほつ)「智慧第一」の弟子。お釈迦さまより先に亡くなった。
目連(もくれん)「神通第一」の弟子。舎利弗の親友。
弥勒菩薩(みろくぼさつ)未来の仏。迦葉はこの仏に袈裟をわたすため、山で待つと伝わる。
達磨大師(だるまだいし)禅宗の伝えでは、迦葉から数えて28代目とされる祖師。中国に禅を伝えた。

05. 迦葉に会える寺院 ― 崇福寺・眼蔵寺・大報恩寺

  • 崇福寺(そうふくじ/長崎県長崎市)― 国宝の大雄宝殿(だいゆうほうでん)に、釈迦如来坐像と、迦葉・阿難の立像がまつられます。向かって右が迦葉、左が阿難です。中が空洞の乾漆像(かんしつぞう=布と漆で形づくる像)で、中国の仏師の作です。像の中からは、内臓をかたどった銀の模型(五臓)が見つかりました。どの像から出たかは資料に書かれていません。五臓には1653年(承応〈じょうおう〉2年)の墨書(ぼくしょ)がありました(長崎県指定文化財)。拝観時間・料金は寺の案内で確認してください。
  • 眼蔵寺(げんぞうじ/千葉県長生郡長柄町)― 鎌倉時代の釈迦如来坐像と、迦葉・阿難の立像が伝わります(千葉県指定文化財)。脇の2体は、鎌倉時代後期の作と見られています。いつでも拝観できるかは確認できていないため、事前に問い合わせてください。
  • 大報恩寺(千本釈迦堂/京都市上京区)― 快慶とその工房による晩年の作とされる十大弟子立像(重要文化財)が10体そろい、十大弟子の一人として迦葉の像も含まれます。霊宝殿(れいほうでん)で拝観できます。
📅 出典:崇福寺の像は長崎市の文化財ページ。眼蔵寺の像は千葉県教育委員会の文化財解説(長柄町のデジタルアーカイブも参照)。大報恩寺の十大弟子立像は東京国立博物館「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」(2018年)の出品目録と大報恩寺公式。拝観料・時間・公開の有無は時期によって変わるため、お出かけ前に確認してください。

06. 迦葉の見分け方 ― 阿難・ほかの十大弟子との違い

  • ✅ お釈迦さまの横の「年配の僧」:釈迦如来の両わきに2人の僧が立っていたら、年配のほうが迦葉、若いほうが阿難のことが多いです。
  • ✅ 老いと修行のきびしさが見える姿:深いしわ、やせた体、少し前かがみの姿勢。胸の前で手を組む像もあります(眼蔵寺の例)。若々しくまっすぐ立つ阿難とくらべると、ちがいがよくわかります。
  • ✅ 左右はお寺によってちがう:長崎の崇福寺では向かって右が迦葉です。左右の決まりは一つではないので、名札や案内で確かめましょう。
  • ✅ 花を見てほほえむ僧:禅の絵で、お釈迦さまが花をかかげ、ひとりの僧がほほえんでいたら、それは迦葉です(「10」の拈華微笑の場面)。
💡 「迦葉」という名前の弟子は、ほかにもいます(ウルヴェーラ・カッサパなどの「三迦葉〈さんかしょう〉」)。この記事の迦葉は、区別のために「摩訶迦葉」「大迦葉」とも呼ばれる人です。

07. 迦葉の物語コラム ― 火がつかなかったお釈迦さまの火葬

お釈迦さまが、クシナガラの地で亡くなりました。そのとき迦葉は、500人の弟子たちと旅の途中でした。

道で迦葉は、天の花(マンダーラヴァ)を手にした、別の教えの修行者に出会います。その人が言いました。「あなたがたの先生は、7日前に亡くなりました」。弟子たちの多くは泣きくずれました。

ところが、その中でスバッダという僧が、こう言ったのです。年をとってから出家した人でした。

「もう、あれをしてはいけない、これをしてはいけないと言われずにすむ。これからは好きなようにできる」

迦葉は、この言葉を胸にとめたまま、道を急ぎました。

クシナガラでは、マッラ族の人々が火葬の準備をしていました。ところが、薪(たきぎ)に火をつけようとしても、どうしてもつきません。弟子の阿那律(あなりつ)が言いました。「神々は、迦葉が来るのを待っているのです」。

迦葉が着き、お釈迦さまの足もとに頭をつけて礼拝しました。すると、薪にひとりでに火がついた、と経典は伝えます。

のちに迦葉は、あのスバッダの言葉を思い出します。このままでは、教えも決まりも、ばらばらになってしまう。そこで迦葉は、教えを確かめ合う会議(第一結集)を開くことにしたのです。

📖 パーリ語の『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』の話をもとに、やさしく言いかえました。セリフは意訳です。
このスバッダは、お釈迦さまの最後の弟子になった同じ名前の修行者とは別の人です。スバッダの言葉が第一結集のきっかけになったことは、律蔵(りつぞう=お坊さんの決まりをまとめた書)の伝えによります。
火がつかなかった場面やスバッダの場面は、後の時代に加えられた話だとみる研究者もいます(英語版Wikipedia「Mahākāśyapa」)。

08. 摩訶迦葉(迦葉)のまとめと関連記事

この記事でわかったこと

お寺でお釈迦さまの横に立つ老僧を見かけたら、「迦葉さんかな」と名札をのぞいてみてください。

09. ゆる仏様トーク ― 迦葉編

🍵 ゆる仏様トーク①(たとえ話)

迦葉は、今でいえば「創業者が亡くなったあと、会社の理念と社内ルールをまとめ直したベテラン役員」です。しかも本人は、ぜいたくを一番きらう人。……社長室には、たぶん何も置いていません。

🍵 ゆる仏様トーク②(ツッコミ)

大切な人とのお別れに、どうしても間に合いたい人がいる。迦葉は7日の道のりを急ぎました。そして経典では、火葬の火まで迦葉の到着を待っていたと語られます。──そう、神々さえ到着を待ったと語られるほどの弟子だったのです。

🍵 ゆる仏様トーク③(ひとこと)
「持ち物は少なく。受けついだものは、大切に。」

※経典の言葉ではなく、迦葉の生き方をもとにイメージしたセリフです。

10. 迦葉の謎 ― 経典づくりの会議の長への受けつぎは、なぜ「拈華微笑」という言葉のない場面になったのか

【謎】お釈迦さまの言葉を経典にまとめる会議を取りしきった迦葉。その迦葉が教えを受けついだ場面を、禅宗はなぜ「だまって花を見せ、ほほえむ」という言葉のない物語で語ったのか?
【事実の整理】① 迦葉は、お釈迦さまの死後に第一結集を開き、教えと決まりを確かめ合った議長役です。経を唱えたのは阿難、律を唱えたのは優波離ですが、その場を取りしきったのが迦葉でした。つまり迦葉は、「言葉としての教え」を残す会議の長だったのです。
② 迦葉がお釈迦さまの教えを受けついだ最初の人だ、という考えは古くからあります。5世紀の漢訳と伝わる『付法蔵因縁伝(ふほうぞういんねんでん)』(6世紀に中国で作られたとみる説もあり、諸説あり)は、教えを受けついだ人を「摩訶迦葉→阿難→…」の順に並べています。つまり、迦葉が「最初の受けつぎ手」なのは、禅宗より前からの決まりごとでした。
③ 禅宗には「拈華微笑」の話があります。お釈迦さまが霊鷲山(りょうじゅせん)で、だまって花をかかげました。だれも意味がわからない中、迦葉だけがほほえみます。こうして、言葉によらない教えが迦葉に伝わった、という話です。
この話は、禅の「不立文字(ふりゅうもんじ=悟りは文字では伝わらない)」「教外別伝(きょうげべつでん=経典の外で心から心へ伝える)」の考えのもとになりました。
④ ただし、この話はインドの古い経典には見当たりません。今残る一番古い記録は、中国・宋の時代の禅の書『天聖広灯録(てんしょうこうとうろく)』(1036年)とされます。そこでは「拈華」ではなく「持華(花を持つ)」と書かれています。「拈華微笑」の決まった形は、1183年の『聯灯会要(れんとうえよう)』に見られます。
⑤ いっぽう、もっと古い経典には、お釈迦さまと迦葉が「衣を取りかえた」話があります。このとき迦葉は、自分を「世尊(お釈迦さま)の法の子」だと語ったとされます(『雑阿含経』など)。また『大唐西域記』では、迦葉はお釈迦さまの袈裟を持って鶏足山に入り、弥勒菩薩に手わたす日を待つと伝えられます。
⑥ 禅宗でも、袈裟は教えを受けついだしるしとされました。達磨大師から伝わった袈裟を、5代目の弘忍(ぐにん)の命で慧能(えのう)が持って逃げた、という伝えがあります(Wikipedia「慧能」)。
【私の考察】②のとおり、迦葉が最初の祖であることは、禅宗が決めたことではなく、昔からの決まりでした。また、⑤の衣の交換が「正しく受けついだしるし」と読まれることも、すでに広く知られた見方です(Wikipedia「摩訶迦葉」など)。私が考えたいのは、その先です。禅宗は、なぜその受けつぎの場面を、わざわざ「言葉のない場面」に描き直したのでしょうか。
手がかりは、①と④のずれです。迦葉は、経典という「言葉」をまとめる会議の長でした。禅宗はその人を祖としながら、「教えは経典の外で伝わる」とかかげました。ふつうに考えれば、矛盾しているように見えます。
でも、⑤⑥を見ると、迦葉にはもともと「言葉ではないもの(衣)を受け取った弟子」という姿がありました。そして禅宗も、衣を受けつぎのしるしにしていました。つまり禅宗は、新しい祖を作ったのではありません。昔からあった「衣を受けた迦葉」の姿に、「花とほほえみ」という場面を重ねたのだと私は考えます。
そうすれば、「言葉の教え(経典)」をまとめる場の長だった迦葉が、同時に「言葉の外の教え」も受け取っていたことになります。禅の教えは、経典と対立するものではなく、経典づくりを取りしきった人そのものに受けつがれた――。拈華微笑は、そう語るための場面だったのではないでしょうか。
【結論(あくまで推測)】迦葉が最初の祖なのは昔からの決まりでした。禅宗がそこに加えたのは、受けつぎの「場面」です。経典づくりの会議の長に、言葉のない形で教えが伝わったと描くことで、「言葉の教え」と「言葉の外の教え」を一人の弟子のもとで一つにつないだのかもしれません。ただし、宋の禅僧たちがそう考えて話を作ったと書いた資料は、確認できていません。あくまで私の考察です。あなたはどう思いますか?
💡 出典:①はコトバンク(日本大百科全書・世界大百科事典)。②は『付法蔵因縁伝』(大正新脩大蔵経〈たいしょうしんしゅうだいぞうきょう〉の2058番。472年に吉迦夜〈きっかや〉・曇曜〈どんよう〉が訳出と『出三蔵記集〈しゅつさんぞうきしゅう〉』に記録)。③④はWikipedia「拈華微笑」。『大梵天王問仏決疑経〈だいぼんてんのうもんぶつけつぎきょう〉』にも同じ話がありますが、後の時代に作られた経典〈偽経=ぎきょう〉とされます(これを初出とみる説もあります)。⑤はWikipedia「摩訶迦葉」と『大唐西域記』巻9。⑥はWikipedia「慧能」。

11. 迦葉データベース早見表

項目 内容
分類 羅漢・祖師(十大弟子)
読み方 かしょう(摩訶迦葉=まかかしょう、大迦葉=だいかしょう)
梵名 マハーカーシャパ(パーリ語:マハーカッサパ)
称号 頭陀第一
おもな役目 第一結集の議長役。禅宗では西天(インド)の第一祖
真言・ご縁日 確認できる資料では見つからなかった
ゆかりの祈り 修行を続ける力・足るを知る心(象徴として)
仏になったときの名(法華経) 光明如来(こうみょうにょらい)
ゆかりの話 衣の交換、火葬の火、第一結集、拈華微笑、鶏足山
代表的な像 長崎・崇福寺の迦葉尊者立像(県指定)、千葉・眼蔵寺の迦葉立像(県指定)、大報恩寺の十大弟子立像(重要文化財・快慶らの作とされる)

コメント

タイトルとURLをコピーしました