大阪府高槻市から茨木市にかけて広がる、古代の「三島(みしま)」と呼ばれた一大開拓地。北摂の豊かな新興住宅街のなかに、突然、目の前を遮るように巨大な「深い緑の盾」が現れます。それが、宮内庁が第26代・継体天皇の墓として管理している「三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ)」です。
考古学の進歩によって「真の墓は東隣の今城塚古墳である」という説が定着した現代においても、この御陵が持つ「公式」としての威厳、そしてここが数々の歴史の荒波を乗り越えて「大王の墓」として守られてきた事実は、いささかも揺らぎません。
今回は、謎に満ちた「太田茶臼山(おおだちゃうすやま)古墳」の全貌と、そこに秘められた歴史のドラマに迫ります。
1. 継体天皇陵(三嶋藍野陵)とは? —— 圧倒的な威容を誇る「三島の名山」
継体天皇陵は、茨木市太田に位置する、全長約226メートル、周濠を含めた総長は約300メートルに及ぶ堂々たる巨大前方後円墳です。
- 今城塚を凌ぐ「公式」のスケール: 考古学の有力候補である今城塚古墳(全長181メートル)よりも一回り大きく、淀川以北(三島古墳群)のなかでも突出した規模を誇ります。周囲には今も満々と水を湛えた美しい周濠(しゅうごう)が巡らされており、さらにその外側にはいくつかの「陪塚(ばいちょう=大型古墳に随伴する小型古墳)」を従えています。
- なぜ「三嶋藍野(みしまのあいの)」なのか: 『日本書紀』や『延喜式』などの古文書には、継体天皇は崩御した後、「摂津国三島藍野陵」に葬られたとハッキリ記述されています。「藍野(あいの)」とは、現在の茨木市太田から阿武野(あぶの)にかけての古い地名。まさに記紀の記述通りの場所に、この巨大な鍵穴の形をした山が存在しているのです。
2. 歴史の深掘り:なぜ「2つの継体陵」が存在するのか?
歴史ファンなら誰しもが抱く疑問、「なぜ本物の可能性が高い今城塚古墳があるのに、太田茶臼山古墳が公式の継体天皇陵なのか?」。そこには、江戸時代の人々の必死の「歴史捜査」の物語がありました。
① 乱世のなかで「見失われた」大王の墓
継体天皇の崩御から1000年以上の時が流れるなかで、戦国時代のキリシタン大名・高山右近らが今城塚古墳を「城(砦)」に改造してしまったことは前回の記事で触れました。この大規模な軍事改造により、今城塚は大きく形が崩れ、周囲には「ただの戦国時代の城跡(砦)」であるかのような誤解が生まれてしまいました。
② 江戸時代の「元禄の修陵」と地元の伝承
江戸時代中期、幕府は尊王思想の高まりを受け、荒れ果てて誰の墓か分からなくなっていた天皇陵を特定し、修復する一大国家プロジェクト「元禄の修陵(ろくしゅうりょう)」を敢行します。 その際、学者や役人たちが当時の文献(日本書紀など)を手に三島の地を調査したところ、
「今城塚は完全に城の形になっていて、はにわの破片が散らばる不浄の地に見える。一方で、少し西にある太田茶臼山古墳は、形も220メートル以上あって美しく、周りには水を湛えた堀もある。これぞ大王の墓にふさわしい!」 と判断されたのです。形が崩れた本物(今城塚)の代わりに、当時最も形が美しく威厳があった太田茶臼山古墳が「継体天皇陵」として選ばれた。これが、2つの大王陵が並び立つことになったミステリーの真相です。
③ 考古学が語る「5世紀中頃」の謎
近年の考古学的な調査(外堀からの出土品など)により、この太田茶臼山古墳が実際に造られたのは「5世紀の中頃」であることが分かっています。継体天皇が崩御したのは「6世紀の前半(531年頃)」ですので、この古墳は継体天皇の時代よりも半世紀以上前に、すでに存在していたことになります。 では、ここは本当は誰の墓なのか? 一説には、継体天皇をはるばる福井・滋賀から迎え入れるために奔走した、当時の大豪族「三島氏(みしまし)」の首長(大ボス)の墓ではないかとも囁かれています。
3. 名所めぐりのハイライト:五感を研ぎ澄ます「公式拝所」の緊張感
自由に中に入れる体験型の今城塚古墳とは違い、こちらの継体天皇陵は、一歩足を踏み入れた瞬間に「宮内庁管理の圧倒的な聖域感」に包まれます。この2つの古墳の「静と動」の対比こそが、三島めぐりの醍醐味です。
① 端正を極めた「南側正面拝所」
古墳の南側に位置する拝所(はいしょ)に立つと、白砂利が美しく敷き詰められた空間の向こうに、お馴染みの木造の鳥居が厳かに迎えてくれます。 鳥居の背後には、幅数十メートルに及ぶ広大な水面(周濠)が広がり、その向こうに、一切の人を寄せ付けない深い太古の森(墳丘)がそびえ立っています。 ここから吹いてくる風はどこか冷たく、1500年以上にわたって日本の血統と歴史を守り続けてきた「国家の格式」そのものを、肌で感じることができます。
② 圧倒的なスケール感を感じる外周ウォーキング
全長226メートルの太田茶臼山古墳の周囲は、遮るもののない歩道や道路として整備されています。 今城塚古墳よりもさらに巨大なこのマウンドの周囲をぐるりと歩いてみると、その圧倒的な存在感に驚かされます。「これが5世紀の最新の土木技術か……」と感嘆せざるを得ないほど、前方部から後円部へと繋がるくびれラインの巨大さと、それを守る二重の堤(土手)の設計は完璧です。
4. 歴史の繋がり:古い王統への「リスペクト」が生んだ巨大マウンド
もし、この太田茶臼山古墳が継体天皇を支えた「三島豪族」のリーダーの墓だとすれば、なぜこれほどまでに巨大(226メートル)に造ることが許されたのでしょうか。
それは、この三島という土地が、河内平野(百舌鳥・古市)の大王たちにとって、淀川の流通を握る「絶対に敵に回してはならない最重要パートナー」だったからです。 そして、この三島の強大な経済力とバックアップがあったからこそ、地方出身の継体天皇は20年もの準備期間を経て、無事に大和の都へと入り、現在の皇室へと直結する新たな時代をスタートさせることができたのです。公式の継体天皇陵は、新しい大王を支えた「土着の英雄たちの強大さ」を今に伝える、歴史の生き証人なのです。
5. まとめ:2つの輝きが織りなす、古代三島のグランドフィナーレ
「真の墓」とされる今城塚古墳が、私たちに古代のリアルな儀式(埴輪列)や石棺の謎を教えてくれる「生きた教科書」であるならば、この公式の継体天皇陵(三嶋藍野陵)は、歴史のミステリーと、国家が守り続けてきた最高格式の威厳を静かに湛える「信仰のふるさと」です。
考古学的な正しさ(今城塚)と、文献が紡いできた歴史の伝統(太田茶臼山)。 この2つがわずか1.5キロメートルの距離を挟んで並び立っていること自体が、私したち歴史ファンにとって、これ以上ない極上のミステリーツアーの舞台となっています。
高槻の今城塚古代歴史館でたっぷりと知識を深めた後は、ぜひ足を延ばして、この茨木の太田茶臼山古墳の鳥居の前に立ってみてください。静かな水面に映る深い森を見つめるとき、私たちは「歴史の真実」のその先にある、古代の人々と江戸時代の人々が共に紡ぎ上げた、壮大な「物語の力」を深く実感することができるはずです。
継体天皇陵(三嶋藍野陵 / 太田茶臼山古墳)
- 所在地:大阪府茨木市太田3丁目
- アクセス:
- JR京都線「摂津富田駅」または「高槻駅」から高槻市営バス、あるいはJR京都線「茨木駅」・阪急京都線「茨木市駅」から阪急バスを利用し、「太田(または太田東芝)」バス停下車、徒歩約5分。
- おすすめルート:「今城塚古墳(古代歴史館)」から西へ、歴史ある西国街道をのんびり歩いて向かうルート(徒歩約20〜25分)。道中に古代の息吹を感じられる最高のウォーキングコースです。
- 散策のヒント:拝所周辺は大変静かな環境です。宮内庁の管理地ですので、参拝の礼儀を守り、静かにその佇まいを楽しみましょう。近くには、継体天皇を祀る「太田神社」や陪塚も点在しており、セットで巡ることで三島古墳群の圧倒的なスケール感を体感できます。

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