神 様 図 鑑
ふじわらのふひと 藤原不比等
中臣鎌足の子・藤原氏の実質的な祖/大宝律令・養老律令を編纂した律令国家の設計者/娘たちを次々と天皇家に嫁がせた「陰の実力者」
① 名前と出典
| 正式名称 | 藤原不比等(ふじわらのふひと)日本書紀・続日本紀 |
|---|---|
| 系譜 |
大化の改新の立役者・中臣鎌足の子として誕生(659年) 父は中臣(藤原)鎌足。鎌足が天智天皇から「藤原」の姓を賜ったことで、不比等はこの姓を継ぐことになる。娘の宮子は文武天皇の夫人となり首皇子(後の聖武天皇)を、もう一人の娘・光明子は聖武天皇に嫁ぎ、後に皇族以外から初めて皇后となった。続日本紀 |
| 生没年 | 斉明天皇5年(659年)~養老4年(720年) |
| 神様の種類 |
人代(飛鳥~奈良時代)の廷臣——藤原氏を政権の中枢に押し上げた「陰の実力者」 神として祀られる存在ではないが、藤原氏の実質的な祖として、後の藤原氏の隆盛・摂関政治の礎を築いた人物であるため、本シリーズでは歴代天皇陛下や建内宿禰と同様に、日本の国のかたちを形づくった重要人物として取り上げている。 |
② 活躍した時代
不比等は文武天皇のもとで大宝律令の編纂を中心となって進め、701年に完成させた。さらに晩年の養老2年(718年)には、これを改訂した養老律令の編纂にも着手(施行は不比等の死後、孫の藤原仲麻呂の代の757年)。二つの法典の編纂を通じて、日本の律令国家体制の骨格を作り上げた。
祀られる神社
登場する神話・伝説
天智天皇の落胤説——出生をめぐる伝説
平安時代の史書『大鏡』などには、天智天皇が身重の女御を中臣鎌足に下げ渡す際「生まれた子が男なら汝の子とし、女なら朕の子とする」と約束したという伝説が記され、生まれたのが不比等であったと伝える。史実として支持する研究者はほとんどいないが、藤原氏の権威をいっそう高めるための由緒として、古くから語り継がれてきた逸話である。
「藤原」を名乗れるのは自分の子孫だけに——氏姓の巧みな整理
天智8年(669年)、天智天皇は死の間際の中臣鎌足に「藤原」の姓を授けた。不比等の代になると、朝廷は「藤原」を名乗れるのは不比等の子孫のみとし、それ以外の中臣一族は神祇官として祭祀を司る「中臣」姓にとどめるという取り決めがなされたと伝わる。これにより藤原一族は祭祀(中臣氏)と政治(藤原氏)の役割を巧みに使い分け、政権の中枢に食い込んでいくことになった。
逸話・エピソード
不比等は娘・宮子を文武天皇の夫人とし、生まれた首皇子は後の聖武天皇となった。さらにもう一人の娘・光明子を、成長した聖武天皇に嫁がせる。光明子は不比等の死後、皇族以外から初めて皇后となった人物(光明皇后)であり、この二代にわたる婚姻政策こそが、藤原氏がその後長く天皇の外戚として権力を握り続ける原型となった。
大宝律令(701年)に加え、晩年には養老律令の編纂にも着手した不比等は、和銅3年(710年)の平城京遷都にも深く関わり、氏寺であった山階寺(後の興福寺)を新京に移転させている。法制度と都のかたち、その両方の設計に携わった、まさに国家建設の中心人物であった。
不比等には武智麻呂・房前・宇合・麻呂という四人の息子がいた。彼らはそれぞれ南家・北家・式家・京家という藤原氏の四つの家系の祖となり、特に房前を祖とする北家は、後の平安時代に摂関政治で栄華を極めることになる。一人の廷臣の子孫たちが、日本の政治史を数百年にわたって左右する存在へと育っていった。
ご利益
二つの律令の編纂と藤原氏繁栄の礎を築いた事績から、学業成就・立身出世・子孫繁栄といったご利益が信仰されています。

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