世界遺産・古市古墳群のある大阪や、王権の本拠地である奈良から、名神高速道路を東へ進んだ先にある近江盆地(滋賀県)。琵琶湖の東側に広がるこの地は、古くから大和と東国を結ぶ重要拠点であり、同時に数々の凄惨な政治劇の舞台でもありました。
その東近江市市辺(いちのべ)の集落の奥、うっそうとした森のなかに、静かに時を止めた御墓があります。それが、第17代・履中(りちゅう)天皇の第一皇子であり、のちの顕宗・仁賢天皇の父親である「市辺押歯王(いちのべのおしはのみこ / 押磐皇子)」のお墓です。
なぜ彼は、中央の都から遠く離れたこの近江の地で命を落とさねばならなかったのか。そこには、古代日本の「王位継承」を巡る、息を呑むようなドキュメンタリーがありました。
1. 市辺押歯王墓とは? —— 記紀の記述と奇跡的に一致する歴史の現場
市辺押歯王墓は、宮内庁によって「市辺押歯王墓(いちのべのおしはのみこのはか)」として治定・管理されている格式高い聖域です。
- 考古学的な特徴: 現在は、綺麗に整形された方形の区画の中に、こんもりとした円墳の形状をとっています。周囲の巨大な天皇陵に比べると非常にコンパクトですが、この地には「市辺(いちのべ)」という皇子の名そのものの地名が今も残されており、古代の事件がまさにこの場所で起きたことを雄弁に物語っています。
2. 歴史の深掘り:近江の狩場で起きた「血のサスペンス」
市辺押歯王は、血統から言えば次期大王(天皇)の最有力候補、つまり「次期キング」となるべき男でした。しかし、その輝かしい未来は、従兄弟(いとこ)である大泊瀬皇子(おおはつせのみこ──のちの雄略天皇・ワカタケル大王)の野望によって、一瞬にして血に染まることになります。
① 偽りの誘い:近江での「猪狩り」
西暦456年、大王の座を狙う大泊瀬皇子は、最大のライバルである市辺押歯王を排除するため、巧みに彼を近江の蒲生野(がもうの)での狩猟に誘い出しました。 何の疑いも持たず、ともに馬を並べて猪を追っていた市辺押歯王。しかし、その背後から、大泊瀬皇子の冷酷な視線が突き刺さります。
② 暗殺、そして「遺体の足蹴り」
隙を突いた大泊瀬皇子は、弓を引き絞り、市辺押歯王の背中を射抜きました。落馬し、泥にまみれて絶命する王。 驚くべきことに、『日本書紀』などの記録によると、大泊瀬皇子は怒りと興奮のあまり、動かなくなった市辺押歯王の遺体をバラバラに切り刻み、馬の飼料桶(あるいは土の穴)の中に投げ込み、文字通り「存在ごと歴史から抹消」してしまったのです。 このあまりにも凄惨な暗殺事件を知った王の幼い息子たち(オケ・ヲケ)は、命の危険を感じて、あの播磨の国(粒坐天照神社の地)へと着の身着のまま逃亡することになります。
3. 名所めぐりのハイライト:1500年前の「親子の絆」を見つける旅
現在の市辺押歯王墓は、近江鉄道の「市辺駅」からほど近い、のどかな田園地帯と山の境界にあります。ここを訪れる際は、事件のあとに起きた「もう一つの感動のドキュメンタリー」を頭に入れておくと、景色が180度違って見えてきます。
① 「首(こうべ)を求めた」涙の跡:宮内庁拝所
鳥居の前に立つと、周囲の近江の山々から吹き抜ける風が、ざわざわと木々を揺らします。 実は、市辺押歯王が暗殺された後、遺体はバラバラに埋められたため、どこに葬られたのか誰も分からなくなっていました。 のちに逃亡先から帰還して即位した息子の顕宗・仁賢天皇は、大王の権力を使って、真っ先に「父の遺骨の捜索」を開始します。しかし、30年近く経った近江の地で、誰の骨かも分からない状態になっていました。
② 老婆の記憶と、奇跡の「親子の再会」
万策尽きた時、かつて暗殺の現場を目撃し、密かにカタミを覚えていた置目老媼(おきめのオミナ)という地元の老婆が名乗り出ました。 彼女の案内によって土を掘り返すと、二つの遺骨が絡み合うように出てきました。一つは市辺押歯王、もう一つは、王が殺された時に「お供をします」と言って一緒に殺された忠臣・刺領巾(さしひれ)の骨でした。
骨の判別と、双子の御墓: どちらが父親の骨か分からず兄弟は泣き崩れますが、「父は生前、歯がまるで『押し臼の歯』のように規則正しく並んでいた(これが押歯王の名の由来)」ということを思い出し、見事に父の遺骨を識別。 兄と弟は、父と忠臣のために、この地に2つの美しいお墓を並べて築き、最高の礼をもって葬ったのです。現在の御墓のすぐ近くに、今も忠臣・刺領巾のお墓がひっそりと並んでいるのは、この時の感動的な歴史の事実を証明しています。
4. 歴史の繋がり:近江から始まる「もう一つの皇統」
この市辺押歯王の暗殺と、その後の遺骨捜索の舞台となった「近江の蒲生(現在の東近江市・日野町周辺)」という地域。実はこの場所は、のちに日本の歴史を大きく変えることになる「息長(おきなが)氏」や、のちに福井から大和へ迎えられる「継体(けいたい)天皇」の支持基盤(ゆかりの地)のすぐ近くでもあります。
ヤマト王権の中心から離れたこの近江の地が、5世紀後半の皇統危機のキーパーソンたちのハブ(交差点)になっていたこと。市辺押歯王墓の存在は、単なる暗殺現場ではなく、近江という土地が持つ古代史上の強大な「政治的ポテンシャル」を物語る重要スポットなのです。
5. まとめ:怨念を美しき「孝心」で昇華した、静かなる聖地
一発の矢によって国を奪われ、バラバラにされて歴史から消されかけた市辺押歯王。 もし、彼の息子たちがそのまま地方で泥にまみれて死んでいれば、彼の無念が晴れることは二度となかったでしょう。しかし、子供たちは生き抜き、日本最高の大王となってこの地に戻り、父の尊厳を完璧な形で取り戻しました。
「古市古墳群」の巨大な前方後円墳が「生前の権力の誇示」であるならば、この東近江の「市辺押歯王墓」は、「残された子孫たちの、親への極限の愛と孝行(孝心)」によって造られた、日本で最も温かい心のタイムカプセルです。
琵琶湖の東側、近江の歴史旅へ出かける際は、ぜひこの市辺の杜を訪れてみてください。 鳥居の前に立ち、二つ並んだお墓を見つめるとき、私たちは覇王雄略の恐怖政治の冷酷さと、それに決して屈しなかった古代の人々の「情義」の強さを、静かな感動とともに深く噛みしめることができるはずです。
市辺押歯王墓(いちのべのおしはのみこのはか)
- 所在地:滋賀県東近江市市辺町
- アクセス:近鉄南大阪線……ではなく、こちらは近江鉄道万葉あかね線(御代参線)「市辺(いちのべ)駅」から徒歩約10〜15分。
- 散策のヒント:周辺には、王の遺骨発見に貢献した老婆を祀る「置目神社」や、万葉集の額田王の歌で有名な「蒲生野」の平野が広がっています。レンタサイクルや車を利用して、織田信長の安土城跡や近江八幡の古い街並みとセットで巡ると、日本の古代から中世へのダイナミックな歴史の変遷を体感できる最高のドライブ・ツーリングルートになります。

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