日本神話において、「食」は単なる生活手段ではありません。
それは命そのものであり、神の働きが最も具体的に現れる領域でした。
その象徴が、
**保食神(うけもちのかみ)**です。
『日本書紀』に描かれる保食神は、
人類に食物をもたらした最初の神でありながら、
同時に殺される神として描かれます。
なぜ、命を生む神が殺されなければならなかったのか。
そしてなぜ、その死が「穀物の誕生」へと転化したのか。
本記事では、『日本書紀』本文を軸に、
保食神の神話・性格・信仰史的意義を、正確かつ立体的に解説します。
保食神の基本情報
- 神名:保食神(うけもちのかみ)
- 神格:食物神・穀物神・生命供給神
- 登場文献:『日本書紀』
- 関係神:月読尊(つくよみのみこと)、天照大神
- 関連神:大宜都比売神(おおげつひめ)、豊受大神
「保(う)」は「養う・育む」、
「食(け)」は「食物・糧」を意味し、
**「命を養う神」**という神名そのものが、その本質を示しています。
日本書紀における保食神の神話
■ 物語の舞台
『日本書紀』神代巻によれば、
天照大神は、保食神のもとへ月読尊を遣わします。
目的はただ一つ。
「地上の神がどのように食物を供するのかを見るため」
つまり、これは単なる饗応ではなく、
神の力を測るための訪問でした。
■ 保食神の饗応
保食神は、月読尊を迎えると、
- 口から飯を出し
- 鼻から魚を出し
- 尻から獣を出して
もてなします。
この描写は、現代の感覚では衝撃的ですが、
神話的には極めて重要な意味を持ちます。
これは、
- 食物は「自然に生じるもの」
- 神の身体=世界そのもの
- 体の各部位は生成の門
であることを示す、宇宙論的表現です。
■ 月読尊の怒りと殺害
しかし月読尊は、
「汚らわしい」
として激怒し、
保食神を斬り殺してしまいます。
ここで重要なのは、
- 月読尊は「穢れ」を嫌う神
- 月は秩序・清浄・規律を司る存在
であるという点です。
つまりこの事件は、
生命の生成(混沌)と秩序(清浄)の衝突
として描かれているのです。
死から生まれる食物 ― 神話の核心
■ 殺された後の奇跡
保食神の亡骸から、
- 頭から牛・馬
- 額から粟
- 眉から蚕
- 目から稗
- 腹から稲
- 陰部から麦・大豆・小豆
が生じます。
これは偶然の羅列ではありません。
■ 農耕文明の完全な体系
この身体配分は、
- 主食(稲・麦)
- 雑穀(粟・稗)
- 豆類
- 家畜
- 養蚕(衣)
という、
農耕社会に必要なすべての要素を含んでいます。
つまり保食神は、
自らの死をもって、文明を完成させた神
なのです。
天照大神の裁定 ― 月読尊の追放
月読尊の行為を聞いた天照大神は、
「悪しきことをなした」
として、
月読尊と決別します。
これが、
- 太陽と月が共に現れない理由
- 天照と月読が並び立たない理由
として説明されます。
重要なのは、
食を穢れと見なした側が否定され、
食を生んだ神が正当化された
という点です。
ここに、日本神話の明確な価値観があります。
古事記との比較 ― 大宜都比売神
『古事記』では、同系統の神話として
**大宜都比売神(おおげつひめ)**が登場します。
- 殺害者:須佐之男命
- 内容:身体から食物が生じる
- 構造:ほぼ同一
ただし、
- 『古事記』は荒ぶる神(須佐之男)による暴力
- 『日本書紀』は秩序神(月読)による裁き
という違いがあります。
これは、
- 『古事記』=神話的・情念的
- 『日本書紀』=政治的・倫理的
という編纂思想の差を反映しています。
保食神の神格と思想的意味
■ なぜ「殺される神」なのか
保食神は、
- 食を与える
- 命を養う
という役割ゆえに、
自らが消費される存在
として描かれます。
これは、
- 稲が刈られること
- 動物が食されること
と同じ構造です。
■ 日本神話における「聖なる犠牲」
保食神は、
死ぬことで世界を生かす神
であり、
日本神話における最も純粋な「犠牲神」と言えます。
保食神と後世の信仰
■ 豊受大神との関係
伊勢神宮外宮の主祭神
**豊受大神(とようけのおおかみ)**は、
- 食物神
- 天照大神の御饌神
という点で、
保食神の系譜を引く存在と考えられています。
■ 稲荷神・宇迦之御魂神との連続性
また、
- 宇迦之御魂神(稲荷神)
- 穀霊信仰
も、
保食神神話を根源とする信仰の展開形と見ることができます。
保食神が示す日本的世界観
保食神の神話が語るのは、
- 生と死は対立しない
- 穢れは忌避すべきものではない
- 命は循環する
という、
日本的自然観・生命観です。
月読尊が否定され、
保食神が肯定されたことは、
清浄よりも生命を尊ぶ思想
が、神話の段階で選ばれていたことを示しています。
まとめ|保食神とは何者か
- 日本書紀における最古級の食物神
- 死によって文明を完成させた犠牲神
- 農耕・衣食住すべての起点となる存在
- 日本的生命観を象徴する女神
保食神は、
祀られる機会こそ少ないものの、
**日本文化の根幹を支える“沈黙の大神”**です。
日々の食事の背後にある、
「命をいただく」という感覚――
その原点には、
保食神の神話が今も静かに息づいています。

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