神 様 図 鑑
すいにんてんのう 垂仁天皇
第11代天皇・景行天皇の父 / 伊勢神宮創建のきっかけを作った大王 / 相撲の起源・埴輪の起源にまつわる伝説を数多く持つ
① 名前と出典
| 正式名称 | 活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)日本書紀 |
|---|---|
| 系譜 |
第10代・崇神天皇(御間城天皇)の第三皇子 母は御間城姫命(みまきひめのみこと)。孝元天皇の孫にあたる大彦命の娘とされる。皇后・狭穂姫命との間に誉津別命を、後の皇后・日葉酢媛命との間に大足彦忍代別天皇(後の景行天皇)らをもうけたと記される。古事記・日本書紀 |
| 在位 | 崇神天皇69年1月2日~垂仁天皇99年7月1日(記紀の伝える紀年による) |
| 神様の種類 |
人代の天皇——崇神・垂仁・景行と続く、纏向を都とした大王の一柱 考古学的には、実在の可能性がある大王として3世紀末から4世紀頃の人物と推定する見方もある。神話の神々とは異なり、皇統譜における実際の統治者として記紀に描かれる。 |
② 活躍した時代
垂仁天皇は父・崇神天皇、子・景行天皇と同じく、奈良県桜井市の纏向遺跡周辺を都としたと伝えられる。考古学的にもこの時期の纏向遺跡は初期ヤマト王権の中心地とみられており、垂仁天皇の治世は日本という国家の骨格が形づくられていく重要な時代であったと考えられている。
祀られる神社
登場する神話・伝説
倭姫命の巡幸と伊勢神宮の創建
垂仁天皇25年、天皇は皇女・倭姫命に天照大神を祀る役目を託した。倭姫命は宇陀・近江・美濃など各地を巡り、最終的に伊勢の地にたどり着き、そこに天照大神を祀ったことが、現在の伊勢神宮(皇大神宮)の創建に繋がったと伝えられる。それまで宮中で祀られていた皇祖神が、初めて宮の外、伊勢の地に鎮座することになった、日本の神社信仰史における大きな転換点である。
狭穂彦王の叛乱——皇后の悲劇
垂仁天皇5年、皇后・狭穂姫命の兄・狭穂彦王が謀反を企て、妹に天皇暗殺を唆した。皇后は寝所で短剣を構えたものの、最後には実行できず涙ながらに天皇に真相を告白する。兄を見捨てられなかった狭穂姫命は、我が子・誉津別命を抱いて兄の立てこもる稲城へと走り、城が炎上する中で皇子だけを城外に託し、自らは兄と運命を共にして焼死したと伝えられる。古事記の中でも屈指の悲劇的な物語である。
逸話・エピソード
垂仁天皇7年7月7日、大和国に力自慢で知られた當麻蹶速(たいまのけはや)がいると聞いた天皇は、出雲国から野見宿禰(のみのすくね)を召し出し、天皇の御前で二人を対戦させた。野見宿禰は蹴速を蹴り倒して勝利し、これが日本相撲の起源説話として今日まで語り継がれている。両国の野見宿禰神社には、今も相撲協会によって祀り続けられている。
垂仁天皇の皇后が亡くなった際、それまでの慣習であった生きたまま従者を陵墓に埋める殉死が行われようとした。これを憂いた野見宿禰は、出雲から土部(はじべ)を呼び寄せ、人や馬を模した土製品を作らせて殉死の代わりに陵墓に立てることを提案し、天皇に受け入れられた。これが埴輪の起源とされ、野見宿禰の子孫は土師氏(はじし)として、以後代々朝廷の喪葬儀礼を司ることになった。
垂仁天皇は田道間守(たじまもり)に命じ、常世国(とこよのくに)にあるという不老不死の果実「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」を探し求めさせた。10年の歳月をかけてこれを持ち帰った田道間守だったが、その時すでに天皇は崩御していた。悲しんだ田道間守は御陵に果実を捧げ、後を追うように命を落としたと伝えられる。この非時香菓は現在の橘(たちばな)であるとされ、田道間守は今も菓子の神として信仰されている。
ご利益
伊勢神宮創建・相撲の起源・埴輪の考案など、数々の文化的起源に関わったことから、勝負運・国家安泰・厄除けといったご利益が信仰されています。

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