神 様 図 鑑
しょうむてんのう 聖武天皇
第45代天皇・東大寺と大仏を建立した篤い仏教信仰の帝/天然痘の大流行と政情不安の中、鎮護国家を祈って全国に国分寺を建てた
① 名前と出典
| 正式名称 | 聖武天皇(しょうむてんのう)続日本紀 |
|---|---|
| 系譜 |
第42代・文武天皇の第一皇子 母は藤原不比等の娘・宮子(みやこ)。皇后は同じく藤原不比等の娘・安宿媛(あすかべひめ、後の光明皇后)で、皇族以外から立后した初めての例とされる。娘に孝謙天皇(称徳天皇)がいる。続日本紀 |
| 在位 | 神亀元年(724年)~天平勝宝元年(749年) |
| 神様の種類 |
人代(奈良時代)の天皇——仏教による鎮護国家を体現した帝 天然痘の大流行や政変が相次いだ不安な時代に、仏教の力で国を鎮め守ろうとした「鎮護国家」思想を強く体現した天皇として知られる。 |
② 活躍した時代
天平7年~9年(735~737年)の天然痘大流行により、政権を担っていた藤原四兄弟が相次いで病死するなど、朝廷は深刻な混乱に陥った。聖武天皇はその後、都を平城京から恭仁京・難波宮・紫香楽宮へと転々と移す「彷徨五年」を経験し、最終的に平城京に戻って東大寺大仏の造立を成し遂げた。
祀られる神社
登場する神話・伝説
国分寺・国分尼寺建立の詔——仏教による国家鎮護
天平13年(741年)、聖武天皇は諸国に国分寺(金光明四天王護国之寺)・国分尼寺(法華滅罪之寺)を建立するよう詔を発した。相次ぐ疫病や飢饉、政変に対し、仏教の力によって国全体を守ろうとするこの政策は、日本各地に国家規模の寺院ネットワークを築く一大事業となった。
大仏造立の詔——盧舎那仏に込めた祈り
天平15年(743年)、聖武天皇は「盧舎那仏(るしゃなぶつ)の金銅像一体を造り奉る」との詔を発した。当初は紫香楽の地で計画されたが、最終的に平城京の東大寺で造立が進められ、天平勝宝4年(752年)に盛大な開眼供養会が営まれた。国力を尽くしたこの大事業は、天皇自らが仏道に深く帰依していたことの何よりの証である。
逸話・エピソード
天平7年から9年にかけて日本を襲った天然痘の大流行では、当時の総人口の25~35パーセントにあたる100万~150万人が命を落としたとされる。時の政権を主導していた藤原不比等の四人の息子(藤原四兄弟)が全員この疫病で病死するという未曾有の事態となり、朝廷の政務は一時停止に追い込まれた。聖武天皇が仏教による鎮護国家に強く傾倒していく背景には、この壮絶な疫病体験があったと考えられている。
天平12年(740年)、聖武天皇は突如平城京を離れ、恭仁京(京都府木津川市)へと遷都した。その後も難波宮(大阪市)、紫香楽宮(滋賀県甲賀市)と次々に都を移し、最終的に平城京へ戻るまでの約5年間、都が定まらない異例の状態が続いた。この背景には、藤原広嗣の乱をはじめとする政情不安や、天然痘の記憶による都への忌避感があったのではないかとされている。
聖武天皇の崩御後、光明皇后は天皇が愛用した品々を東大寺に献納し、これが正倉院御物として今日まで守り伝えられている。シルクロードを経て伝来した工芸品を含む正倉院宝物は、聖武天皇個人の遺愛品であると同時に、天平文化の国際性を今に伝える世界的にも貴重な文化遺産となっている。
ご利益
疫病と政変の時代を仏教の力で乗り越えようとした事績から、厄病退散・国家安泰・仏道成就といったご利益が信仰されています。

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