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円珍(えんちん)は、平安時代に唐へ渡り、三井寺(園城寺〈おんじょうじ〉)を再興したお坊さんです。智証大師(ちしょうだいし)とも呼ばれ、天台寺門宗(てんだいじもんしゅう)の祖とされます。
この記事でわかること
嵐の海をこえ、1000巻の経典を持ち帰った留学僧。その船の上で彼を迎えた神の名は、「新羅」でした。
01. 円珍(智証大師)の基本情報
| 分類 | 祖師(そし=宗派を開いたり広めたりしたお坊さん)。天台寺門宗の宗祖 |
| 読み方 | えんちん |
| 別名 | 智証大師(ちしょうだいし。927年に醍醐天皇から贈られた名)。字(あざな)は遠塵(えんじん) |
| 生没年 | 814年(弘仁5年)〜891年(寛平3年10月29日)。78歳で亡くなりました |
| 出身 | 讃岐国(さぬきのくに)那珂郡。今の香川県善通寺市の金倉(かなくら)とされます。俗姓は和気(わけ)氏 |
| 空海との関係 | 母が空海の姪とされます。つまり円珍は空海の姪の子です(コトバンク各辞典)。円珍を空海の甥とする資料もあります(諸説あり) |
| おもな役職 | 延暦寺の第5代天台座主(ざす)。868年から亡くなるまで、23年間つとめました |
| 梵名・真言・種子字 | 日本のお坊さんなので梵名はありません。決まった真言・種子字は確認できませんでした |
| 忌日(きにち) | 10月29日(亡くなった日) |
02. 円珍とは? ― 唐で学び、三井寺を再興した天台の祖師
① 一言まとめ
円珍は、唐で天台宗の教えと密教を学んで1000巻ほどの経典を持ち帰り、三井寺を天台の大きな拠点にしたお坊さんです。のちに円珍の流れは「寺門(じもん)」と呼ばれました。
② 由来・生涯
円珍は15歳で比叡山(ひえいざん)に登り、最澄の弟子だった義真(ぎしん)に学びました。その後、12年間山を下りない修行(籠山〈ろうざん〉)を続けます。
838年(承和5年)、比叡山で籠山修行中に座禅をしていた円珍の前に、金色にかがやく不動明王があらわれたと伝わります。これを描かせたのが、三井寺の国宝「黄不動」とされます(Wikipedia・コトバンク。くわしくは日本三不動画の記事へ)。
853年、円珍は商人の船で唐へ渡ります。天台山と長安(ちょうあん=唐の都)で学び、858年に帰国しました(くわしくは07の物語で)。翌859年には三井寺に入り、持ち帰った経典を唐院(とういん)に納めます(山川 日本史小辞典)。868年には延暦寺の第5代天台座主になりました。
円珍が亡くなったあと、円仁の流れ(山門〈さんもん〉)と円珍の流れ(寺門)は対立します。993年には円珍の門流が比叡山を下りて三井寺に入り、天台宗は2つに分かれました(くわしくは三井寺の記事へ)。
③ 姿・持物の特徴
- とがった頭:円珍の肖像は、頭のてっぺんがとがった卵形の顔が特徴です。これを「霊蓋(れいがい)」と呼び、未来を知る力のしるしとされたといいます(Wikipedia)
- 僧の姿:袈裟(けさ)を着て座る姿です。仏や菩薩のような冠はつけません
- 国宝の像:三井寺の唐院大師堂に、「中尊大師(ちゅうそんだいし)」「御骨大師(おこつだいし)」と呼ばれる2体の智証大師坐像(国宝)がまつられます
- 印相・光背・台座:祖師の像なので、仏のような決まった印相はありません
円珍ゆかりの文書・典籍は「智証大師円珍関係文書典籍」として、2023年にユネスコ「世界の記憶」に登録されました(文部科学省)。
03. 円珍にまつわるご利益 ― 学問・旅の安全・不動明王の守り
⛵ 旅・航海の安全
🔥 不動明王の守り
📜 経典・教えを伝える
- 学問・求道:嵐をこえて唐へ学びに行き、たくさんの経典を持ち帰った姿から、学ぶ人の励みになる祖師です(筆者の見方)
- 旅・航海の安全:帰りの船であらわれた新羅明神は、円珍の教えを守ると約束したと伝わります。海をこえた旅の伝えから、旅の守りを重ねる人もいます(筆者の見方)
- 不動明王の守り:円珍が感得(かんとく=祈りの中で見ること)した黄不動は、三井寺の大切な秘仏です
- 経典・教えを伝える:1000巻ほどの経典を海をこえて持ち帰り、唐院に納めて後の世に伝えました。大切なものを次の世代へ手渡したい人の励みになります(筆者の見方)
ご利益の根拠:円珍そのものに決まったご利益があると書いた資料は、確認できませんでした。ここでは、円珍の生涯と、円珍ゆかりの仏様・神様の伝えから紹介しています。
こんな人におすすめ:留学や遠くへの挑戦をひかえている人。新しいことを学びはじめた人。古い文書や歴史が好きな人。
04. 円珍と関係の深い仏様・神様・人物
05. 円珍ゆかりの寺院・会える場所
- 三井寺(園城寺。滋賀県大津市):天台寺門宗の総本山です。円珍の像をまつる唐院があります。新羅明神をまつる国宝の新羅善神堂(しんらぜんしんどう)もあります。拝観は9時〜16時30分(受付は16時まで)です。入山料は大人800円・中高生500円・小学生300円です(公式)。
2026年秋季特別公開は11月7日(土)〜12月6日(日)。国宝の金堂の中で、新羅明神の本地仏・文殊菩薩像にお参りできます。唐院の長日護摩堂(ちょうじつごまどう)の本尊・不動明王像なども公開されます。拝観料は入山料とは別に500円です(公式) - 金倉寺(こんぞうじ。香川県善通寺市):円珍の生まれた地とされる寺。四国八十八ヶ所の第76番札所です。大師堂に、智証大師と弘法大師(空海)の像がまつられます(旅行メディアの情報)。公式サイトは確認できませんでした
- 曼殊院(まんしゅいん。京都市左京区):国宝の黄不動の画像(平安時代)が伝わります。三井寺の黄不動を写したものともいわれる秘仏です(くわしくは曼殊院の記事へ)
- 延暦寺(滋賀県大津市):円珍が修行し、第5代の天台座主をつとめた寺です
- 東京国立博物館(東京都台東区):国宝「円珍関係文書」を所蔵します(Wikipedia)。展示は不定期です
06. 円珍の見分け方ガイド
✅ この特徴があれば円珍(智証大師)かも?チェックリスト
まちがえやすい祖師とのちがい
07. 円珍の物語 ― 嵐の海と、とがった頭の留学僧
853年の夏。円珍は、商人の船に乗って唐をめざしました。遣唐使の大きな船ではありません。ふつうの商人の船に、たのんで乗せてもらったのです。
ところが海は荒れ、船は嵐に流されます。船は南の島に流れつき、それから唐の福州(ふくしゅう)に上陸したと伝わります。
円珍は、天台宗のふるさと・天台山の国清寺(こくせいじ)で学びます。円珍は、日本からの留学僧のために止観堂(しかんどう)というお堂まで建てました。そして855年には都の長安へ。青龍寺の法全から、密教の大切な教えを受けます。
じつは円珍には、旅のあいだ気をつけなければならないことがありました。頭のてっぺんがとがった「霊蓋」です。ふしぎな力のしるしとされていました。その力をほしがる者に頭をねらわれることもあったため、唐では用心したと伝わります。
858年、円珍は唐の商人・李延孝(りえんこう)の船で帰国しました。持ち帰った経典は、441部1000巻ほど。のちに三井寺の唐院に納められ、今も大切に伝えられています。
──そう、ふつうの商人の船にゆられて、1000巻の宝は海をこえたのです。
【伝説】帰りの船にあらわれた老人 ― 新羅明神
帰りの船の上で、円珍の前にひとりの老人があらわれました。老人は「わたしは新羅国明神である」と名のり、円珍の教えを守ると約束したといいます(Wikipedia・JAANUS)。この神が、三井寺の守り神・新羅明神です。経典を三井寺の唐院に納めたのも、新羅明神のお告げによると伝わります(Wikipedia)。
08. 円珍のまとめと関連記事
この記事でわかったこと
三井寺をたずねたら、唐院と新羅善神堂にも足をのばしてみてください。
09. ゆる仏様トーク ― 円珍編
円珍の唐への旅は、今でいえば「格安の貨物船にたのみこんで乗せてもらい、海外の大学院で学んで、論文と資料をスーツケース1000個分持ち帰った留学生」です。しかも、その一部は今も三井寺や東京国立博物館に大切に伝わり、2023年には「世界の記憶」にも登録されました。
嵐で流され、頭の形まで用心しなければならない旅。ふつうなら「もう帰りたい」となりそうです。それでも円珍は、長安まで学びに行きました。──そう、祖師の道は、いつも安全な航路ばかりではなかったのです。
円珍が、これから旅立つ人に声をかけるとしたら――
※円珍の言葉ではなく、商人の船で唐へ渡り経典を持ち帰った生涯をもとにイメージしたセリフです。

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