(写真準備中)
一行(いちぎょう)は、唐の時代のお坊さんです。星を測って新しい暦(こよみ)をつくった天文学者でもあり、密教の大切な注釈書を書いた人でもあります。真言宗では、真言八祖の一人としてまつられます。
この記事でわかること
- 一行とはだれか。暦の「大衍暦(たいえんれき)」をつくり、『大日経』の注釈を書いた真言八祖
- 南は今のベトナムから北はバイカル湖の南まで、空と影を測った大計画の物語
- 【謎】空を測った学者が、なぜ『平家物語』では、闇の中で星を血で描いた人になったのか
星を数えた人が、星に救われた人として語りつがれた。そのふしぎをたどります。
01. 一行の基本情報
| 分類 | 祖師(そし)。密教を伝えた唐の僧・天文学者 |
| 読み方 | いちぎょう |
| 別名 | 一行禅師(ぜんじ)・一行阿闍梨(あじゃり。密教の師) |
| 梵名(ぼんみょう) | なし(中国の僧のため) |
| 俗名 | 張遂(ちょうすい) |
| おくり名 | 大慧禅師(だいえぜんじ) |
| 生没年 | 683年〜727年(生年は673年とする研究もあり、諸説あり) |
| 出身 | 唐の邢州鉅鹿県(けいしゅうきょろくけん。今の中国・河北省)。魏州昌楽(ぎしゅうしょうらく)とする辞典もあり、諸説あり |
| 師 | 禅を普寂(ふじゃく)、陀羅尼(だらに)を金剛智に学び、善無畏の訳経を助けた |
| 真言八祖での位置 | 伝持(でんじ。教えを広め伝えた順)の八祖の第六祖。付法の八祖には入りません |
| 真言・種子字・ご縁日 | 決まったものは確認できませんでした |
02. 一行禅師とは? ― 暦をつくり、大日経の注釈を書いた真言八祖
① 一言まとめ
一行は、「星を測る学問」と「仏の教え」の両方で、唐でいちばんの学者といわれた僧です。暦をつくり、密教の根本のお経『大日経』を、わかりやすく説明する本を書きました。
② 由来・生涯
一行は、唐の邢州鉅鹿県(今の河北省)に生まれました。703年、荊州(けいしゅう)の玉泉寺(ぎょくせんじ)で、天台宗の僧・弘景(こうけい)のもとで出家します。そののち、禅を普寂に、戒律を恵真(えしん。悟真とする辞典もあり)に学びました。
やがて一行は、唐の皇帝・玄宗(げんそう)に都・長安へまねかれます。721年、玄宗は一行に命じました。「新しい暦をつくれ」と。
一行は、天体の動きを示す機械をつくり、国じゅうで太陽の影と北極星の高さを測らせました(07の物語)。こうしてまとめた暦が「大衍暦」です。
同じころ、一行はインドから来た密教の僧とも出会います。善無畏と金剛智から密教を学び、金剛智からは陀羅尼(だらに。長い呪文)も授かりました。善無畏が『大日経』を漢文に訳すときには、その仕事に加わります。そして善無畏の講義を、『大日経疏(だいにちきょうしょ)』20巻にまとめました。
727年、一行は亡くなります。大衍暦が国の暦として使われはじめたのは、その2年後の729年でした。
③ 姿の特徴
- 僧の姿:頭を丸め、袈裟(けさ)を着た僧の姿でえがかれます
- 東寺の唐本:東寺の国宝「真言七祖像」のうち、一行像は唐で描かれた5幅の一つです。空海が唐から持ち帰ったとされます
- 床几に座る姿:慶應義塾が所蔵する室町時代(15世紀)の八祖像では、一行は、螺鈿(らでん。貝がらをはめこんだ飾り)で飾った床几(しょうぎ。腰かけ)に、ななめ向きに座る姿でえがかれています
- 印相・光背・台座:祖師なので、決まった印相や台座はありません
03. 一行にまつわるご利益 ― 学びと、時を読む力
🌌 星・天文
📅 暦・時のめぐり
- 学業・研究:仏教と天文学の両方をきわめた学者の僧です
- 星・天文:星を測り、星の伝説の主人公にもなりました
- 暦・時のめぐり:唐と日本で、長く使われた暦をつくりました
ご利益の根拠:一行に決まったご利益があると書いた資料は、確認できませんでした。ここでは、生涯と伝説から紹介しています(筆者の見方)。
こんな人におすすめ:理科や天文が好きな人。研究や受験勉強をがんばっている人。たとえば、夜空の写真を撮るのが好きな人や、自由研究で星を観察している子どもにも、親しみやすい祖師です。
夏休みに、棒を立てて正午の影の長さを毎日はかる自由研究があります。じつは一行の大計画も、同じ「影をはかる」ことから始まりました。カレンダーや時計を見るたびに、その向こうにいる学者の僧を思い出してみてください。
04. 一行と関係の深い仏様・人物 ― 大日経疏でつながる善無畏から空海まで
05. 一行ゆかりの場所・その姿に出会える寺
06. 一行の見分け方ガイド
✅ これがあれば一行かも?チェックリスト
- □ 真言八祖像で、「一行」の名札がある
- □ 伝持の八祖では、善無畏と恵果のあいだに置かれている
- □ 付法(ふほう。教えを師から弟子へ受けわたした順)の八祖の絵にはいない(付法では大日如来・金剛薩埵が入るため)
- □ 慶應義塾が所蔵する八祖像の一行は、螺鈿で飾った床几に、ななめ向きに座る姿です(慶應義塾ミュージアム・コモンズの解説)
まちがえやすい人とのちがい
- 善無畏とのちがい:善無畏はインドから来た僧、一行は唐生まれの僧です
- 「一行」という言葉とのちがい:文章の「一行(いちぎょう)」や、ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハン(漢字で「釈一行」)とは別の人です
07. 一行禅師の物語 ― 南の海から北の草原まで、空を測る
721年。玄宗皇帝から新しい暦をつくるよう命じられた一行は、考えました。それまでの暦は、日食や月食の日をよくまちがえます。正しい暦をつくるには、まず空を正しく測らなければなりません。
一行は、仲間の梁令瓚(りょうれいさん)とともに、天体の動きを示す機械をつくりました。黄道游儀(こうどうゆうぎ)や、水の力で動く渾天(こんてん。天球の模型)の機械です。この水で動く機械は725年に完成し、人形が時を知らせるしかけまであったと伝わります。
そして、国じゅうに観測の人を送りました。南は今のベトナムから、北はバイカル湖の南の草原まで。全部で13の場所です。
それぞれの場所で測ったのは、三つのことでした。北極星の高さ。夏至(げし)の日の太陽の影の長さ。冬至(とうじ)の日の影の長さ。南北に遠くはなれた場所の数字をくらべれば、地球の上の「ものさし」がわかります。
集まった数字から、一行は暦の計算をつくり直しました。けれど、暦が国じゅうで使われる日を、一行は見ていません。727年、一行は亡くなり、大衍暦が使われはじめたのは729年のことでした。
──そう、一行が最後にのこしたのは、自分の目では見られなかった「これからの年月」だったのです。
08. 一行のまとめと関連記事
この記事でわかったこと
- 一行は、暦の大衍暦をつくった唐の僧で、伝持の八祖の第六祖
- 善無畏の講義をまとめた『大日経疏』は、空海にも大きな影響をあたえた
- 死後は「星の術の名人」とされ、『平家物語』では九曜の星を血で描いた人として語られた
夜空を見上げたら、千三百年前にその星を測った、一人のお坊さんのことを思い出してみてください。
09. ゆる仏様トーク ― 一行編
一行は、今でいえば「国の天文台の台長をしながら、お寺で一番むずかしいお経の解説書を書いている人」です。昼は数字、夜は星、そのあいまにお経。いったい、いつ寝ていたのでしょう。
『平家物語』では、一行は楊貴妃(ようきひ)とのうわさで流されます。でも一行が亡くなった727年、楊貴妃はまだ8歳くらいです。──そう、物語の中の一行は、本人の亡くなったあとの時代まで、旅をさせられていたのです。
一行が、先の見えない夜をすごしている人に声をかけるとしたら――
※一行の言葉そのものではなく、その生涯と伝説をもとにイメージしたセリフです。
10. 一行阿闍梨の謎 ― 空を測った学者は、なぜ九曜の星を血で描いた人になったのか
『平家物語』の原文は、今回は確認できませんでした。写本によって話の中身には違いがあります(『源平盛衰記』〈げんぺいじょうすいき〉では、皇帝と楊貴妃のほくろを占ったことが流罪の理由になります)。④の場面は、これらの論文の紹介による要約です。一行の名声と伝説を結びつけたのは筆者の考察です。

コメント