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【神話図鑑】古事記Ver.18-「崇神天皇と大物主神の祟り」-

【神話図鑑】第18話「崇神天皇と大物主神の祟り」― 疫病と三輪山の神託 | 神社ブログ
人代篇 ・ 第二章
【神話図鑑】古事記・人代篇

第18話「崇神天皇と大物主神の祟り」

疫病が国を覆い、三輪山の神が夢でお告げを下す

崇神天皇 大物主大神 意富多多泥古 三輪山 倭迹迹日百襲姫

あらすじ

第10代・崇神天皇(ミマキイリビコイニエノミコト)の治世は、神武天皇以来最初の「実際の統治」を語る時代として古事記に描かれる。 しかしその治世は、恐ろしい疫病の流行と大量死から始まった。大物主神(三輪山の神)の祟りとその鎮め方が、この話の核心である。

  • 1
    第10代・崇神天皇(御真木入日子印恵命)の御世、国中に疫病が蔓延し、人口の大半が死んだ。また反乱(まつろわぬ者)も各地で起き、国は荒れた。
  • 2
    崇神天皇が神意を問うと、夢の中に大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が現れ「この疫病は私の祟りである。意富多多泥古(オオタタネコ)という人物を探し出して、私を祀らせよ」と告げた。
  • 3
    占いを行うと「意富多多泥古という人物が河内国(かわちのくに・大阪)にいる」という結果が出た。使いを出して探させると、茅渟縣の陶邑(ちぬのあがたのすえむら)で見つかった。
  • 4
    連れてこられた意富多多泥古に「あなたは誰の子か」と問うと「大物主大神が活玉依毘売(いくたまよりびめ)との間に生まれた子の子孫です」と答えた。大物主神の血を引く者であることが判明した。
  • 5
    意富多多泥古を神主(かむぬし)として、三輪山の大物主大神を正式に祀り直した。さらに多くの神々の祭祀も整えた。
  • 6
    祭祀が整うと、たちまち疫病が収まり、国に平和が戻った。崇神天皇は「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とも称され、「実質的に国を初めて治めた天皇」とも言われる。

登場人物一覧

人物名読み方役割・概要
崇神天皇 スジンテンノウ(御真木入日子印恵命) 第10代天皇。疫病蔓延に苦しみながら、大物主神の神託を受けて国を立て直した。「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とも呼ばれる
大物主大神 オオモノヌシノオオカミ 三輪山の神。大国主命の幸魂・奇魂(第11話)。疫病を引き起こした「祟りの神」として夢に現れ、自らを適切に祀ることを求めた
意富多多泥古 オオタタネコ(大田田根子) 河内国(大阪)で見つかった人物。大物主大神の子孫であり、神主として三輪山の大神を祀った。三輪の大祝(おおほうり)の祖先とされる
活玉依毘売 イクタマヨリビメ 大物主大神が人間の姿で通ってきた女性。意富多多泥古の遠祖にあたる
倭迹迹日百襲姫命 ヤマトトトヒモモソヒメ 崇神天皇の叔母(日本書紀では大叔母)。大物主神を夫として迎えた巫女的な存在。箸墓古墳の被葬者とされる(日本書紀の記述)

大物主神の神託

🌟 夢に現れた大物主神の言葉(古事記)
「この国の疫病は我が意志によるものである。
意富多多泥古(オオタタネコ)という者をもって
我を祀らせよ。そうすれば神の気は平らぎ、
国は必ず平和になるであろう。」

崇神天皇は夢告げに従い、全国に使者を出して意富多多泥古を探させた。茅渟縣(ちぬのあがた・大阪府南部)の陶邑(すえむら)でついに見つかり、都へ連れてこられた。

意富多多泥古が「大物主大神と活玉依毘売の子孫です」と名乗り、その素性が神意の通りであることが確かめられた。意富多多泥古を神主として三輪山の大神を祀ると、疫病は収まった。

「祟り神」の意味

古事記・日本書紀における「祟り(たたり)」は、単なる怒りや復讐ではなく「正しく祀られていないことへの神の意思表示」を意味する。大物主神が疫病を起こしたのは「自分を適切に祀っていないから」であり、正しく祀れば問題は解消される。これは「祟りを解消するには正しい祭祀が必要」という古代日本の宗教観の基本を示している。

意富多多泥古が神主になった意味

「神の子孫」が「神を祀る神主(かむぬし)」になるという構造は、古代日本の神職制度の基本原理である。神と人間の血がつながった者のみが神を正しく祀れる、という考え方。現在の三輪の大神神社の神主(大神氏)も意富多多泥古の子孫とされる。

崇神天皇が「実質的な初代」と言われる理由

崇神天皇は「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」という称号を持ち、神武天皇と同じく「はつくにしらす」と呼ばれた。これは「神武天皇が神話的な建国者」であるのに対し、「崇神天皇が実際の統治者としての初代」という二重性を示す。考古学的にも崇神天皇の時代(3〜4世紀頃)が大和王権の実質的な成立期に近いとされる。

日本書紀の記述―倭迹迹日百襲姫と箸墓

日本書紀(崇神天皇紀)には、大物主神に関するもう一つの有名なエピソードが記されている。「夜だけ来る夫の正体を見てしまう」という「見るなのタブー」神話(第15話・豊玉毘売と同じ構造)である。

📖 日本書紀(崇神天皇紀)の記述

崇神天皇の叔母・倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)は、大物主大神の妻となった。しかし大物主神は夜しか姿を見せず、昼には来なかった。

ある日、姫が「昼のお姿も見たい」と訴えると、大物主神は「明朝、我の姿をよく見よ」と答えた。翌朝、姫が夫の姿を見ると、くしの箱に小さな美しい蛇(小蛇)がいた。姫は驚いて叫んでしまった。

大物主神は恥じて、人の姿になり「汝が私に恥をかかせた。私は汝に恥をかかせよう」と言って三輪山へ去ってしまった。

悲しんだ倭迹迹日百襲姫は、急いで腰を下ろしたとき、箸(はし)で陰部を突いて亡くなった。その墓が「箸墓(はしはか)」であり、昼は人が造り、夜は神が造ったと伝えられる。

⚠️ 上記は日本書紀の記述です。古事記にはこの場面の記載はありません。
箸墓古墳(奈良県桜井市)は全長280mを超す大型前方後円墳で、3世紀後半の築造とされ、卑弥呼(ひみこ)の墓ではないかという説もあり、古代史最大の謎の一つとなっている。

古事記原文と現代語訳

①大物主神の夢告げ

📜 古事記原文(訓読文)

「大物主大神、御夢に顕れて詔りたまひしく、「この国の荒ぶるは我が意なり。意富多多泥古をもちて我が御前を祭らば、神の気平らぎ、国必ず平けむ。」とのりたまひき。」

【読み方】おおものぬしのおおかみ、おほゆめにあらわれてのりたまいしく、このくにのあらぶるはわがこころなり。おおたたねこをもちてわがみまえをまつらば、かみのけひらぎ、くにかならずたいらけむ。とのりたまいき。

💬 現代語訳

大物主大神が夢に現れて仰せになった。「この国が荒れているのは私の意志によるものである。意富多多泥古という者をもって私の御前を祀るならば、神の気が鎮まり、国は必ず平和になるであろう。」と仰せになった。

②意富多多泥古の素性が判明する場面

📜 古事記原文(訓読文)

「問ひたまはく、『汝は誰が子ぞ』と問ひたまへば、答へ白さく『大物主大神、陶津耳命の女、活玉依毘売を娶りて生める子、名は飯肩巣見命。次に建甕槌命。次に意富多多泥古命なり』と申しき。」

【読み方】とひたまわく、なんじはたがこぞ、ととひたまえば、こたえもうさく、おおものぬしのおおかみ、すえつみのみことのむすめ、いくたまよりびめをめとりてうめるこ、なはいいかたすみのみこと。つぎにたけみかつちのみこと。つぎにおおたたねこのみことなり、ともうしき。

💬 現代語訳

「あなたは誰の子ですか」とお問いになると、申し上げていうには「大物主大神が陶津耳命(すえつみのみこと)の娘・活玉依毘売(いくたまよりびめ)を娶って生まれた子の名は飯肩巣見命(いいかたすみのみこと)。次に建甕槌命(たけみかつちのみこと)。次に意富多多泥古命(オオタタネコ)でございます」と申し上げた。

③祭祀後に国が平和になる(古事記)

📜 古事記原文(訓読文)

「かれ、この意富多多泥古命をもちて、神主として、御諸山に大物主大神を祭りたまへば、神の御心平らぎて、国内の疫疾悉に息み、風波も静まりき。」

【読み方】かれ、このおおたたねこのみことをもちて、かむぬしとして、みもろやまにおおものぬしのおおかみをまつりたまえば、かみのみこころひらぎて、くにうちのえやみことごとくやみ、かぜなみもしずまりき。

💬 現代語訳

そこで意富多多泥古命を神主として、御諸山(みもろやま=三輪山)に大物主大神を祀り申し上げると、神のお気持ちが鎮まり、国内の疫病はことごとく収まり、風波もおさまった。

考察・深掘り

崇神天皇はなぜ「二番目のはつくにしらす」と呼ばれるのか

「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」は神武天皇の称号でもある。崇神天皇が同じ称号を持つことは、古事記の編纂者が「神武天皇は神話的な象徴」「崇神天皇が実質的な建国者」という認識を持っていた可能性を示す。 実際、考古学では3世紀後半〜4世紀頃が大和王権の実質的な形成期とされ、崇神天皇の時代(記紀では2世紀頃とされているが、実年代は諸説あり)との対応が指摘される。 「神武から崇神の間の欠史八代」の期間が神話的な「フィラー(つなぎ)」であった可能性もある。

大物主神と出雲信仰の吸収――三輪山祭祀の政治的意味

大物主神は大国主命の幸魂・奇魂(第11話)であり、出雲系の神の化身である。崇神天皇がこの神を正式に祀り直すことは、「大和朝廷が出雲系の神(旧来の土着信仰)を公式に取り込んだ」ことを意味する。 三輪山(御諸山)の祭祀は大和朝廷における最重要の国家祭祀となり、大神神社は以後も「大和の最古の神社」として特別な地位を持ち続けた。 「征服と包摂」という大和朝廷の宗教政策が、この神話に凝縮されているとも言える。

箸墓古墳は卑弥呼の墓か――3世紀の謎

奈良県桜井市の箸墓古墳(全長278m、3世紀後半)は、倭迹迹日百襲姫の墓とされる。一方、中国の史書「魏志倭人伝」に登場する女王・卑弥呼は「248年頃に死去、大きな墓を作った」と記されており、箸墓古墳の規模・時代と合致することから「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫」説が一部の研究者によって提唱されている。 ただし卑弥呼と倭迹迹日百襲姫の同一視については反論も多く、現在の学界では確定的な説はない。宮内庁が「第7代孝霊天皇の皇女の陵」として管理しているため発掘調査が制限されており、謎は深まるばかりである。

関連神社

神社名所在地この神話との関係
大神神社(三輪明神) 奈良県桜井市 三輪山そのものが御神体の古社。大物主大神を主祭神とし、意富多多泥古が神主となって祀った祭祀の直接の継承地。本殿を持たない磐座信仰の代表例
狭井神社 奈良県桜井市 大神神社の摂社。大物主大神の荒魂を祀る。病気平癒・医薬の神として信仰され、三輪山登拝の入口でもある
箸中山古墳(箸墓古墳) 奈良県桜井市 倭迹迹日百襲姫命の墓所(宮内庁治定陵)。3世紀後半築造の前方後円墳で、卑弥呼との同一視も議論される。周濠は見学可能
崇神天皇陵(山辺道勾岡上陵) 奈良県天理市 崇神天皇の陵墓として宮内庁が治定する行燈山古墳。4世紀前半の前方後円墳(全長242m)
等彌神社(等彌神社上津尾社) 奈良県桜井市 崇神天皇が鎮祭した神社の一つ。「鳥見の白庭山」での国見神話の舞台とも関連する

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参考文献:古事記(太安万侶撰・712年)、日本書紀(崇神天皇紀)

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