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善導(ぜんどう)は、中国・唐の時代のお坊さんです。「南無阿弥陀仏」ととなえる念仏の教えを広めました。日本の法然は、善導の書いた一文に出会って浄土宗をひらきます。
この記事でわかること
- 善導とはだれか。浄土宗の「高祖(こうそ)」、浄土真宗の七高僧の第五祖
- 長安の町で、10万巻のお経と200枚あまりの絵を人々に手わたした話
- 【謎】浄土宗のお寺の善導大師像は、なぜ「下半身だけが金色」なのか
法然の夢にあらわれた善導は、体の半分だけが金色にかがやいていました。その「半分」に、念仏の教えの大切な意味がかくれているのかもしれません。
01. 善導(善導大師)の基本情報
| 分類 | 祖師(そし)。中国・唐の浄土教の僧 |
| 読み方 | ぜんどう |
| 別名 | 善導大師(ぜんどうだいし)・光明寺の和尚(こうみょうじのかしょう) |
| 梵名(ぼんみょう) | なし(中国の僧のため) |
| 生没年 | 613年(大業9年)〜681年(永隆2年)。69歳 |
| 出身 | 泗州(ししゅう)夏丘県(かきゅうけん。今の安徽省)とも、青州(せいしゅう)臨淄県(りんしけん。今の山東省)とも。諸説あり |
| 師 | 道綽(どうしゃく) |
| おもな著作 | 『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ。観経疏)』4巻など、5部9巻 |
| 位置づけ | 浄土宗では高祖(法然は元祖)。浄土真宗では七高僧の第五祖 |
| 真言 | 決まったものは確認できませんでした |
| 種子字 | 決まったものは確認できませんでした |
| ご縁日 | 決まったものは確認できませんでした(命日は3月14日) |
02. 善導大師とは? ― 法然が「この人ひとり」と仰いだ念仏の師
① 一言まとめ
善導は、「どんな人でも、阿弥陀如来の名をとなえれば極楽へ生まれられる」と説いた人です。その教えは500年後の日本で法然に受けつがれ、浄土宗のもとになりました。
② 由来・生涯
善導は613年に生まれ、幼いころに出家しました。各地をめぐったあと、長安(今の西安)の南の終南山(しゅうなんざん)にある悟真寺(ごしんじ)に入ります。
641年、善導は晋陽(しんよう。今の山西省太原市)で道綽をたずね、弟子になりました。そして645年に道綽が亡くなるまで、教えを受けます(Wikipedia)。
そのあと善導は、都の長安で、ふつうの人々に念仏を広めることに力をつくしました。光明寺や大慈恩寺(だいじおんじ)などに住んだといわれます(07の物語)。
善導は、『観無量寿経』の注釈書『観経疏』を書きました。その中には、のちに日本の歴史を動かす一文がありました。
(浄土宗公式サイトの現代語訳)
『観経疏』には、「二河白道」という有名なたとえ話も書かれています。火の川と水の川にはさまれた細い白い道を、こちら岸の声に送られ、向こう岸の声に呼ばれて進む話です。くわしくは二尊院の記事で紹介しています。
681年、善導は69歳で亡くなりました。弟子たちは終南山のふもとに善導塔(崇霊塔〈すうれいとう〉)と香積寺(こうしゃくじ)を建てたと伝わります。
それから約500年後の1175年。比叡山で学んでいた法然は、43歳のときにこの一文に出会いました。「これなら、だれでも救われる」。法然はこの確信から、浄土宗をひらいたのです。
③ 姿の特徴
03. 善導大師のご利益 ― 極楽往生と、心からの念仏
📿 念仏の心を深める
🕯️ 先祖供養
📚 学問・書写
- 極楽往生:阿弥陀如来の名をとなえる念仏で、だれもが極楽へ生まれられると説きました
- 念仏の心を深める:「いついかなることをしていても」となえよ、と暮らしの中の念仏を説きました(02)
- 先祖供養:浄土宗の家のお仏壇には、善導大師の像や絵がまつられます(浄土宗公式)
- 学問・書写:『阿弥陀経』を10万巻書き写したと伝わります
ご利益の根拠:善導に決まったご利益があると書いた資料は、確認できませんでした。ここでは、その教えと生涯、浄土宗のまつり方から紹介しています(筆者の見方)。
こんな人におすすめ:むずかしい修行はできないけれど、心のよりどころがほしい人。家のお仏壇の「金色のお坊さん」がだれなのか、知りたい人です。
04. 善導と関係の深い仏様・人物 ― 阿弥陀如来から法然・親鸞まで
05. 善導大師に出会える寺 ― 知恩院・善導寺・香積寺
- 知恩院(京都市東山区):浄土宗の総本山です。南北朝時代の「二祖曼荼羅図」の一幅として、善導の一生をえがいた絵を伝えます。善導の一生をえがいた絵としては、現存最古とされます。2009年度に修理されました(京都府)。くわしくは知恩院の記事へ
- 善導寺(福岡県久留米市):浄土宗の大本山です。山号は井上山(せいじょうざん)で、光明寺ともいいます。1212年、浄土宗第二祖の聖光(しょうこう)上人が夢で善導大師を見て、像をまつったと伝わります。のちに順徳天皇から「善導寺」の額を賜ったとされます(コトバンク「善導寺」)
- 二尊院(京都市右京区):送り出す釈迦如来と迎える阿弥陀如来の2体をまつる寺です。この二尊は、善導の「二河白道(にがびゃくどう)」のたとえをかたちにしたもの、と説明されます。くわしくは二尊院の記事へ
- 香積寺(こうしゃくじ。中国・西安):善導の亡きあと、弟子たちが善導塔とともに建てたと伝わる寺です(Wikipedia)
06. 善導大師の見分け方ガイド
✅ これがあれば善導大師かも?チェックリスト
- □ 体の下半分(または半身)が金色の僧の像
- □ 浄土宗のお寺やお仏壇で、法然とならんでまつられている
- □ 名札や題に「善導大師」「光明寺和尚」とある
- □ 七高僧の絵で、道綽と源信のあいだに置かれている
まちがえやすい人とのちがい
07. 善導の物語 ― 長安の町にくばられた、10万巻のお経
7世紀の長安は、世界でも有数の大きな都でした。そこに、一人の念仏僧がいました。善導です。
善導は、むずかしい学問を学者たちに説くよりも、町の人々に念仏を伝えることに力をそそぎました。
善導がしたことのひとつは、『阿弥陀経』を書き写すことでした。その数、なんと10万巻と伝わります。書き写したお経は、縁のある人々に手わたされました。
もうひとつは、絵でした。善導は、極楽のようすをえがいた「浄土変(じょうどへん)」を、200枚あまりもかいたといいます。字の読めない人でも、絵を見れば極楽の美しさがわかります。
さらに善導は、洛陽(らくよう)の南にある龍門(りゅうもん)の石窟で、奉先寺(ほうせんじ)の造営の検校(けんぎょう。工事を見守る役)をつとめたとされます。
お経、絵、そして石の仏。善導は、言葉と目に見えるものの両方で、極楽への道を人々に手わたしていったのです。
──そう、善導の念仏は、お寺の中だけのものではありませんでした。町の人の手の中にとどけられるものだったのです。
08. 善導のまとめと関連記事
この記事でわかったこと
浄土宗のお寺で半身金色のお坊さんを見かけたら、500年の時をこえて、一文で法然と結ばれた人のことを思い出してみてください。
09. ゆる仏様トーク ― 善導大師編
善導は、今でいえば「500年前に書かれた一冊の本の一行で、まだ会ったこともない読者の人生を変えた作家」です。しかもその読者は、夢の中まで会いに来てもらっています。
10万巻のお経を書き写し、200枚あまりの絵をかく。1日1巻でも、270年以上かかる計算です。──そう、きっと一人の手ではなく、多くの人の手が善導の願いを支えていたのでしょう。
善導が、「自分にはむずかしい修行なんてできない」と感じている人に声をかけるとしたら――
※善導の言葉そのものではありません。『観経疏』の「いついかなることをしていても」という一文をもとに、イメージしたセリフです。

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