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覚鑁(かくばん)は、平安時代の終わりに真言宗を立て直そうとしたお坊さんです。「興教大師(こうぎょうだいし)」とも呼ばれ、和歌山の根来寺(ねごろじ)をひらきました。真言宗中興(ちゅうこう。おとろえたものを再びさかんにすること)の祖、新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)の祖とされます。
この記事でわかること
- 覚鑁とはだれか。高野山を追われ、根来寺の礎(いしずえ)を築いた僧
- お不動さまが二人にあらわれた「錐(きり)もみ不動」の伝承
- 【謎】覚鑁の一冊の本は、なぜ宗派をこえて日本中のお墓の「五輪塔」とつながったのか
「二つに見えて、本当は一つ」。覚鑁の生涯には、このふしぎな言葉が何度もあらわれます。
01. 覚鑁(興教大師)の基本情報
| 分類 | 祖師(そし)。真言宗中興の祖・新義真言宗の宗祖 |
| 読み方 | かくばん |
| 別名 | 興教大師(こうぎょうだいし)・密厳尊者(みつごんそんじゃ)。幼名は弥千歳(やちとせ) |
| 梵名(ぼんみょう) | なし(日本の僧のため) |
| 生年 | 1095年(嘉保2年)6月17日 |
| 没年 | 康治2年(こうじ2年)12月12日。西暦では1144年1月にあたり、1143年と書く資料もあります。根来寺の公式サイトでは49歳(数え年) |
| 出身 | 肥前国(ひぜんのくに)藤津荘(ふじつのしょう)。今の佐賀県鹿島市です |
| 師 | 仁和寺の寛助(かんじょ)など |
| おもな著作 | 『五輪九字明秘密釈(ごりんくじみょうひみつしゃく)』『月輪観(がちりんかん)』など。『密厳院発露懺悔文(みつごんいんほつろさんげもん)』も覚鑁の作と伝えられてきましたが、新義真言宗の学会では作者不詳が通説とされます(Wikipedia) |
| 大師号 | 1690年(元禄3年)、東山天皇から「興教大師」の号がおくられました(根来寺公式「根來寺の歴史」) |
| ご縁日・法要 | 12月12日(命日の報恩講)、6月17日(誕生の両祖大師降誕会〈りょうそだいしごうたんえ〉) |
| 真言・種子字 | 決まったものは確認できませんでした |
02. 興教大師覚鑁とは? ― 高野山を立て直そうとした真言宗中興の祖
① 一言まとめ
覚鑁は、空海から300年ほどたって元気をなくしていた高野山を、もう一度学びの山にしようとした人です。けれど反発にあって山をおり、根来の地で生涯を終えました。その教えは、のちの新義真言宗へとつながります。
② 由来・生涯
覚鑁は1095年、肥前国の藤津荘に生まれました。13歳で京都の仁和寺に入り、寛助のもとで学びます。正式に僧になった(得度した)年は、13歳とも16歳ともいわれます。奈良と京都を行き来しながら、仏教を学びました(根来寺公式・Wikipedia)。
20歳になると、覚鑁は高野山にのぼります。そして、真言密教をもう一度さかんにしようと努めました。
やがて覚鑁は、鳥羽上皇(とばじょうこう)の深い信頼を得ます。1132年、高野山に学問の場「大伝法院(だいでんぽういん)」と、修行の場「密厳院(みつごんいん)」が完成しました。根来の近くの荘園も、上皇から寄進されています(根来寺公式)。
1134年、覚鑁は金剛峯寺の座主(ざす。お寺のいちばん上の責任者)もかねることになりました。ところが、これに高野山の僧たちが強く反発します。覚鑁は翌1135年に座主をしりぞき、密厳院にこもりました(日本大百科全書)。
それでも対立はおさまりません。1140年、反発した僧たちが密厳院をおそいます(07の物語)。覚鑁は高野山をはなれ、根来の豊福寺(ぶふくじ)へうつりました。
根来で覚鑁は、豊福寺の境内に、末寺の学問所として円明寺(えんみょうじ)と神宮寺(じんぐうじ)をつくります。そして康治2年12月12日、円明寺で亡くなりました(根来寺公式「根來寺の歴史」)。
覚鑁の亡きあと、1288年ごろに後の世の僧・頼瑜(らいゆ)が、学びの拠点を根来にうつしました。こうして「新義(しんぎ)」と呼ばれる教えが育っていきます。
③ 姿の特徴
- 僧の姿:僧の姿の肖像としてまつられます。根来寺の光明真言殿(こうみょうしんごんでん。光明殿)に、興教大師の像が安置されています(根来寺公式)
- 持物・印相:仏様のように決まった持物(手に持つ道具)や印相(手の形)はありません。今回、像の手の形や持ち物をくわしく説明した公式の資料は確認できませんでした
- 新義真言宗の寺では:空海(弘法大師)とならぶ「両祖大師」としてまつられます
03. 興教大師にまつわるご利益 ― 学びなおし・心の立て直し
🕊️ 心の立て直し・懺悔
🛡️ 身代わり・厄除け(錐もみ不動)
🪷 極楽往生・先祖供養
- 学業・学びなおし:おとろえた学問の山を立て直そうとした生涯から
- 心の立て直し・懺悔:覚鑁の作と伝わる『密厳院発露懺悔文』は、僧たちのあやまちを見つめる懺悔の文です(作者不詳とする説が通説)
- 身代わり・厄除け:覚鑁を守ったと伝わる根来寺の「きりもみ不動尊」に、家内安全・厄除開運などを祈ります(根来寺公式)
- 極楽往生・先祖供養:大日如来と阿弥陀如来は同じ仏だと説いた教えから
ご利益の根拠:覚鑁そのものに決まったご利益があると書いた資料は、確認できませんでした。ここでは、生涯と教え、根来寺の祈祷から紹介しています(筆者の見方)。
こんな人におすすめ:一度うまくいかなかったことを、もう一度やり直したい人。人とぶつかって、心がつかれている人。そして、家のお墓の五輪塔の意味を知りたい人です。
04. 覚鑁と関係の深い仏様・人物 ― 大日如来から空海まで
05. 覚鑁ゆかりの寺 ― 根来寺の大塔・錐もみ不動・奥の院
拝観時間:4〜10月は9時10分〜16時30分、11〜3月は9時10分〜16時
入山料:大人(中学生以上)500円・小学生以下は無料
10月下旬は法要のため、大師堂・大塔・大伝法堂を拝観できないことがあります
住所:和歌山県岩出市根来2286(電話 0736-62-1144)
・陀羅尼会(だらにえ):12月11日。命日の前の晩(逮夜〈たいや〉)に、学びの成果を問答で示す「論議」を行います。昔は夜どおし尊勝陀羅尼(そんしょうだらに)を読んだことから、この名があります
・報恩講(ほうおんこう):12月12日。覚鑁の命日に、恩に感謝する法要です(光明真言殿)
・きりもみ不動尊のご開帳:1月28日の初会式(はつえしき)と、8月28日の夏会式(なつえしき)の年2日だけ。ご開帳は朝5時30分から(終わりは1月が16時、8月が16時30分)
時刻は年によって変わることがあります。行事の時間やお参りできる範囲は、根来寺に確かめてからお出かけください。
06. 覚鑁の見分け方ガイド
✅ これがあれば覚鑁(興教大師)かも?チェックリスト
- □ 「興教大師」「密厳尊者」の名がある
- □ 新義真言宗(智山派・豊山派など)のお寺で、空海とならんでまつられている
- □ 「両祖大師」の一人として紹介されている
- □ 根来寺の光明真言殿にまつられている
- □ 仏様の像ではなく、袈裟(けさ)を着た僧の姿の像や肖像画である
まちがえやすい「大師」とのちがい
07. 覚鑁の物語 ― 二人になったお不動さま(錐もみ不動の伝承)
1140年(保延6年)のことと伝わります。高野山の密厳院に、覚鑁に反発する僧たちがおしよせました。密厳院は焼きはらわれてしまいます。
僧たちは覚鑁をさがして、お堂へふみこみました。不動堂の中には、不動明王のお像があります。ところが、なんと、そこにはお不動さまが二体ならんでいたのです。
「どちらかが覚鑁にちがいない」。僧たちは、錐(きり)を手にとりました。そして、二体の不動明王のひざに、錐をつき立てたのです。
すると、二体のひざから、どちらも赤い血が流れだしました。僧たちはおそれおののき、逃げていったといいます。
覚鑁は、お不動さまに守られたのだと伝わります。この騒ぎは「錐もみの乱」とも呼ばれます。覚鑁を守ったと伝わるお不動さまは、今は根来寺の不動堂に「きりもみ不動尊」としてまつられています。
──そう、追っ手が見たのは「二つ」でした。けれど、血を流したのも、守ったのも、同じ一つの心だったのかもしれません。
08. 覚鑁のまとめと関連記事
この記事でわかったこと
- 覚鑁は、高野山の立て直しをめざし、反発にあって根来へうつった真言宗中興の祖
- 二体のお不動さまに守られたという「きりもみ不動尊」が、根来寺に今もまつられている
- 大日如来と阿弥陀如来を「同じ」と説いた覚鑁の本が、のちに宗派をこえた五輪塔の考え方につながったとされる
根来寺の大塔を見あげるとき、二つに分かれたものを一つにしようとした、一人の僧の生涯を思い出してみてください。
09. ゆる仏様トーク ― 興教大師編
覚鑁は、今でいえば「伝統ある老舗の改革をまかされた若手社長が、古株に反発されて本店を出され、新しいお店で教えを守りぬいた」ような人です。そのお店は、のちに大きなのれんわけをしていきました。
追っ手が来たら、お不動さまが一体ふえていた。かくれんぼなら、いちばん見つけにくいかくれ方です。──そう、でも錐でたしかめようとしたとき、二体とも血を流しました。守る側もまた、傷を負っていたのです。
覚鑁が、人とぶつかって心がつかれた人に声をかけるとしたら――
※覚鑁の言葉そのものではありません。高野山をおりて根来で教えを守った生涯をもとに、イメージしたセリフです。

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