神 様 図 鑑
たけいなだねのみこと 建稲種命
倭建命東征の副将軍・宮簀媛命の兄 / 尾張水軍を率いて関東・東北を平定した英雄 / 帰路に駿河の海で散った悲運の国造
基本情報
建稲種命は名古屋・尾張・知多半島・三河と愛知県全体に深い縁を持つ英雄神です。建稲種命は内々神社(愛知県春日井市)・幡頭神社(愛知県西尾市)・羽豆神社(愛知県知多郡)などで祭神として祀られている。さらに熱田神宮(名古屋市熱田区)の御祭神(相殿神)でもあり、まさに「愛知県の英雄神」といえる存在です。父神・乎止与命(前回記事)、母神・真敷刀俾命、妹・宮簀媛命(No.093)という尾張氏シリーズの流れの中で最も「人間的な英雄」として描かれる建稲種命。その悲劇的な最期の地は駿河の海(静岡)ですが、遺骸が愛知県西尾市・幡頭海岸に流れ着いたとされ、「死してなお尾張へ帰ってきた英雄」として愛知県の人々に長く語り継がれています。
① 名前と出典
| 正式名称 |
建稲種命(たけいなだねのみこと)尾張国熱田太神宮縁記・先代旧事本紀・熱田神宮社伝ほか 建伊那陀宿禰(たけいなだのすくね)とも表記される。各種文献 |
|---|---|
| 名前の意味 |
「建(たけ)」——勇敢・強い・猛々しいという意味の美称。神名・人名に多く使われる武勇を讃える語(倭建命・武甕槌命などと同根)。 「稲種(いなだね)」——稲の種という意味。農業神的な神格要素とも、「稲の種を蒔くように国土を豊かにした」という治政的な意味ともされる。尾張氏が「稲穂の実る濃尾平野の支配者」であったことを示す神名でもある。「建稲種(たけいなだね)」全体で「勇猛で稲穂のように豊かな命の神」という意味となる。 |
| 初出文献 | 古事記・日本書紀には名が登場しない。尾張国熱田太神宮縁記(890年・寛平2年)が最古の記録のひとつで、「建稲種命が倭建命(日本武尊)の東征に副将軍として随伴した」と記す。先代旧事本紀(天孫本紀)にも乎止与命の御子として記録される。尾張国熱田太神宮縁記(890年)・先代旧事本紀 |
| 別名・称号 |
幡頭(はたがしら)——東征軍において軍の旗(幡)を持ち先頭に立つ「旗頭・先陣大将」の役職名。建稲種命が東征で担った具体的な役割を示す称号。この「幡頭」が「幡頭(はず)神社」「羽豆(はず)神社」という神社名の語源になったとされる。 建伊那陀宿禰(たけいなだのすくね)——「宿禰(すくね)」は古代の姓(かばね)のひとつ。臣(おみ)・連(むらじ)に次ぐ高い氏族の称号。 |
| 神様の種類 |
尾張氏系・国津神——倭建命(天孫系皇子)と行動を共にした尾張国造の後継者・英雄神 景行天皇と成務天皇の二代の間、朝廷に仕え、日本武尊東征の際には副将軍として軍功を挙げたとされている。父・乎止与命(初代尾張国造)の後を継いで二代目尾張国造となり、大和政権の中枢にも連なった尾張氏の最盛期を体現する神。 |
② 人物像と家族関係
建稲種命は尾張氏の歴史において最も「英雄」として描かれる人物。父・乎止与命の後を継いで尾張国造に就任しつつ大和政権にも仕え、妹・宮簀媛命を倭建命に紹介して熱田神宮の創建につながる縁を結んだ。倭建命の東征では「幡頭(旗頭)」として軍の先陣を担い、東国の蝦夷討伐を成功させた。しかし帰路に駿河の海(伊豆周辺)で船が沈み水死という非業の最期を遂げた——この悲劇的な生涯が、愛知県各地で「英雄を弔う神社」として今も語り継がれる理由。
| 父神 | 乎止与命(おとよのみこと)——初代尾張国造(本シリーズ前回記事) |
|---|---|
| 母神 | 真敷刀俾命(ましきとべのみこと)——下知我麻神社(熱田神宮境内)御祭神(本シリーズ前々回記事) |
| 妹 | 宮簀媛命(みやずひめのみこと・No.093)——倭建命の妃・草薙剣を守り熱田神宮を創建した女神 |
| 義弟(妹の夫) | 倭建命(やまとたけるのみこと・No.081)——景行天皇の皇子・東征の主役・熱田神宮主祭神 |
| 妻神 | 玉姫命(たまひめのみこと)——知多半島南端・羽豆岬(現在の南知多町師崎)付近に居住。近くの羽豆岬で夫の帰りを待っていたことから、待合浦とも呼ばれる。 |
| 御子・後裔 | 志理都紀斗売(しりつきとめ)ほか——後に尾張氏の熱田神宮大宮司家へと続く系譜の祖。応神天皇の妃・仲姫命も建稲種命の孫娘とされる。 |
③ 活躍した時代
景行天皇と成務天皇の二代の間、朝廷に仕え、日本武尊東征の際には副将軍として軍功を挙げた。景行天皇の御代に倭建命の東征(関東・東北の平定)が行われたとされ、建稲種命はその東征軍の副将軍として活躍した。考古学的には東之宮古墳(愛知県犬山市・前方後円墳・国史跡)が建稲種命の墓と推定されており、4世紀前後に実在した尾張の実力者像と重なる。
祀られる神社
全国に広がる建稲種命ゆかりの神社
神話——倭建命東征と建稲種命
倭建命東征における建稲種命の全行程
妻・玉姫命が夫の帰りを待った「待合浦」——羽豆岬の悲しい伝承
同じ「はず」の読みをする羽豆神社は、妻の玉姫と暮らした土地と伝わり、近くの羽豆岬で夫の帰りを待っていたことから、待合浦とも呼ばれる。建稲種命の妻・玉姫命は知多半島の最南端・師崎(もろざき・現在の南知多町)に居を構えていたとされる。建稲種命が東征へ出発した後、玉姫命は羽豆岬から遠い海を見つめ夫の帰りを待ち続けたという。しかし建稲種命は帰ってくることがなかった——この「待合浦(まちあいうら)」という地名が示す悲しい伝承は、羽豆岬の風景とともに現代まで語り継がれている。現在の愛知県知多郡南知多町師崎・羽豆神社は式内社(従一位)という高い格式を持ち、海の見える高台に鎮座している。
逸話・エピソード
内々神社は、「延喜式神名帳」にも記載されている由緒ある神社。主祭神は尾張氏の祖建稲種命であり、これに日本武尊・宮簀姫命を配している。昔から武将の尊崇が厚く、豊臣秀吉の朝鮮役にも戦勝を祈願して、この社頭から軍船用の帆柱を伐り出したといわれている。また、篠木荘33か村の総鎮守でもあった。「うつつ(現)かな」と泣き叫んだ倭建命の言葉が神社名「内津(うつつ)」になり、それが現在の「内津峠(うつつとうげ)」「内津川」「内津町(春日井市)」という地名に残っている——という神社の伝説は「日本武尊が泣いて呼んだ声が愛知県の地名になった」という珍しいエピソードとして語り継がれている。権現造りの社殿は江戸末期に名工・立川一族が造ったもので、夢窓国師作と伝わる廻遊式林泉型の庭園も見事。
702年(大宝2年)、文武天皇は夢で建稲種命の墓があることを告げられた。そこで勅命により社殿を造営し、矛を納めて御神体とした。文武天皇(もんむてんのう・第42代・701〜707年)が夢の中で「建稲種命の墓が蛭子岬にある」というお告げを受け、天皇の勅命(直接の命令)で神社を建てるという、極めて異例の格式での創建が幡頭神社の始まり。「矛(ほこ)を御神体とした」という記録も特徴的で、東征軍の武将として「幡頭(旗頭)」を担った建稲種命の武将神としての神格が矛という御神体に象徴されている。建稲種命の死から約300年後に天皇自らが動いて神社を建てた——この事実が「建稲種命の東征での功績がいかに大きかったか」を後世が認識していたことの証明でもある。
建稲種命が着ていた衣が流れ着いたところから「衣(きぬ)が浦」という地名がついたところもあります。現在の愛知県西尾市周辺・三河湾の一帯に「衣が浦(きぬがうら)」という地名が残っており、これが建稲種命の衣が流れ着いた海岸という伝説に由来するとされる。「遺骸が流れ着いた場所に幡頭神社」「着ていた衣が流れ着いた場所に地名『衣が浦』」——駿河の海での水死という出来事が残した伝説の連鎖が、愛知県の地名・神社の分布と重なり合っている。現代の「衣浦(きぬうら)港」「衣浦大橋」という地名も同源と考えられており、建稲種命の悲劇が三河湾の地理に今も刻まれている。
ご利益
倭建命東征の幡頭(副将軍・旗頭)として武功を挙げた建稲種命は、武運・勝運・海上安全という神格を持ちます。文武天皇が勅命で神社を建てたという格式から、国家・組織を動かすほどの実力を示した神として仕事運・組織守護にも縁が深い。また悲劇的な最期(水死)から水難除け・海上安全のご利益も特に信仰されています。

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