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【お寺めぐり】実相院-紅葉が映る「床もみじ」と300年前の女院御所、なぜ比叡山を借景に?(京都府京都市)

(撮影禁止のため画像なし)

滝の間の黒い床に紅葉が映る「床もみじ」(屋内は撮影禁止)

紅葉が黒い床に映る「床もみじ」で知られる、京都・岩倉(いわくら)の実相院(じっそういん)。皇族や名家の出身者が代々の門主(もんしゅ=寺のトップ)をつとめた門跡寺院(もんぜきじいん)です。

この記事でわかること

  • 黒い床に紅葉が映る「床もみじ」と、約300年前に移された女院御所(にょいんごしょ)の客殿
  • 最後の将軍・足利義昭の孫が門主になり、寺を立て直した物語
  • 【謎】比叡山と争った寺門派(じもんは)の門跡が、なぜ比叡山を借景にしているのか

写真には残せない紅葉があります。黒い床に映る赤は、その場に立った人の目にだけ残る景色です。

01. 実相院の基本情報

寺号(読み方) 実相院(じっそういん)。実相院門跡・岩倉門跡・岩倉御殿とも呼ばれます
山号 岩倉山(いわくらさん)
宗派 単立(たんりつ=どの宗派にも属さない寺)。公式サイトは「元天台宗の寺門派」と書いています。1952年に天台寺門宗から独立しました(Wikipedia)
ご本尊 不動明王(ふどうみょうおう)。鎌倉時代の作と伝わる木造の立像です
開山 静基(じょうき)僧正
創建 寛喜元年(1229年)。はじめは今の北区紫野(むらさきの)にありました。岩倉へ移った年は、1474年(Wikipedia)と1411年(日本大百科全書)の諸説があります
霊場 近畿三十六不動尊の第16番(日本大百科全書)
寺格 門跡寺院。かつては天台寺門宗の三門跡の一つでした(Wikipedia)
所在地 京都府京都市左京区岩倉上蔵町(あぐらちょう)121
アクセス 地下鉄烏丸線「国際会館」駅から京都バス24系統で約13分、終点「岩倉実相院」下車。叡山電鉄「岩倉」駅から徒歩約20分。※緑色の京都市バスは実相院まで行きません
拝観時間 9:00〜17:00(不定休)
拝観料 大人500円、小中学生250円
駐車場 一般車20台・無料・予約不要(観光バスは予約が必要)
公式サイト 実相院門跡 公式サイト(jissoin.com)/電話 075-781-5464
💡 出典
・開山・創建・紫野・本尊・宗派・拝観時間・拝観料・所在地・アクセス・駐車場・電話:公式サイト(2026年10月確認)
・山号・別称・1952年の独立・三門跡:Wikipedia「実相院」
・上蔵町の読み・1411年の移転説・近畿三十六不動尊:コトバンク(日本大百科全書・日本歴史地名大系)

02. 実相院のご本尊 ― 鎌倉時代と伝わる不動明王

(写真準備中)

本尊・不動明王(写真準備中)

① 一言まとめ

実相院の本尊は不動明王(ふどうみょうおう)です。炎を背に、剣と縄を持って、迷いを断ち切る仏様です。仏様のくわしい話は不動明王の記事にまとめています。

② 由来・経典での位置づけ

不動明王は、密教の中心の仏大日如来(だいにちにょらい)の使いとされます。『大日経(だいにちきょう)』などの密教の経典に説かれ、なかなか教えを聞かない人も力ずくで救う役目を持ちます。

実相院は、三井寺(園城寺〈おんじょうじ〉)を中心とする寺門派の寺でした。寺門派の祖とされる円珍(えんちん)は、修行中に目の前にあらわれた不動明王の姿を描かせたと伝わります。これが三井寺の秘仏「黄不動(きふどう)」です。寺門派は、不動明王への信仰があつい流れなのです。

岩倉の実相院が不動明王を本尊とするのも、この流れの中にあると考えられます(筆者の見方)。

③ 本尊の姿

公式サイトによると、本尊は鎌倉時代に作られたと伝わる、木造の立った姿の不動明王です。像の高さや作者、ふだん拝めるかどうかは、公式サイトに記載がありません。

一般に不動明王は、右手に剣、左手に縄(羂索〈けんじゃく〉)を持ちます。背中には燃えさかる炎の光背(火焔光背〈かえんこうはい〉)を負い、岩の台座(岩座〈いわざ〉)の上に立つ姿が多く見られます。怒った顔ですが、その怒りは、人を救うための慈悲の怒りとされます。立った姿は、すぐに動いて人を助けに行く姿ともいわれます。

💡 出典:本尊は公式サイト「実相院の歴史」「寺宝」。寺門派と黄不動は三井寺の一般的な説明です。
不動明王
明王|本尊
鎌倉時代と伝わる木造の立像

03. 実相院のご利益・祈願

🔥 災難よけ
⚔ 迷いを断つ
🍁 心を静める

実相院の公式サイトには、ご利益の記載がありません。上の3つは、本尊の不動明王の一般的な役目と、寺の雰囲気から選んだ筆者のおすすめです。

  • 災難よけ:不動明王は、背中の炎で災いを焼きはらう仏様とされます
  • 迷いを断つ:右手の剣は、迷いや悪い心を断ち切るためのものとされます
  • 心を静める:黒い床に映る庭をながめる時間は、それだけで心が落ち着きます

ご利益の根拠:不動明王の剣と縄は、密教の経典で、迷いを断ち、人をつなぎとめて救う道具とされます。

こんな人におすすめ:混み合う紅葉の名所に疲れた人。建物や襖絵(ふすまえ)が好きな人。新しい一歩をふみ出す前に、気持ちを整えたい人。

参拝に適した時期:紅葉の見ごろは、例年11月上旬〜12月上旬とされます(ウォーカープラス)。年によって前後するので、出かける前に色づきを確かめましょう。新緑の「床みどり」の季節もおすすめです。公式サイトによると、岩倉は市内より気温が3〜5度低く、桜も遅れて咲きます。

📅 行事・特別拝観:年中行事は、公式サイトに記載がありません。参拝に予約は不要です。紅葉の時期は混み合うので、朝早めの時間がおすすめです。最新の情報は、公式サイトの「今日の実相院」で確かめてください。

04. 実相院 境内の見どころガイド(紅葉の床もみじと2つの庭)

(写真準備中)

四脚門

四脚門(しきゃくもん)

正面の門です。御車寄(おくるまよせ)・客殿とともに、女院御所から移されたものです(公式サイト)。移された年は1721年(享保6年)とも、1720年(享保5年)ともいわれます。

体験ポイント:門の前で、皇族の女性が住んだ御殿の門だったことを思いながら一礼を。バスの終点から歩いてすぐです。

(写真準備中)

御車寄

御車寄(おくるまよせ)

玄関の横の御車寄も、客殿と同じ女院御所から移されたものです(公式サイト)。御車寄とは、牛車(ぎっしゃ)で来た身分の高い客が乗り降りする玄関のことです。

体験ポイント:玄関に立ったら、むかし牛車がここに着いた場面を想像してみてください。足元の石の冷たさが、洛北の空気を感じさせます。

(撮影禁止のため画像なし)

客殿・滝の間

客殿・滝の間と「床もみじ」

客殿は、東山天皇(ひがしやまてんのう)の中宮(ちゅうぐう=天皇の正式な后)・承秋門院(じょうしゅうもんいん)の御殿を移したものです。滝の間の黒い床に、秋は紅葉、初夏は新緑が映ります。「床もみじ」「床みどり」と呼ばれます。

体験ポイント:床に近い高さまでしゃがむと、映りこむ庭が大きく見えます。屋内は撮影禁止なので、目に焼きつけましょう。

(写真準備中)

西側の山水庭園

西側の山水庭園(池泉回遊式)

公式サイトは、西側の山水庭園を「床もみじ」とあわせて紹介しています。池のある回遊式の庭で、池にはモリアオガエルがすむそうです(Wikipedia)。

体験ポイント:晴れた朝は、カエデごしの光が池と床をやわらかく照らします。耳をすませば、池の水音も聞こえてきます。

(写真準備中)

東側の石庭「こころのお庭」

東側の石庭「こころのお庭」

奥比叡(おくひえい)を借景(しゃっけい=遠くの山を庭の景色に取りこむこと)にした石庭です。「御庭植治(おにわうえじ)」の小川勝章氏の監修で、市民が参加してつくられました(公式サイト)。秋は「錦に染まる」と公式サイトは紹介しています。

体験ポイント:石の向こうの山並みを探してみてください。それが比叡山の方角です。この記事の「謎」は、ここから始まります。

(撮影禁止のため画像なし)

狩野派の襖絵

狩野派の襖絵(ふすまえ)

客殿には、群鶴図(ぐんかくず)の襖(つるの間)、竹に虎図の杉戸(牡丹の間)などがあります(公式サイト)。Wikipediaは、障壁画を京狩野4代目の狩野永敬(かのう えいけい)の作としています。

体験ポイント:つるの間では、何羽の鶴がいるか数えてみてください。子どもと一緒だと、宝さがしのように楽しめます。

御朱印 内容
普通朱印 公式サイトの「今日の実相院」に「普通朱印」の記事があります。デザイン・料金・受付時間の記載はありません
確認先 現地か電話(075-781-5464)で確かめてください
⚠ 撮影の注意:公式サイトは「「床もみじ」 「床みどり」を含む、屋内での撮影は固くお断りいたします。」としています。スマートフォンも、屋内では出さないのが安心です。撮影するなら、屋外の門や庭のまわりだけにしましょう。
📷 撮影のポイント:屋外では、四脚門を正面から、石段の下の低い位置から写すと、御殿の門らしい落ち着いた一枚になります。
出典:四脚門・御車寄・客殿・庭・襖絵・撮影の決まりは公式サイト。滝の間・モリアオガエル・狩野永敬はWikipedia「実相院」。移築の年(1720年)は日本大百科全書。
※竹に虎図の襖(波の間・北廊下側)は、通常の拝観では見られません(公式サイト)。

05. 実相院の寺宝・秘宝ハイライト

1721年

女院御所を移した客殿

承秋門院の御殿は、1708年(宝永5年)に建てられました。そして1721年(享保6年。1720年とする辞典もあります)に、実相院へ移されました。義周法親王(ぎしゅうほっしんのう)が門主になったときに下されたものです。Wikipediaは、今では数の少ない女院御所の建物としています。

260年

実相院日記

江戸時代の初めから、歴代の住職が書きつづけた日記です(公式サイト)。Wikipediaは、門外不出の日記で、260年間の記録として貴重だとしています。関連する「実相院文書」は、2015年に京都市の指定有形文化財になっています(京都市の告示)。

2人の天皇

天皇の書(宸翰〈しんかん〉)

後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の宸翰「仮名文字遣(かなもじづかい)」が伝わります。辞典(日本大百科全書)やWikipediaは、国の重要文化財としています。公式サイトは、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の宸翰「忍」も寺宝として紹介しています。

06. 実相院の参拝の作法

お寺の基本の作法は、お寺の参拝作法の記事でくわしく紹介しています。実相院では、次の順番でお参りしましょう。

  1. 四脚門の前で軽く一礼します
  2. 受付で拝観料を納め、靴をぬいで客殿へ上がります
  3. 本尊の不動明王の前で、手を合わせて一礼します
  4. 滝の間では、床にふれず、ほかの人とゆずりあって床もみじをながめます
  5. 屋内では撮影せず、心に残して帰ります
🙏 実相院ならではのポイント:床もみじの黒い床は、寺が大切に守っている客殿の一部です。手をついたり、かばんを置いたりしないようにしましょう。公式サイトによると、客殿や門は国の重要文化財などの指定を受けておらず、寺が自力で修理して守っています。
💡 お寺では、神社のように手をたたかず、手を合わせるだけです。
子どもへの説明:「むかしのお姫さまのおうちを、ここに運んできたんだって。床が鏡みたいに庭をうつすから、そっと見てみようね」

07. 実相院の物語 ― 最後の将軍の孫が、岩倉の門跡を立て直すまで

1229年(寛喜元年)。静基(じょうき)僧正が、今の北区紫野に実相院を開きました。名家の出身の僧が開いたことで、実相院ははじめから門跡寺院となりました(公式サイト)。

寺はその後、御所の近くへ移ります。そして1474年(文明6年)、応仁の乱の戦火をさけて、都から岩倉へ移ってきたと伝わります(1411年とする辞典もあります)。移った先は、三井寺の別院・大雲寺(だいうんじ)の塔頭(たっちゅう=大きな寺の中の小さな寺)、成金剛院(じょうこんごういん)の跡地でした。

けれども戦国の世は、岩倉にも及びます。1571年、織田信長の比叡山焼き討ちのとき、となりの大雲寺も焼けたといいます。

江戸時代の初め、一人の若い僧が入寺しました。名は義尊(ぎそん)。室町幕府最後の将軍・足利義昭(あしかが よしあき)の孫にあたります(公式サイト)。

義尊の母は、法誓院三位局(ほっせいいん さんみのつぼね)です。のちに後陽成天皇(一説には後水尾天皇)との間に、男の子を産みました。聖護院(しょうごいん)の門主となる道晃法親王(どうこうほっしんのう)です。法親王(ほっしんのう)とは、出家した皇子のことです。義尊は後陽成天皇にかわいがられたと伝わります。

この母は、のちに北岩倉に證光寺(しょうこうじ)という寺を建てます。この寺は、やがて実相院に合わさることになります(08の伝説へ)。

幕府を失った将軍家の血と、天皇家とのつながり。その両方を持つ義尊のもとで、実相院は立ち直っていきます。3代将軍徳川家光の援助で再建したといわれ、寛永のころには後水尾天皇の保護も受けました。義尊は1641年、後水尾天皇の後援で、となりの大雲寺の本堂も再建しています。

そして1721年、義周法親王が門主になると、御所から承秋門院の御殿が下されました。今、床もみじが映る客殿です。

📖 物語は、公式サイト「実相院の歴史」、Wikipedia「実相院」「大雲寺 (京都市)」、コトバンク(日本大百科全書・世界大百科事典)をもとに、やさしく言いかえました。静基の出自には諸説あります(鷹司兼基の子、近衛基通の孫など)。家光の援助はWikipedia、後水尾天皇の保護は世界大百科事典によります。

08. 実相院に伝わる伝説・言い伝え

【縁起】霊雲を追った先の老尼

となりの大雲寺の縁起です。971年、中納言の日野文範(ひの ふみのり)が、比叡山で見た霊雲を追って岩倉の谷へ。そこで出会った老尼は、石座神社(いわくらじんじゃ)の神だったと伝えられます(Wikipedia)。実相院が移ってきた岩倉の、はじまりの物語です。

【伝え】画家が隠れ住んだ「母の寺」の灯籠

07の物語に出てきた義尊の母が、北岩倉に建てた寺が證光寺(しょうこうじ)です。Wikipediaによると、日蓮宗の寺でした。江戸時代の終わりの画家・岸駒(がんく)は、この寺に隠れ住んでいたといいます。證光寺は幕末から明治のころに実相院に合わさり、岸駒の描いた灯籠「寒山拾得(かんざんじっとく)の図」が残りました(公式サイト)。母の寺が、息子の寺に帰ってきたのです。

【史実】幕末の公家がひそんだ岩倉

幕末、岩倉具視(いわくら ともみ)は、一時この実相院に住んでいたといいます。Wikipediaは、ここでの密談の記録が残されているとしています。歴代の住職がつづった「実相院日記」をはじめ、この寺には、幕末の京都の空気を伝える記録が今も守られています。

09. 岩倉・実相院周辺のスポット・アクセス詳細

🚇+🚌 地下鉄とバス
「国際会館」駅から京都バス24系統で約13分、終点「岩倉実相院」
🚌 京都バス
四条河原町・出町柳から41・43系統「岩倉中町」下車、西へ徒歩約10分
🚃 叡山電鉄
「岩倉」駅から徒歩約20分
🚗 車
無料駐車場20台(予約不要)

所要時間の目安:境内は約40分〜1時間(筆者の目安)。

近くの寺社:すぐとなりに石座神社があり、その東には仮本堂に移った大雲寺があります(Wikipedia)。足をのばせば、岩倉具視が隠れ住んだ旧宅も近くにあります。

グルメ:岩倉は静かな住宅地で、寺のまわりに飲食店は多くありません(具体的な店は公式サイトに記載なし)。食事は、乗りかえの国際会館駅のまわりや、バスで通る岩倉の中心(岩倉中町のあたり)で探すと選びやすくなります。

地図:Googleマップで実相院門跡を開く

10. 実相院のまとめと関連記事

この記事でわかったこと

  • 実相院は1229年に静基が開いた門跡寺院。本尊は鎌倉時代と伝わる不動明王で、室町時代に岩倉へ移った(1474年・1411年の諸説)
  • 客殿は1721年(1720年説も)に移された承秋門院の御殿。滝の間の黒い床に映る「床もみじ」は撮影禁止
  • 江戸時代の初め、足利義昭の孫・義尊が門主となり、寺を立て直した

紅葉の季節に、写真ではなく目で見る紅葉を探しに、ぜひ実相院を訪ねてみてください。

11. ゆる仏様トーク ― 実相院編

🍵 ゆる仏様トーク①(たとえ話)

客殿は、もとは皇族の女性の御殿。今でいえば「お城のお姫さまの部屋を、まるごと山の別荘に引っ越しさせた」ようなものです。しかも約300年後の今も、その床が庭の紅葉を映しています。……引っ越し先の眺めが、よすぎました。

🍵 ゆる仏様トーク②(ツッコミ)

いちばんの名物「床もみじ」が、撮影禁止。今の時代に、写真に撮れない名所。でも、だからこそ、みんな床の前で静かに座っています。──撮れないからこそ、目に残る。案外それが、いちばんの思い出になるのです。

🍵 ゆる仏様トーク③(ひとこと)

本尊の不動明王が、スマホを出しかけた人にかけるとしたら――

「その手の迷いも、この剣で断ちましょう。今日の紅葉は、目で持って帰りなさい。」

※経典の言葉ではなく、不動明王の役目をもとにイメージしたセリフです。

12. 実相院の謎 ― 寺門派の門跡が、なぜ比叡山を借景に?

【謎】

実相院の東の石庭は、奥比叡を借景にしています。でも実相院は、比叡山(山門派)と長く争ってきた寺門派の寺でした。なぜ、争った相手の山を、庭の景色に取りこんでいるのでしょうか。

【事実の整理】

① 公式サイトは、実相院を「元天台宗の寺門派」としています。寺門派は三井寺を中心とする流れで、比叡山延暦寺の山門派と対立してきました。

② となりの大雲寺は、三井寺の有力な別院でした。981年、余慶(よけい)は山門・寺門の争いを背景に、一門の僧数百人を連れて移ってきました。その後も、争いの中で焼けることをくり返したといいます。1571年の比叡山焼き討ちでは、比叡山とともに焼けました(Wikipedia「大雲寺」)。

③ 実相院は1474年(1411年説もあります)、その大雲寺の塔頭の跡地に移りました。その後、両寺はたびたび対立したともいいます(Wikipedia「大雲寺」)。

④ 1721年には、御所から女院御所の建物が下され、客殿になりました。実相院は、皇族の御殿の姿を持つ寺になります。

⑤ 日本大百科全書は、境内の名園として「一仏八僧(いちぶつはっそう)の庭」をあげています。旅行ガイド(tabi-mag、2021年更新)は、この東の庭を、蹴鞠(けまり)の庭を明治時代に枯山水へ改めたもので、比叡山を借景にすると紹介しています。今の公式サイトでは、東の石庭は「こころのお庭」と呼ばれ、市民の参加でつくられています。「一仏八僧の庭」と「こころのお庭」が同じ場所かどうか、蹴鞠の庭だったという話の元の資料は、確認できていません。

⑥ 1952年、実相院は天台寺門宗から独立し、単立の寺になりました(Wikipedia)。

【私の考察】

私が注目したのは、⑤です。もしガイドの説明どおりなら、東の庭は、はじめは蹴鞠の庭でした。蹴鞠は、公家や御所の遊びです。④のように、実相院は皇族の御殿の姿を持つ寺でした。

つまり、この場所はもともと「お坊さんの修行の庭」ではなく、「御殿の庭」だったのではないでしょうか。御殿から見る東の山は、争いの相手である前に、季節を知らせる景色だったはずです。

そして、ガイドによれば庭が石庭に改められたのは明治時代。明治政府が門跡の呼び名を廃止し、寺のあり方が大きく変わった時代です。⑥では、寺門派の宗派からも独立しました。

しかも②のように、1571年には、大雲寺も比叡山も、同じ焼き討ちの炎に包まれました。争った両方が、同じ戦火で傷ついたのです。比叡山は、ただの「敵の山」ではなくなっていたのかもしれません。

②③の時代、比叡山は「争う相手の山」でした。でも、御殿の庭から見るうちに、そして時代が変わるうちに、ただの「東の美しい山」になっていった。今の「こころのお庭」は、その山を、市民と一緒に景色として迎え入れた庭なのだと思います。

【結論(あくまで推測)】

実相院が比叡山を借景にするのは、争いの記憶よりも、御殿の庭としてのながめを大切にしてきたからではないでしょうか。何百年も争いの相手だった山は、時代とともに「景色」になったのです。ただし、東の庭の歴史を記した寺の公式の資料は確認できていません。あくまで私の考察です。あなたはどう思いますか?

💡 出典:①は公式サイト「実相院の歴史」。②③はWikipedia「大雲寺 (京都市)」「実相院」。④は公式サイト・Wikipedia。⑤はコトバンク(日本大百科全書)、tabi-mag(2021年9月更新)、公式サイト「拝観案内」「プロジェクト」。⑥はWikipedia「実相院」。

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