この記事でわかること
・「清澄白河」という地名が、実はこの寺に眠る名君の名前に由来しているという意外な事実
・隅田川の埋め立て地から明暦の大火を経て、深川へとたどり着いた波乱の寺の歴史
・寛政の改革を断行した名君・松平定信が、なぜこの地に葬られたのか
東京都江東区、清澄白河駅から徒歩3分の場所にある霊巌寺。境内には江戸六地蔵の一つに数えられる地蔵菩薩坐像と、江戸幕府の老中として寛政の改革を断行した名君・松平定信の墓所があり、地域の名前そのものにその歴史が刻まれています。
01. 霊巌寺の基本情報
| 正式名称 | 道本山東海院霊巌寺(どうほんざんとうかいいん れいがんじ) |
|---|---|
| 宗派 | 浄土宗 |
| ご本尊 | 阿弥陀如来 |
| 創建 | 寛永元年(1624年)霊巌雄誉上人 |
| 移転 | 万治元年(1658年)、明暦の大火後に現在地へ |
| 寺格 | 江戸六地蔵(水戸街道)、松平定信墓(国指定史跡) |
| 所在地 | 東京都江東区白河1-3-32 |
| アクセス | 都営大江戸線・東京メトロ半蔵門線「清澄白河駅」から徒歩約3分 |
| 拝観時間 | 境内自由 |
| 拝観料 | 境内無料 |
02. ご本尊「阿弥陀如来」ってどんな仏様?
分類:如来
霊巌島から深川へと渡った寺の本尊
① 一言まとめ
霊巌寺のご本尊は阿弥陀如来。極楽浄土への往生を約束する仏様で、隅田川河口の埋め立て地に始まり、大火をくぐり抜けて深川の地にたどり着いた霊巌寺の歩みを、静かに見守り続けてきました。
② 由来・経典上の位置づけ
霊巌寺は寛永元年(1624年)、霊巌雄誉上人が隅田川の河口を埋め立てて「霊巌島」を築いた際に草創されました。しかし明暦3年(1657年)の明暦の大火で被災し、万治元年(1658年)に現在の深川の地へと移転します。以来、この地は寺の名にちなんで「霊岸島」ならぬ「深川霊巌寺」として親しまれるようになりました。
③ 姿・特徴
境内には江戸六地蔵の一つである銅造地蔵菩薩坐像(東京都指定有形文化財)が安置されているほか、寛政の改革で知られる名君・松平定信の墓所(国指定史跡)もあり、江戸の歴史を今に伝える貴重な史跡が集まっています。
03. ご利益・祈願
江戸六地蔵への道中安全祈願に加え、名君・松平定信の墓所があることから、政治や仕事における公正な判断力、学問成就を願う参拝者も訪れます。
04. 境内の見どころガイド
江戸六地蔵(銅造地蔵菩薩坐像)
江戸六地蔵の第5番として、享保2年(1717年)に造立された銅造地蔵菩薩坐像。東京都指定有形文化財に指定されており、水戸街道方面へ向かう旅人たちの安全を見守ってきました。
松平定信墓(国指定史跡)
八代将軍・徳川吉宗の孫にあたり、白河藩主として藩政を立て直し、老中として寛政の改革を断行した松平定信の墓所。昭和3年(1928年)に国の史跡に指定されています。
清澄白河の地名の由来
関東大震災後の区画整理で新しい町名を決める際、渋沢栄一の要望により、松平定信の白河藩にちなんで昭和7年(1932年)に「清澄白河」と名付けられました。
御朱印情報
| 種類 | 備考 |
|---|---|
| 阿弥陀如来の御朱印 | 境内にて確認 |
| 江戸六地蔵の御朱印 | 境内にて確認 |
05. 寺宝・秘宝ハイライト
1717年 ― 霊巌寺の江戸六地蔵が造立された年。京都六地蔵にならい、江戸の出入口6ヶ所に置かれた地蔵菩薩坐像のうち、水戸街道方面を守る第5番として建立されました。
1932年 ― 松平定信の白河藩にちなんで「清澄白河」の地名が誕生した年。実業家・渋沢栄一の要望がきっかけとなり、寺に眠る名君の名が、今も地域の名前として残り続けています。
06. 参拝の作法ガイド
- 山門をくぐる前に、境内に向かって軽く一礼します
- 手水舎で両手と口を清めます
- 本堂の前で姿勢を正し、静かに合掌して一礼します
- 江戸六地蔵、松平定信墓にもあわせてお参りします
07. 霊巌寺の由緒
霊巌寺の歴史は、寛永元年(1624年)、霊巌雄誉上人が隅田川の河口を埋め立てて築いた「霊巌島」に始まります。埋め立て地に開かれた寺は、やがて多くの人々の信仰を集めるようになりましたが、明暦3年(1657年)に江戸の町の大半を焼き尽くした明暦の大火により大きな被害を受けます。【伝説】この大火では周辺一帯で多くの犠牲者が出たと伝えられており、寺はその後の万治元年(1658年)、現在の深川の地へと移転することになりました。
深川に移った霊巌寺は、水戸街道方面を見守る江戸六地蔵の建立地として選ばれ、享保2年(1717年)にその地蔵尊が完成します。以来、地域の信仰の中心として親しまれてきました。
【史実】そして霊巌寺の歴史において特に重要なのが、江戸時代後期の老中・松平定信との関わりです。松平定信は八代将軍・徳川吉宗の孫にあたり、陸奥白河藩松平家の養子となって藩主を継ぎました。天明の大飢饉で疲弊した藩の財政を立て直した手腕を買われ、天明7年(1787年)に江戸幕府の老中首座に就任。「寛政の改革」と呼ばれる幕政改革を断行し、名君として名を残しました。その定信が眠る墓所が、この霊巌寺にあります。
【史実】渋沢栄一と地名の誕生
大正12年(1923年)の関東大震災後、区画整理にともなって町名を変更する必要が生じた際、実業家・渋沢栄一が東京市に「松平定信の白河藩にちなんだ地名にしてほしい」と要望したと伝えられています。この要望が受け入れられ、昭和7年(1932年)に「清澄白河」という地名が誕生しました。
【豆知識】埋め立て地から始まった寺
霊巌寺が創建された当初の場所「霊巌島」は、現在の中央区新川周辺にあたります。隅田川河口の埋め立てという、当時としては大規模な土木事業によって生まれた土地に寺が開かれたという成り立ちは、江戸という都市そのものの発展史とも重なります。
08. 周辺スポット・アクセス
09. まとめ
関連リンク
謎と考察コーナー:なぜ定信はこの寺に葬られたのか?
【事実の整理】
松平定信は白河藩主であり、江戸幕府の老中を務めた人物です。本来であれば白河(現在の福島県)や、徳川将軍家ゆかりの菩提寺に葬られてもおかしくない立場でしたが、実際には深川の霊巌寺に墓所が置かれました。
【私の考察】
これは推測の域を出ませんが、江戸時代の大名家は江戸と国元の両方に菩提寺を持つケースが少なくなく、霊巌寺が松平家と何らかの縁を持つ浄土宗の寺院であったことが理由の一つと考えられます。また定信自身、寛政の改革において倹約や質素を重んじた人物として知られており、豪奢な将軍家菩提寺ではなく、庶民的な深川の寺を選んだという解釈も可能かもしれません。
【結論(あくまで推測)】
真相は資料からは断定できませんが、いずれにせよ、この墓所があったことがきっかけで「清澄白河」という地名が生まれたのは紛れもない事実です。一人の政治家の眠る場所が、300年近く経った今も地域のアイデンティティであり続けているというのは、非常に興味深い歴史の巡り合わせと言えるでしょう。
【編集メモ】明暦の大火における霊巌寺周辺の被害規模については資料により記述の差があるため、本記事では断定を避け「伝えられている」という表現にとどめています。また松平定信が霊巌寺に葬られた具体的な経緯(菩提寺として選ばれた理由)についても、複数の資料を確認しましたが明確な一次史料の記述は確認できなかったため、謎と考察コーナーにて推測として扱っています。

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