良弁(ろうべん)は、東大寺の初代別当(べっとう=寺のトップ)です。奈良の大仏の寺を開いた「開山(かいさん)」とされます。
この記事でわかること
- 東大寺の前身・金鐘寺(こんしゅじ)から大仏づくりまで、良弁が果たした役割
- 毎年12月16日の良弁忌だけ公開される、国宝・良弁僧正坐像(ろうべんそうじょうざぞう)
- 「鷲(わし)にさらわれた赤ちゃん」という良弁杉の伝説は、どこから生まれたのかという謎
赤ちゃんのころ鷲にさらわれ、杉の木の上で見つかった――。そんな伝説を持つお坊さんが、大仏の寺を開きました。
01. 良弁の基本情報
| 分類 | 羅漢・祖師(らかん・そし=仏教を広めた高僧) |
| 読み方 | ろうべん(良辨とも書く) |
| 別名 | 金鐘行者(こんしゅぎょうじゃ)・金鷲行者(こんじゅぎょうじゃ。「こんす」とも読む)・良弁僧正 |
| 梵名(ぼんみょう) | なし(日本の僧のため) |
| 生没年 | 689年〜773年(宝亀4年)。亡くなった月は西暦では774年1月にあたるため、774年とする資料もある(諸説あり) |
| 出身地 | 相模国(さがみのくに=今の神奈川県)の漆部氏(うるしべし)とする説、近江国(おうみのくに=今の滋賀県)の百済氏(くだらし)とする説などがある(諸説あり) |
| 宗派 | 華厳宗(けごんしゅう) |
| 師 | 義淵(ぎえん)に法相(ほっそう)を学び、のちに華厳を学んだ |
| 位 | 東大寺の初代別当。のちに僧正(そうじょう) |
| 真言・種子字 | 祖師(実在の高僧)のため、仏様のような真言・種子字(しゅじ)は定められていない |
| ご命日(良弁忌) | 12月16日(東大寺では良弁の命日として法要が営まれる)。祖師のため、ご縁日にかわりご命日を記載 |
02. 良弁とは? ― 大仏の寺を開いた「東大寺の開山」
① 一言まとめ
良弁は、聖武天皇(しょうむてんのう)とともに東大寺をつくり上げたお坊さんです。東大寺では、聖武天皇・行基(ぎょうき)・菩提僊那(ぼだいせんな)とともに「四聖(ししょう)」の一人として大切にされています。
② 生涯と歴史上の位置づけ
良弁は689年に生まれました。出身は相模国とも近江国ともいわれ、はっきりしません(諸説あり)。
若いころ、奈良の僧義淵のもとで、法相宗(ほっそうしゅう)の教えを学びました。
やがて良弁は、奈良の東の山に建てられた金鐘寺(こんしゅじ)に住みます。金鐘寺は733年に建てられたとされ、のちの東大寺のはじまりです。良弁は「金鐘行者(こんしゅぎょうじゃ)」とも呼ばれました。
740年、良弁は新羅(しらぎ)で学んだ僧・審祥(しんじょう)を招き、金鐘寺で『華厳経』(けごんきょう)の講義を始めました。華厳経は、宇宙全体を照らす仏盧舎那仏(るしゃなぶつ)を説くお経です。この盧舎那仏こそ、のちの奈良の大仏です。
742年、金鐘寺は大和国(やまとのくに)の国分寺に定められ、やがて東大寺へと発展していきます。そして752年(天平勝宝4年)5月、大仏の開眼(かいげん)供養のあと、良弁は東大寺の初代別当になりました。
756年には、唐から来た鑑真(がんじん)とともに大僧都(だいそうず)に任じられました。また、近江の石山寺(いしやまでら)の造営にも深く関わったことが、記録や『石山寺縁起絵巻』に伝わります。
のちに僧正(そうじょう)となりました。僧正になった年は、760年・763年・764年・773年など資料によって分かれます(諸説あり)。そして773年(宝亀4年)閏11月に亡くなりました(日付には16日説・24日説があります)。東大寺では毎年12月16日を良弁忌とし、法要を営んでいます。
③ 姿・肖像の特徴
良弁は実在のお坊さんなので、仏様のような決まった印相(いんぞう=手の形)の約束事はありません。
いちばん有名な肖像は、東大寺開山堂の「良弁僧正坐像」(国宝)です。東大寺によると、がっしりした体つきで、気迫を感じさせる肖像彫刻の傑作とされます。僧の衣をまとい、如意(にょい=お坊さんが講義などのときに持つ道具)を手にした姿で知られます。
東大寺の説明では、良弁が亡くなってから246年後の1019年に、初めて御忌(ぎょき=祖師の命日の法要)が行われました。開山堂と僧正像は、そのときに造られたようだとされています。
03. 良弁ゆかりのご利益 ― 学び・子どもの無事・親子の縁
良弁は実在のお坊さんなので、経典に定められた「良弁のご利益」はありません。ここでは、良弁の生涯や伝説から、ゆかりの場所でどんな願いが寄せられやすいかを紹介します。
👶 子どもの無事な成長
🤝 親子・家族の再会や縁
🏛️ 大きな仕事の完成
こんな人におすすめ
- 受験や資格の勉強をがんばっている人
- 子どもや孫の健やかな成長を願う人
- 離れて暮らす家族を思う人
- 長い時間がかかる大きな目標に取り組んでいる人
ご利益の考え方:良弁は華厳経の学問を東大寺に根づかせた学僧(がくそう=学問にすぐれた僧)です。また、鷲にさらわれた赤ちゃんが名僧になり、のちに母と再会したという伝説が語られてきました。ただし、これらは寺が定めたご利益ではありません。お参りの際は、各寺院の案内もあわせて確かめてください。
04. 良弁と関わりの深い人物・仏様
05. 良弁ゆかりの寺 ― 良弁忌の東大寺開山堂・法華堂・良弁杉・石山寺
- 東大寺開山堂(奈良県奈良市)― 良弁をまつるお堂(国宝)。国宝・良弁僧正坐像は、12月16日だけ公開されます。東大寺の案内では10時ごろ〜16時、有料です。
- 東大寺法華堂(三月堂)― 良弁が住んだ金鐘寺のゆかりの地です。秘仏の執金剛神立像(国宝)も、12月16日だけ公開されます。長く厨子(ずし)に納められてきたため、作られた当時の色がよく残っています。
- 東大寺二月堂の良弁杉 ― 二月堂の下に立つ杉で、鷲にさらわれた良弁が見つかった木と伝わります。もとの大杉は1961年の第2室戸台風で倒れ、1967年に先代の挿し木から育てた苗が植えられました。
- 石山寺(いしやまでら/滋賀県大津市)― 寺伝では、747年に聖武天皇の願いで良弁が開いたとされます(開創の年には別の説もあります)。761〜762年の大きな増改築も、良弁の指揮で進められたとみられています。
06. 良弁の見分け方 ― 四聖のほかの僧との違い
※肖像は時代や作品によって表し方が違います。寺の解説もあわせて確かめてください。
07. 良弁の物語コラム ― 大仏の金が足りない!石山寺の始まり
奈良の大仏づくりが進んでいたころの話です。
銅でできた大仏は、最後に金でおおう計画でした。ところが当時の日本では金がとれず、とても足りそうにありません。大仏の完成が危ぶまれました。
そこで良弁は、近江の国の石の山へ向かいました。そして、念持仏の観音様(聖徳太子ゆかりとも伝わる)を岩の上に安置し、金が見つかるよう祈ったといいます。
すると、陸奥国(むつのくに=今の東北地方)から金が献上されるという、うれしい知らせが届いたと伝わります。ところが、祈りを終えて観音様を持ち帰ろうとすると、像が岩から動かなくなってしまったのです。
そこで、その観音様を囲むようにお堂が建てられました。これが石山寺の始まりだと伝わります。寺の名は、境内にそびえる大きな岩(硅灰石〈けいかいせき〉)の山に由来するとされます。
この話は、寺の縁起(えんぎ=始まりの物語)として語られる伝説です。いっぽう、761〜762年の石山寺の大きな増改築を良弁が指揮したことは、当時の記録からわかっています。
08. 良弁のまとめと関連記事
この記事でわかったこと
- 良弁は、金鐘寺から東大寺をつくり上げた初代別当で、東大寺の開山
- 740年に『華厳経』の講義を始め、大仏の盧舎那仏につながる学問を根づかせた
- 国宝・良弁僧正坐像と法華堂の執金剛神立像は、12月16日だけ公開される
年に一度の良弁忌。冬の東大寺で、大仏の寺を開いたお坊さんに会いに行ってみませんか。
09. ゆる仏様トーク ― 良弁編
良弁は、今でいえば「巨大プロジェクトの現場責任者」です。天皇という発注者の願いを受け、学問の柱(華厳経)を立て、お寺という組織をまとめ上げました。大仏の寺の「初代所長」といったところです。
赤ちゃんのころ、鷲につかまれて空を飛び、杉の上に置き去り。人生のスタートとしては、なかなかの大事件です。──そう、良弁の道も、まっすぐではなかったのです。でもその杉の下から、大仏の寺を開くお坊さんが育ちました。
※史料に残る言葉ではなく、良弁杉の伝説をイメージしたセリフです。
10. 良弁の謎 ― 「鷲にさらわれた赤ちゃん」の伝説はどこから来たのか
11. 良弁データベース早見表
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 分類 | 羅漢・祖師(奈良時代の高僧) |
| 読み方 | ろうべん(別名:金鐘行者〈こんしゅぎょうじゃ〉・金鷲行者〈こんじゅぎょうじゃ〉) |
| 生没年 | 689年〜773年(774年とする資料もあり、諸説あり) |
| 梵名 | なし(日本の僧のため) |
| 出身地 | 相模国説・近江国説など(諸説あり) |
| 宗派 | 華厳宗 |
| 位 | 東大寺初代別当(752年)・僧正 |
| 真言・種子字 | 祖師のため定められていない |
| ご命日 | 12月16日(良弁忌・東大寺開山堂の良弁僧正坐像を公開) |
| ゆかりの願い | 学び・子どもの無事・親子の縁など(寺が定めたご利益ではない) |
| ゆかりの寺 | 東大寺(開山堂・法華堂・二月堂の良弁杉)・石山寺 |
| 関連作品 | 人形浄瑠璃・歌舞伎『良弁杉由来』 |

コメント