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【お寺めぐり】曼殊院-なぜ皇族の門主は台所に「媚竈」と掲げたのか、「小さな桂離宮」の紅葉と国宝・黄不動(京都府京都市)

(写真準備中)

大書院から見る枯山水の庭と紅葉(写真準備中)

京都・一乗寺(いちじょうじ)の山すそにある曼殊院(まんしゅいん)。皇族が代々の門主(もんしゅ=寺のトップ)をつとめた、天台宗の門跡寺院(もんぜきじいん)です。

この記事でわかること

  • 「小さな桂離宮」と呼ばれる書院と、枯山水の庭・紅葉の見どころ
  • 秘仏の国宝「黄不動(きふどう)」と、約900年北野天満宮を管理した寺の歴史
  • 【謎】皇族の門主は、なぜ台所に「媚竈(びそう)」の2文字を掲げたのか

台所の入口に、皇族の書いた額がかかっています。読むと「かまどに媚(こ)びよ」。じつはこの言葉、『論語』の中で孔子が「そうではない」と退けた言葉なのです。

01. 曼殊院の基本情報

寺号(読み方) 曼殊院(まんしゅいん)。曼殊院門跡、竹内門跡(たけのうちもんぜき)とも呼ばれます
山号 なし
宗派 天台宗(てんだいしゅう)
ご本尊 阿弥陀如来(あみだにょらい)
開山 是算(ぜさん)。寺の始まりは最澄(さいちょう)と伝わります
創建 延暦年間(782〜806年)に最澄が比叡山に建てたのが始まりと伝わります(公式)。天暦年間(947〜957年)の是算の時代を起こりとする書き方もあり、諸説あります。1656年(明暦2年)に今の場所へ移りました
寺格 門跡寺院。天台宗の五門跡(ごもんぜき)の一つに数えられます
所在地 京都府京都市左京区一乗寺竹ノ内町(たけのうちちょう)42
アクセス 叡山電鉄「修学院(しゅがくいん)」駅から徒歩約20分。市バス5系統「一乗寺清水町(いちじょうじしみずちょう)」から徒歩約16〜20分
拝観時間 9:00〜17:00(最終受付16:30)
拝観料 800円(公式)
※高校生・小中学生の料金は公式に記載なし。旅行サイトでは高校生500円、小・中学生400円
※特別公開の期間は料金が変わります(2025年秋は1,000円)
駐車場 50台・無料(普通車のみ)
公式サイト 曼殊院門跡 公式サイト(manshuinmonzeki.jp)/電話 075-781-5010
💡 出典
・拝観時間・拝観料800円・駐車場・所在地・電話:公式サイト「拝観について」(2026年10月確認)
・宗派・本尊・開山・五門跡・アクセス:Wikipedia「曼殊院」
・高校生・小中学生の料金:旅行サイト(ウォーカープラス・るるぶ)
・バス徒歩16分:旅行サイト(たびまちゲート)

02. 曼殊院のご本尊 ― 阿弥陀如来と秘仏の黄不動

(写真準備中)

大書院(本堂)(写真準備中)

① 一言まとめ

曼殊院の本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)です。西の極楽浄土から、人々を迎えに来てくださる仏様です。仏様のくわしい話は阿弥陀如来の記事にまとめています。

② 由来・経典での位置づけ

阿弥陀如来の物語は、『無量寿経(むりょうじゅきょう)』に説かれます。むかし、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)という修行者が、すべての人を救うための48の願い(四十八願〈しじゅうはちがん〉)を立てました。長い修行の末に願いをかなえ、仏となったのが阿弥陀如来です。

天台宗の比叡山でも、阿弥陀如来を念じる修行が大切にされてきました。くわしくは阿弥陀如来の記事にまとめています。

曼殊院で阿弥陀如来をまつる本堂は「大書院」です。解体修理のときに、墨書(ぼくしょ=墨の書き込み)が見つかりました。そこから、もとは書院(客を迎える住宅風の建物)として建てられたことがわかったそうです(公式サイト)。書院を、のちに本尊をまつるお堂にした。ここに、門跡寺院らしさがあらわれています。

③ 本尊の姿

阿弥陀如来は一般に、質素な衣だけをまとった姿で、指で輪をつくる「来迎印(らいごういん)」や、ひざの上で手を組む「定印(じょういん)」であらわされます。曼殊院の本尊像の大きさ・年代・印相(いんぞう=手の形)は、公式サイトに記載がありません。

④ もう一つの仏様 ― 秘仏の黄不動

曼殊院には、国宝の「絹本著色不動明王像(けんぽんちゃくしょく ふどうみょうおうぞう)」が伝わります。体が黄色く描かれた不動明王で、「黄不動(きふどう)」と呼ばれます。

平安時代の作で、園城寺(おんじょうじ=三井寺)の黄不動を写したものともいわれます。秘仏のため、ふだんは見られません。

💡 出典:四十八願と法蔵は『無量寿経』の一般的な説明。黄不動(平安時代・国宝・園城寺本を写したともいわれる)はコトバンク(日本大百科全書・世界大百科事典)。
阿弥陀如来
如来|本尊
極楽浄土へ導く仏様
不動明王(黄不動)
明王|国宝の絵(秘仏)
黄色い体の不動明王

03. 曼殊院のご利益・祈願

🪷 極楽往生
🔥 災難よけ
🍵 心を静める

曼殊院の公式サイトには、ご利益の記載がありません。上の3つは、仏様の一般的な役目と寺の雰囲気から考えた筆者のおすすめです。

  • 極楽往生:本尊の阿弥陀如来は、亡くなった人を極楽へ迎える仏様です
  • 災難よけ:不動明王は、炎で迷いや災いを焼きはらう仏様とされます
  • 心を静める:書院の縁側に座り、庭をながめる時間そのものが、ここでの一番のごほうびです

ご利益の根拠:阿弥陀如来の極楽往生は、『無量寿経』の四十八願にもとづきます。不動明王は、密教の経典で、迷いを断ち切り修行者を守る仏とされます。

こんな人におすすめ:亡くなった家族を思う人。人の多い紅葉の名所に疲れて、静かな書院でひと息つきたい人。建築や工芸が好きな人。

参拝に適した時期:紅葉は例年11月中旬に色づきはじめ、11月下旬が見ごろとされます。5月初めには、庭のキリシマツツジが深紅の花を咲かせます(公式サイト「庭園」)。

📅 行事・特別公開:2025年秋は、11月12日〜12月11日に特別公開(特別拝観料1,000円)、11月22日〜30日に夜間特別公開(1,500円)がありました(公式のお知らせ)。2026年秋の特別公開は、10月19日の時点で公式に発表がありません。最新の情報は、公式サイトのお知らせで確認してください。

04. 曼殊院 境内の見どころガイド(勅使門から書院と枯山水の庭へ)

(写真準備中)

勅使門と石段

勅使門(ちょくしもん)

勅使門とは、天皇の使いを迎えるための門のことです。曼殊院では西向きに、高い石段の上に立つ正門で、皇族の関係者しか通ることができません。拝観者は、いまは通用口になっている庫裏から入ります。

体験ポイント:石段の下から門を見上げてみてください。くぐれない門だからこそ、閉じた扉の向こうの「皇族の寺」の気配が伝わってきます。

(写真準備中)

庫裏の玄関と「媚竈」の額

庫裏(くり)と「媚竈」の額【重要文化財】

寺の台所にあたる建物で、今は拝観の入口です。玄関には、良尚法親王(りょうしょうほっしんのう)が書いた「媚竈」の額がかかります。

体験ポイント:靴をぬぐ前に、玄関の上を見上げてください。この記事の「謎」は、この2文字から始まります。

(写真準備中)

大書院と十雪の間

大書院(だいしょいん)【重要文化財】

1656年の建物で、今は本堂です。南側の「十雪(じゅっせつ)の間」の床わきの棚には、天袋(てんぶくろ)・地袋(じぶくろ)の小さな襖があり、花鳥画がえがかれています。

体験ポイント:縁側に座ると、目の前いっぱいに白砂の庭。秋は赤いカエデが、白砂の「水面」にうつりこむように見えます。

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小書院・黄昏の間の曼殊院棚

小書院(こしょいん)と曼殊院棚【重要文化財】

小書院でいちばん格の高い7畳の部屋は「黄昏(たそがれ)の間」です。上段の棚は「曼殊院棚」と呼ばれます。約10種類の木を組み合わせた寄木(よせぎ)の名作で、桂離宮の「桂棚」と並ぶとされます。

体験ポイント:前室の「富士の間」では、長押(なげし=柱と柱をつなぐ横木)の釘隠しを探してください。七宝(しっぽう)でできた富士山の形で、一つずつ模様がちがいます。

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枯山水の庭と五葉松

枯山水の庭(国の名勝)

白砂で水の流れをあらわし、鶴島と亀島を置いた庭です。鶴島には樹齢400年の五葉松(ごようまつ)が立ち、鶴の姿をあらわすといいます。小書院は、流れをさかのぼる屋形舟に見立てられています。大書院前のこの庭は「盲亀浮木乃庭(もうきふぼくのにわ)」とも名づけられています。

※盲亀浮木とは、目の見えない亀が、大海に浮かぶ木の穴にたまたま首を入れるという仏教のたとえです。仏の教えに出会うことがそれほどまれだ、という意味で『法華経』などに出てきます。

体験ポイント:小書院の縁側に立つと、自分が舟の上にいる気分になれます。松の根元の「曼殊院型」の灯籠も探してみましょう。

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宸殿

宸殿(しんでん)

歴代の天皇や皇族の位牌をまつる、門跡寺院の中心の建物です。1872年(明治5年)に明治政府へ上納され、寺からなくなりました。そして約150年ぶりの2022年に、建て直されました。

体験ポイント:2022年に建てられた新しい建物です。江戸時代の書院とくらべて、木の色のちがいを見てみてください。

このほか、茶室「八窓軒(はっそうけん)」(重要文化財)があります。8つの窓は、お釈迦さまの一生の8つの場面「八相成道(はっそうじょうどう)」をあらわすとされます(公式サイト)。茶室を見学できるかどうかは、公式サイトに記載がありません。

御朱印 内容
切り絵御朱印(秋) 紅葉の庭を望む小書院の情景を切り絵にしたもの。授与料1,500円(1体)。2026年10月1日の公式のお知らせ。授与期間・数量は記載なし
通常の御朱印 公式サイトに記載がありません。現地か電話(075-781-5010)で確認してください
受付時間 公式サイトに記載がありません。拝観の受付が16:30までなので、早めにいただくと安心です
📷 撮影のポイント:大書院の縁側から、白砂の流れと鶴島の五葉松を横長に写すと、曼殊院らしい一枚になります。
出典:勅使門・庫裏・大書院・小書院・宸殿・八窓軒・富士の間・十雪の間・黄昏の間・曼殊院棚は公式サイト「境内のご紹介」。庭園は公式サイト「庭園のご紹介」。宸殿の再建年・名勝はWikipedia「曼殊院」。
⚠ 注意:書院の中の撮影の決まりは、公式サイトに記載がありません。現地の掲示に従ってください。紅葉の時期は混み合うことがあるため、早めの時間がおすすめです。

05. 曼殊院の寺宝・秘宝ハイライト

国宝2件

黄不動と古今和歌集(曼殊院本)

国宝の1つ目は、平安時代の黄不動の絵(秘仏)。2つ目は、平安時代に書き写された『古今和歌集』(曼殊院本)1巻です。書き手は藤原公任(ふじわらの きんとう)と伝えられます。どちらも、ふだんは公開されていません。

約900年

北野天満宮の別当(べっとう)をつとめた寺

別当とは、神社を管理する役目のお坊さんです。寺の伝え(公式サイト)によると、曼殊院は明治維新まで約900年、北野天満宮の別当をつとめました。明治の神仏分離で、その関係は終わります。なお辞典には、別当職の始まりを、寺名を曼殊院と改めた忠尋(ちゅうじん)の時代とするものもあります(諸説あり)。

約10種の木

曼殊院棚(黄昏の間)

いろいろな木を組み合わせた寄木細工の棚です。桂離宮の「桂棚」と並ぶ名作とされます。曼殊院が「小さな桂離宮」と呼ばれる理由の一つです。

06. 曼殊院の参拝の作法

お寺の基本の作法は、お寺の参拝作法の記事でくわしく紹介しています。曼殊院では、次の順番でお参りしましょう。

  1. 勅使門の前で軽く一礼します(門はくぐれません)
  2. 庫裏(いまは通用口)から入り、受付で拝観料を納めます
  3. 靴をぬいで書院へ進みます(手水舎の有無は公式サイトに記載がありません)
  4. 本堂(大書院)の本尊の前で、手を合わせて一礼します
  5. 書院の縁側では、静かに庭をながめます
🙏 曼殊院ならではのポイント:ここは皇族の門主が使った、江戸時代の書院です。たたみの縁(へり)や敷居はふまず、ふすまや柱にはさわらないようにしましょう。
💡 お寺では、神社のように手をたたかず、手を合わせるだけです。
子どもへの説明:「ここは、むかし天皇の親せきのお坊さんがいたお寺なんだよ。お庭の白い砂は、川の水のつもりなんだって」

07. 曼殊院の物語 ― 11歳で寺に入った親王が、山すそに「小さな桂離宮」を開くまで

1623年、ひとりの男の子が生まれました。父は桂離宮を開いた八条宮智仁親王(はちじょうのみや としひとしんのう)。のちの良尚法親王です。

1634年、男の子は親王の位を受け、その年のうちに曼殊院で出家しました。生まれた年から数えると、11歳ごろのことです。その少し前には、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の猶子(ゆうし=形の上での子)になっていました。

良尚は、ただのお坊さんではありませんでした。絵を狩野探幽(かのう たんゆう)・狩野尚信(なおのぶ)の兄弟に学び、池坊(いけのぼう)の華道も身につけます。1646年には、天台宗のトップである天台座主(てんだいざす)にもなりました。

当時の曼殊院は、御所の近くの公家町にありました。1656年、33歳(数え年で34歳)の良尚は、寺を洛北の一乗寺村へ移します。

新しい書院づくりには、兄の智忠親王(としただしんのう)の助言があったと伝わります。兄は、父の始めた桂離宮を完成させたとされる人です。父と兄の山荘の美しさが、弟の寺にも受けつがれました。こうして生まれたのが、今の大書院と小書院です。

のちに後水尾上皇や霊元天皇(れいげんてんのう)も、この寺を訪れました。寺を移したのは、入寺した親王としてでした。正式に門主(竹之内門跡)に任じられたのは、25年後の1681年(天和元年)です。

📖 物語は、公式サイト「曼殊院の歴史」、Wikipedia「良尚入道親王」「曼殊院」、コトバンクをもとに、やさしく言いかえました。出家の年齢は、生まれた年からの計算です。

08. 曼殊院に伝わる伝説・言い伝え

【寺伝】菅原家の僧と天神さま

天暦年間(947〜957年)、北野天満宮がつくられたとき、寺の是算は初代の別当になったといいます。是算が菅原道真と同じ菅原家の出身だったから、と寺は伝えています。天神さま(菅原道真)の一族の僧が、天神さまの社を守ったというわけです。

【伝え】黄色い不動明王の姿

園城寺の寺伝では、黄不動のもとになった園城寺の黄不動は、円珍(えんちん)が修行中に目の前にあらわれた姿を描かせたものと伝えられます。曼殊院の黄不動はそれを写したともいわれ、秘仏として大切に守られています。

【言い伝え】皇族の庭に「キリシタン灯籠」?

鶴島の五葉松の根元には、「曼殊院型のキリシタン灯籠」と呼ばれる灯籠があります。公式サイトは、この庭に「公家風で趣味豊かな良尚親王の趣向」が反映されていると紹介しています(良尚法親王)。キリスト教が禁じられていた江戸時代に、なぜ皇族の寺の庭にこう呼ばれる灯籠があるのか。本当に信仰と関係があるのかは、はっきりしていません。

💡 出典:是算と北野天満宮は公式サイト「曼殊院の歴史」。キリシタン灯籠は公式サイト「庭園のご紹介」。園城寺の黄不動と円珍の伝えは、一般的な寺伝の紹介です。

09. 一乗寺・曼殊院周辺のスポット・アクセス詳細

🚃 叡山電鉄
「修学院」駅から徒歩約20分
🚌 市バス
5系統「一乗寺清水町」から徒歩約16〜20分
🚗 車
無料駐車場50台(普通車のみ)
⏱ 所要時間
境内は約1時間(筆者の目安)

近くの寺社:南へ歩くと、紅葉の名所の圓光寺(えんこうじ)と、詩仙堂(しせんどう)があります。山すそを南へ歩けば、紅葉の寺めぐりができます。北には修学院離宮があります(見学は宮内庁への申しこみが必要です)。

グルメ:曼殊院のまわりは静かな住宅地で、飲食店は多くありません。食事は、一乗寺駅のまわりや白川通(しらかわどおり)ぞいで探すと選びやすくなります。

地図:Googleマップで曼殊院門跡を開く

10. 曼殊院のまとめと関連記事

この記事でわかったこと

  • 曼殊院は天台宗の門跡寺院。本尊は阿弥陀如来で、国宝の黄不動(秘仏)と『古今和歌集』が伝わる
  • 1656年、良尚法親王が今の場所へ移し、「小さな桂離宮」と呼ばれる書院と枯山水の庭を整えた
  • 寺の伝えでは、明治維新まで約900年、北野天満宮の別当をつとめた

紅葉の季節に、書院の縁側から白砂の「流れ」をながめに、ぜひ曼殊院を訪ねてみてください。

11. ゆる仏様トーク ― 曼殊院編

🍵 ゆる仏様トーク①(たとえ話)

曼殊院の本堂は、もともと客を迎える書院。今でいえば「おしゃれな別荘の客間を、そのままお堂にした」ようなものです。しかもインテリアの助言役は、桂離宮を仕上げたとされるお兄さん。……身内に、最強のデザイナーがいました。

🍵 ゆる仏様トーク②(ツッコミ)

富士の間の釘隠しは、七宝の富士山。しかも一つずつ模様がちがいます。釘をかくすためだけの金具に、そこまでしますか。──そう、門跡寺院の「おもてなし」は、見えないところほど本気だったのです。

🍵 ゆる仏様トーク③(ひとこと)

本尊の阿弥陀如来が、縁側で庭をながめる人にかけるとしたら――

「白い砂の流れは、急がなくても海へとどきます。今日は、ゆっくり座っていきなさい。」

※経典の言葉ではなく、阿弥陀如来の慈悲をもとにイメージしたセリフです。

12. 曼殊院の謎 ― 皇族の門主は、なぜ台所に「媚竈(かまどに媚びよ)」と掲げたのか

【謎】

曼殊院の庫裏(台所)の玄関には、良尚法親王が書いた「媚竈」の額があります。「かまどに媚びる」とは、どういう意味でしょうか。そしてなぜ、皇族の門主がこの2文字を選んだのでしょうか。

【事実の整理】

① 公式サイトは、この額を「権力ある上の者に媚びるのではなく、竈や竈で働く人々に感謝せよ」という意味だと紹介しています。

② 「媚竈」の出どころは、『論語』八佾(はちいつ)篇です。衛の国の重臣・王孫賈(おうそんか)が、孔子にことわざの意味をたずねます。「奥(おう)に媚びるより、竈(そう)に媚びよ」。

③ 古い注釈(孔安国〈こうあんこく〉の注)では、「奥」は君主のそばの家臣、「竈」は実際に政治を動かす人のたとえとされます。

④ 孔子の答えは「然らず(そうではない)」でした。「天に罪を獲(う)れば、祷(いの)る所なし」。だれかに媚びるより、天の道にそむかないことが大事だ、という答えです。

⑤ 良尚は宮家の生まれで、後水尾天皇の猶子になって門跡となりました。幕府の『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)』では、門跡になれるのは天皇の皇子や兄弟に限ると解されてきました。良尚は1681年に正式に門主に任じられ、宮家の出身で天皇の猶子として門跡になった例とされます。

⑥ 良尚は狩野探幽・狩野尚信の兄弟に絵を学び、華道にも通じた文化人でした。書院には、富士山の釘隠しや寄木の棚など、遊び心のある工夫が残ります。

【私の考察】

私が注目したのは、②〜④です。論語では「媚竈」は、孔子が退けたことわざの一部でした。つまり、ほめ言葉として生まれた言葉ではないのです。

それなのに、論語を学んだはずの皇族が、なぜこの2文字だけを額にしたのでしょうか。

私は、この額には2つの読み方が重ねられていると考えます。1つ目は、①の公式の読み方です。台所で働く人たちには、文字どおり「かまどを大切に」というメッセージになります。

2つ目は、論語を知る客だけが気づく読み方です。「媚竈」を見た教養人は、続く孔子の言葉「然らず。天に罪を獲れば…」を思い出すはずです。すると額は、「権力者に取り入るより、天に恥じない生き方を」という戒めに変わります。

⑤のように、良尚は幕府の決まりと朝廷のあいだで門跡になった人でした。だれに媚びるかが人生を左右する世界を、身をもって知っていたはずです。そして⑥のように、富士山の形の釘隠しをつくらせる遊び心もありました。2文字だけを切り取って、知る人には孔子の答えを思い出させる。いかにも良尚らしい「ことば遊び」に思えます。

【結論(あくまで推測)】

「媚竈」の額は、台所の人々への感謝であると同時に、論語を知る人へ向けた「媚びるな」というメッセージだったのではないでしょうか。台所という一番身近な場所に、一番大切な心がまえをかけておいた。ただし、良尚がこの額にどんな思いをこめたかを直接記した資料は、確認できていません。あくまで私の考察です。あなたはどう思いますか?

💡 出典:①は公式サイト「境内のご紹介」。②〜④は『論語』八佾篇と孔安国の注(朱熹〈しゅき〉の『論語集注』は「竈」を夏にまつる神とするなど、解釈には諸説あります)。⑤⑥はWikipedia「良尚入道親王」と公式サイト。

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