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栄西(えいさい)は、鎌倉時代のはじめに宋(そう。当時の中国)から禅を伝え、建仁寺を開いた僧です。臨済宗(りんざいしゅう)の祖で、「日本の茶祖(ちゃそ)」ともよばれます。
この記事でわかること
- 栄西とはどんな人か。二度の入宋(にっそう)と、禅・茶を広めた生涯
- 『吾妻鏡』に残る、二日酔いの将軍に茶をすすめた話
- 【謎】禅の祖が書いた茶の本は、なぜ茶の効き目を密教の書から説きはじめるのか
一杯のお茶の向こうに、禅と密教をつなごうとした僧の心が見えてきます。
01. 栄西の基本情報
| 分類 | 羅漢・祖師(臨済宗の祖・日本の茶祖) |
| 読み方 | えいさい(建仁寺では伝統的に「ようさい」と読みます) |
| 梵名 | なし(日本の僧〈祖師〉のため) |
| 別名・称号 | 明菴(みょうあん。明庵とも)・葉上房(ようじょうぼう)。おくり名は千光国師(せんこうこくし)。建仁寺では「開山千光祖師明庵栄西禅師」と仰ぎます(建仁寺公式・Wikipedia) |
| 生まれ | 1141年、備中(びっちゅう。今の岡山県)。吉備津神社(きびつじんじゃ)の神職の家・賀陽(かや)氏の流れと伝わります。父については諸説あります(Wikipedia) |
| 亡くなった年 | 1215年7月5日、建仁寺で。75歳(数え年)。鎌倉で亡くなったとする説もありました(建仁寺公式・Wikipedia) |
| 開いた寺 | 聖福寺(博多)・寿福寺(鎌倉)・建仁寺(京都)など |
| 主な著作 | 『興禅護国論(こうぜんごこくろん)』『喫茶養生記(きっさようじょうき)』 |
| 真言・種子字 | 祖師のため、決まったものは確認できませんでした |
| ゆかりの日 | 4月20日。栄西の誕生日とされます(一説に25日。Wikipedia)。建仁寺では開山降誕会(かいさんごうたんえ)に四頭茶会(よつがしらちゃかい)が営まれます(旅行情報) |
02. 栄西とは? ― 禅と茶を日本に広めた臨済宗の祖
① 一言まとめ
栄西は、宋で禅を学んで日本に伝え、お茶を飲む習慣を広めた僧です。でも実は、密教(みっきょう)の名人でもありました。
② 由来・生涯
栄西は1141年、備中に生まれました。1154年、14歳で比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)で得度(とくど。正式に僧になること)します。天台の教えと密教を学び、「葉上流(ようじょうりゅう)」という密教の流れを開いたとされます(Wikipedia)。
1168年、最初の入宋で天台山(てんだいさん)をたずねます。このときは天台の書物を持ち帰り、重源(ちょうげん)らと帰国しました。禅にどれほど関心があったかは、はっきりしません(Wikipedia)。
1187年、二度目の入宋。インドへ行きたいと願いましたが、許されませんでした。そこで天台山の虚庵懐敞(きあんえじょう)に学びます。1191年、臨済宗黄龍派(おうりゅうは)の印可(いんか。師が悟りをみとめること)を受けて帰国しました(Wikipedia)。
帰国後、1195年に博多に聖福寺を建てます。日本最初の禅道場とされる寺です。1198年には『興禅護国論』をあらわし、禅はほかの宗派を否定しない、と説きます(Wikipedia)。
1200年、北条政子(ほうじょうまさこ)が建てた鎌倉の寿福寺にまねかれます。1202年には源頼家(みなもとのよりいえ)の寄進で、京都に建仁寺を開きました。建仁寺は、天台・密教・禅の三つを兼ねて学ぶ道場として始まりました(建仁寺公式)。
1206年には、重源のあとをついで東大寺の勧進職(かんじんしょく。再建の資金を集める役)にもつきます。1215年、建仁寺で亡くなりました(建仁寺公式・Wikipedia)。
③ 姿・教えの特徴
栄西の姿は、禅僧の肖像画である頂相(ちんそう)や坐像で伝わります。頭をそり、袈裟(けさ)をかけてすわる僧の姿が基本です。
- 禅を国の役に立つ教えとして説いた:『興禅護国論』の題は「禅をおこして国をまもる」という意味です
- ほかの教えとならべた:建仁寺を、天台・密教・禅の三宗兼学(さんしゅうけんがく)の寺としました(建仁寺公式)
- 茶の効用を本にした:『喫茶養生記』で、茶を体を養う薬として説きました
03. 栄西にちなむ祈り ― 健康・心をととのえる・ものごとをつなぐ
🪷 心をととのえる(坐禅)
🤝 ものごとをつなぐ(筆者の見方)
- 健康:茶を「養生(ようじょう)の仙薬」とした『喫茶養生記』の教えから(筆者の見方)
- 心をととのえる:栄西が伝えた禅の坐禅は、いまも建仁寺の坐禅会などで体験できます
- ものごとをつなぐ:禅・天台・密教をならべて学んだ生き方から(筆者の見方)。ちがう立場の人たちの間に立つ人に、心強い祖師です
根拠について:栄西は仏ではなく祖師なので、経典にもとづく決まったご利益はありません。上の内容は、教えと生涯から筆者がまとめたものです。
こんな人におすすめ:毎日のお茶の時間を大事にしたい人。仕事や家庭で、ちがう意見の間に立つことが多い人です。
04. 栄西と関係の深い人々 ― 源実朝・明恵・道元
05. 栄西に会える場所 ― 建仁寺・聖福寺・寿福寺
- 建仁寺(けんにんじ。京都市東山区):栄西が開いた臨済宗建仁寺派の大本山です。栄西の塔所(とうしょ。お墓をまつる所)は境内の護国院(ごこくいん)にあります(建仁寺公式)。拝観は10:00〜16:30(受付終了)、一般800円・小中高生500円です(建仁寺公式)。くわしくは建仁寺の記事へ
- 聖福寺(しょうふくじ。福岡市博多区):1195年に栄西が建てた、日本最初の禅道場とされる寺です。後鳥羽天皇から「扶桑最初禅窟(ふそうさいしょぜんくつ)」の額を受けたと伝わります(Wikipedia)
- 寿福寺(じゅふくじ。神奈川県鎌倉市):北条政子が建て、栄西が住職にまねかれた寺です(Wikipedia)。境内のどこまで入れるかは、行く前に確かめてください
- 背振山(せふりさん。福岡県・佐賀県):二度目の入宋から帰った栄西が、茶の種を植えたとされる山です。「岩上茶(いわがみちゃ)」の始まりといわれます(建仁寺公式)
- 高山寺(京都市右京区栂尾):明恵が栄西から贈られた茶を育てた地とされます。くわしくは高山寺の記事へ
06. 栄西の像の見分け方ガイド
✅ 栄西禅師の像や絵をさがすヒント
- □ 建仁寺や、臨済宗建仁寺派のお寺にまつられていないか
- □ 頭をそった僧の姿で、袈裟(けさ)をかけている
- □ 説明板に「開山」「千光国師」「千光祖師」の文字がないか
- □ お茶の産地(佐賀・福岡など)で、「茶祖」として石碑や像が立っていないか
まちがえやすい祖師とのちがい
- 道元とのちがい:道元は曹洞宗の高祖で、永平寺の開山です。栄西の孫弟子にあたります
- 達磨とのちがい:達磨の像は、大きな目でにらむ姿や、赤い衣で頭までおおう姿が多いです
- 明恵とのちがい:明恵は、木の上で坐禅する「樹上坐禅像」で知られます。お茶つながりでならぶこともあります
※祖師の像や絵の姿は、寺や時代によってちがいます。名前の札や説明板で確かめてください。
07. 栄西の物語 ― 二日酔いの将軍に、一服のお茶
1214年2月、鎌倉。三代将軍・源実朝は、前の晩のお酒が残り、具合をわるくしていました。今でいう二日酔いです。
そばにいたのが、栄西でした。栄西はお茶を一服、実朝に差し出します。
そして、「お茶の徳をほめたたえた本」をいっしょにささげました。幕府の歴史書『吾妻鏡』に、そう書かれています(コトバンク「喫茶養生記」〈世界大百科事典〉)。
この本こそが『喫茶養生記』だと考えられてきました。その序文は、こう始まります。
(茶は、この世で体を養う仙人の薬〈仙薬=せんやく〉であり、人の命をのばすすばらしい術である。)
『喫茶養生記』は1211年に初めの本、1214年に直した本ができたとされます(コトバンク「喫茶養生記」)。実朝は、そのできたての本を受けとったのかもしれません。
日本の茶の歴史の有名な一場面は、将軍の二日酔いから始まったのです。
08. 栄西のまとめと関連記事
この記事でわかったこと
- 栄西は、二度入宋して禅を伝えた臨済宗の祖。建仁寺を開いた
- 『吾妻鏡』には、二日酔いの源実朝に茶と茶の本をささげた話がのる
- 茶の本『喫茶養生記』が茶の効き目を密教の書から説きはじめるのは、「心」と「心臓」をつなぐためだったのかもしれない(筆者の考察)
お茶を一口飲むとき、それが「体」と「心」の両方へのおくりものだと考えてみてください。
09. ゆる仏様トーク ― 栄西編
栄西は、今でいえば「海外で最新の健康法を学び、お茶の効き目を本にまとめた、お寺のお医者さん」です。しかもその本を、将軍に直接手わたしました。
将軍のそばにいた高僧が、差し出したのはお茶。「まずは、これを一服」。……え、お坊さんなのに、ずいぶん実用的では? ──そう、栄西にとっては一杯のお茶も、人を救う道具だったのです。
栄西禅師が、つかれて飲みすぎてしまう人に声をかけるとしたら――
※記録に残る言葉ではありません。『喫茶養生記』で茶を体を養う薬とした教えをもとに、イメージしたセリフです。

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