この記事でわかること
・「東大寺」と「興福寺」から一字ずつ取って名付けられた、東福寺という寺名の由来
・明治の大火で本尊が焼失し、今も「仏の手」だけが残されているという話
・19年もの歳月をかけて完成した、京都五山第四位の大伽藍の見どころ
京都府京都市、紅葉の名所として知られる東福寺。谷を覆う錦の紅葉の下には、大火から立ち上がった禅寺の700年近い歴史が息づいています。
01. 東福寺の基本情報
| 正式名称 | 慧日山東福寺(えにちさん とうふくじ) |
|---|---|
| 宗派 | 臨済宗東福寺派(大本山) |
| ご本尊 | 釈迦如来(しゃかにょらい) |
| 開山 | 円爾(えんに、諡号:聖一国師) |
| 開基 | 九条道家(くじょうみちいえ) |
| 創建 | 嘉禎2年(1236年)発願、建長7年(1255年)完成 |
| 寺格 | 京都五山第四位 |
| 所在地 | 京都府京都市東山区本町15丁目778 |
| アクセス | JR奈良線・京阪本線「東福寺駅」から徒歩約10分 |
| 拝観時間 | 4月〜10月 9:00〜16:00(拝観受付終了、閉門16:30)※季節により変動 |
| 拝観料 | 通天橋・開山堂600円、本坊庭園500円、共通拝観券1,000円 |
| 公式サイト | https://tofukuji.jp/ |
02. ご本尊「釈迦如来」ってどんな仏様?
分類:如来
本堂に安置・明治の大火後に迎えられた像
① 一言まとめ
東福寺のご本尊は釈迦如来。悟りを開いた仏教の開祖そのものを表す仏様で、禅の教えの拠り所として本堂に祀られています。
② 由来・経典上の位置づけ
釈迦如来は禅宗寺院の多くで本尊とされ、経典の教えよりも坐禅による直接の体験を重んじる禅の精神を象徴する存在です。東福寺には元々、身の丈五丈(約15メートル)ともいわれる巨大な釈迦如来像が仏殿に安置されていましたが、明治14年(1881年)の大火でこの像は焼失してしまいました。現在の本尊は、大正から昭和にかけて本堂が再建された際、塔頭・万寿寺から移された釈迦如来像です。
③ 姿・特徴
かつての巨大な本尊は失われましたが、火災の際に左手の部分だけが救い出され、現在も長さ約2メートルにおよぶ「仏手」として東福寺に保管されています。当時の像の規模を今に伝える、貴重な痕跡です。
03. ご利益・祈願
釈迦如来への祈りに加え、東福寺は大火から立ち上がった歴史から、困難を乗り越える力や再興の願いを込めて参拝する人も少なくありません。紅葉の季節には、谷を埋め尽くす錦の景色を目当てに、国内外から多くの参拝者・観光客が訪れます。
04. 境内の見どころガイド
三門(国宝)
室町時代初期に再建された三門は、禅宗寺院の三門としては日本最古にして最大の国宝建造物です。大仏様・禅宗様・和様という3つの建築様式を融合させた重層構造で、棟高は約22メートルにおよびます。
通天橋
仏殿から常楽庵へと至る渓谷・洗玉澗(せんぎょくかん)に架けられた橋廊です。天授6年(1380年)、僧が谷を渡る苦労を救うために架けられたと伝えられます。橋の周囲を彩る「通天紅葉」は、開山・円爾が宋から持ち帰ったと伝わる唐楓(トウカエデ)が中心です。
仏手(焼け残った本尊の左手)
明治14年(1881年)の大火で焼失した、身の丈五丈ともいわれた巨大な旧本尊・釈迦如来像。その左手だけが火災の中から救い出され、現存部分の長さは約2メートルにおよびます。かつての本尊の規模を物語る、貴重な遺物です。
本坊庭園(八相の庭)
昭和の作庭家・重森三玲が手がけた、東西南北四庭からなる庭園です。伝統的な様式と近代的な意匠を融合させた設計で知られ、方丈の四方を異なる趣向の庭が取り囲みます。
御朱印情報
| 種類 | 朱印料 | 受付時間 |
|---|---|---|
| 「大仏寶殿」「通天」の2種 | 500円 | 9:00〜16:00(本坊庭園拝観受付にて) |
05. 参拝の作法ガイド
- 三門をくぐる前に、境内に向かって軽く一礼します
- 手水舎で両手と口を清めます
- 本堂の前で姿勢を正し、静かに合掌して一礼します
- お参りが終わったら、来た時と同じように山門で振り返り一礼して退出します
06. 東大寺と興福寺、二つの大寺にあやかった名
嘉禎2年(1236年)、摂政・九条道家は、奈良の東大寺・興福寺という二大寺院に匹敵する大伽藍をこの地に築こうと発願しました。寺名の「東福寺」は、この二つの寺の名から一字ずつを取って名付けられたと伝えられています。開山には、宋での修行を終えて帰国したばかりの禅僧・円爾(後の聖一国師)が迎えられ、建長7年(1255年)まで実に19年もの歳月をかけて、壮大な伽藍が完成しました。
しかし明治14年(1881年)、東福寺は大火に見舞われ、仏殿・法堂・方丈・庫裏など主要な建物のほとんどを焼失してしまいます。この時、身の丈五丈ともいわれた巨大な本尊・釈迦如来像も失われましたが、人々は像の左手だけを炎の中から救い出しました。大正6年(1917年)から本堂の再建が始まり、昭和9年(1934年)、塔頭・万寿寺から新たな釈迦如来像を迎えて、東福寺は再びその姿を取り戻したのです。
07. 周辺スポット・アクセス
JR・京阪「東福寺駅」徒歩約10分
京都駅からバスでもアクセス可能
紅葉シーズンは利用制限あり
境内散策 約60〜90分
東福寺の周辺には、伏見稲荷大社をはじめとする観光名所も点在しており、あわせて巡るのに便利な立地です。紅葉シーズンは特に周辺道路が混雑するため、公共交通機関の利用がおすすめです。
08. まとめ
- 東福寺は、奈良の東大寺・興福寺にあやかって名付けられた京都五山第四位の禅寺
- 明治14年(1881年)の大火で巨大な本尊が焼失し、今もその左手だけが「仏手」として残されている
- 通天橋から眺める紅葉「通天紅葉」は、開山・円爾が宋から持ち帰ったと伝わる唐楓が中心
大火を越えて甦った東福寺。紅葉の季節はもちろん、四季を通じてその歴史の重みを感じに訪れてみてください。
09. ゆる仏様トーク
旧本尊の「仏手」、いわば「本人は失われても、握手だけは今も残っている」ような存在です。2メートルもの手のひらを想像すると、元の像がどれほど巨大だったのか、思わず圧倒されてしまいます。
──二大寺院の名前を一字ずつもらって「東福寺」。まるで先輩の名前にあやかって名付けられた後輩のようですが、19年かけて完成した伽藍の規模は、決して二番煎じではありませんでした。
10. 謎と考察コーナー
【謎】なぜ人々は、燃え盛る火の中から「手」だけを救い出したのか?
【事実の整理】
明治14年(1881年)の大火で、身の丈五丈ともいわれた東福寺の旧本尊・釈迦如来像は焼失しました。しかしその混乱の中で、像の左手部分だけが持ち出され、現在も長さ約2メートルの「仏手」として大切に保管されています。
【私の考察】
なぜ像全体を救うことができなかったにもかかわらず、手だけは持ち出せたのでしょうか。巨大な像は複数のパーツを組み合わせて造られていたと考えられ、火災の混乱の中で分離しやすい部分から運び出されたのが「手」だった、というのが物理的な説明でしょう。しかし私は、それだけでなく、「手」という部位が持つ象徴性にも意味があったのではないかと感じます。仏の手は、施無畏印や与願印など、人々を救う意志を示す部分です。像そのものが失われても、救いを差し伸べる「手」だけは残そう、残したい、という無意識の選択が働いたのかもしれません。
【結論(あくまで推測)】
炎の中で人々が咄嗟に選んだのは、仏像の中でも「救いの手」そのものだった。それは偶然の結果であると同時に、東福寺という寺が大火を越えてなお立ち上がり続けてきた精神そのものを、象徴しているのではないでしょうか。あなたはどう思いますか?
※あくまで私の考察です。

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