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【仏様図鑑】空也上人(くうやしょうにん)-市聖・踊り念仏の祖、生まれを語らない聖が「皇子」と伝わる謎

仏様図鑑
空也上人(くうやしょうにん)は、平安時代の念仏の聖(ひじり)です。京の町の市(いち)で「南無阿弥陀仏」をすすめ、「市聖(いちのひじり)」とよばれました。教科書でおなじみの、口から6体の仏が出ている像の人です。

この記事でわかること

  • 空也上人とはどんな人か。井戸を掘り、橋をかけ、念仏を広めた生涯
  • 像が持つ「鹿の角の杖」と、かわいがった鹿の物語
  • 【謎】自分の生まれを語らなかった聖が、なぜ「天皇の皇子」と伝えられるのか

名前も生まれも、すべて手ばなして歩いた人。その足あとをたどります。

01. 空也上人の基本情報

空也上人(くうやしょうにん)基本情報
分類 羅漢・祖師(平安時代の念仏聖)
読み方 くうや(「こうや」とも)
梵名 なし(日本の僧のため)
別名 市聖(いちのひじり)・阿弥陀聖(あみだひじり)・市上人(いちのしょうにん)。比叡山で受けた名は光勝(こうしょう)ですが、本人はこの名を使わなかったとされます(山川日本史小辞典)
生没年 903年〜972年(天禄3年9月11日)。70歳で、京都の西光寺(さいこうじ。今の六波羅蜜寺)で亡くなったとされます
出自 不明。皇族の出とする説があります(くわしくは「10. 謎」)
となえた言葉 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)
真言・種子字 空也上人自身の真言・種子字は、確認できませんでした
ゆかりの日 空也忌(くうやき。一般に11月13日とされます)。京都の空也堂では、毎年11月第2日曜の開山忌に、歓喜踊躍念仏が行われます(コトバンク「空也堂」、京都観光Navi)
💡 出典:コトバンク「空也」(日本大百科全書・世界大百科事典・デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典・山川日本史小辞典)、Wikipedia「空也」。

02. 空也上人とは? ― 口から6体の仏の像で知られる「市聖」

① 一言まとめ

空也上人は、お寺の中ではなく、町の人々のあいだで念仏を広めた僧です。民間に念仏を広めた人として、仏教の歴史に大きな足あとを残したとされます(世界大百科事典)。

② 生涯 ― 道をなおし、井戸を掘り、念仏をとなえる

空也は20歳すぎのころ、尾張国分寺(おわりこくぶんじ。今の愛知県)で出家し、自分で「空也」と名のったとされます(日本大百科全書)。

そのあと、各地を歩いて修行しました。播磨(はりま。今の兵庫県)の山寺でお経を学び、四国の湯島(ゆしま)で修行し、東北の奥羽(おうう)にも行ったと伝わります(世界大百科事典)。

旅の中で、空也はけわしい道を平らにし、橋をかけ、井戸を掘りました。掘った井戸は「阿弥陀井(あみだい)」とよばれたそうです。野にすてられた亡きがらを集めて火葬し、念仏をとなえてとむらったとも伝わります(日本大百科全書)。

やがて空也は京の町に入り、市で念仏をすすめました。いつも阿弥陀如来の名をとなえていたので、「市聖」「阿弥陀聖」とよばれました。

948年には、比叡山で天台座主(てんだいざす)の延昌(えんしょう)から戒を受け、「光勝」の名をもらいます。でも本人は、最後まで「空也」と名のりつづけたとされます。

951年、京で病がはやると、空也は自ら十一面観音の像を刻み、人々の無事を祈ったと伝わります(六波羅蜜寺公式)。この話と、病人にお茶をふるまった「皇服茶(おうぶくちゃ)」の由来は、六波羅蜜寺の記事でくわしく紹介しています。

950年からは、金の文字で書く『大般若経(だいはんにゃきょう)』600巻の写経を始めます。13年かけて963年に完成させ、鴨川(かもがわ)の河原で大きな供養を行いました。この事業をきっかけに、西光寺(のちの六波羅蜜寺)が建てられたとされます(世界大百科事典)。六波羅蜜寺は951年の創建とされることも多く、資料によって書き方が異なります。

③ 「踊り念仏の祖」といわれるわけ

空也は、首にさげた鉦(かね)を打ちながら、念仏をとなえて町を歩きました。この姿が、のちの踊り念仏の手本になったと考えられています。

鎌倉時代の一遍(いっぺん)は、空也をふかくうやまい、自分の先を歩いた手本としました。一遍と時衆(じしゅう)の踊り念仏も、空也を祖とするとされます(日本大百科全書)。

ただし、空也自身が踊り念仏をしたという確かな記録はない、という見方もあります(Wikipedia「空也」)。六波羅蜜寺の「空也踊躍念仏」や、空也堂の歓喜踊躍念仏は、空也の念仏を今に伝える行事です。

④ 姿の特徴 ― 鉦・撞木・鹿の角の杖

  • 胸:首から鉦(かね)をさげます
  • 右手:鉦をたたく撞木(しゅもく。T字形の棒)を持ちます
  • 左手:先に鹿の角をつけた杖「鹿角杖(わさづえ)」をつきます(日本大百科全書)
  • 足:わらじをはいて歩く、旅の姿です
  • 口:六波羅蜜寺の像では、口から6体の小さな阿弥陀如来が出ています。「南無阿弥陀仏」の6文字が仏になった姿とされます

仏様の像のような光背(こうはい)や蓮の台座はなく、町を歩く僧の姿そのままです。

03. 空也上人のご利益 ― 念仏・病よけ・旅と暮らしの守り

📿 念仏・往生の願い
🍵 病気よけ・無病息災
👣 旅の安全
🤝 人の役に立つ力
  • 念仏・往生の願い:「南無阿弥陀仏」をとなえれば、だれでも阿弥陀如来の極楽へ行ける。その教えを町に広めた人です
  • 病気よけ・無病息災:病の流行のときに祈った話から、六波羅蜜寺では正月に皇服茶がさずけられます(六波羅蜜寺公式の年中行事)
  • 旅の安全:生涯、各地を歩いた聖です(筆者の見方)
  • 人の役に立つ力:井戸を掘り、橋をかけた人です(筆者の見方)

ご利益の根拠:空也上人に決まったご利益があると書いた資料は、確認できませんでした。ここでは、念仏の教えと、伝わる行いから紹介しています。

こんな人におすすめ:ボランティアや地域の活動をしている人。肩書きではなく、行いで人とつながりたい人です。

04. 空也上人と関係の深い仏様・人物 ― 阿弥陀如来・十一面観音・一遍

阿弥陀如来(あみだにょらい)空也がとなえつづけた「南無阿弥陀仏」の仏。極楽浄土の仏です
十一面観音(じゅういちめんかんのん)951年に空也が自ら刻んだと伝わる、六波羅蜜寺の本尊
一遍(いっぺん)鎌倉時代の念仏聖。空也にならって踊り念仏を始めたとされます
源信(げんしん)空也のすこし後の時代に『往生要集(おうじょうようしゅう)』を書き、念仏の教えを学問としてまとめた僧
法然(ほうねん)空也から約200年後、念仏一つで救われると説き、浄土宗を開いた僧
延昌(えんしょう)空也に戒をさずけた天台座主
💡 空也は、宗派をつくりませんでした。でも、町に念仏を広めた先がけとして、のちの念仏の祖師たちにつながっていきます。

05. 空也上人に会える寺 ― 六波羅蜜寺・空也堂・月輪寺

  • 六波羅蜜寺(ろくはらみつじ。京都市東山区):空也が建てた西光寺がはじまりです。口から6体の仏が出る空也上人立像(重要文化財)があります。運慶(うんけい)の子・康勝(こうしょう)の作と伝わります。くわしくは六波羅蜜寺の記事へ

    ・開門:8時30分〜16時30分

    ・令和館(重要文化財収蔵庫):9時〜16時15分(受付16時まで)、大人700円・中高大学生500円・小学生400円

    ・空也踊躍念仏(くうやゆやくねんぶつ):12月13日〜除夜(時間は寺に確かめてください)

    (六波羅蜜寺公式)

  • 空也堂(くうやどう。紫雲山光勝寺 空也堂極楽院。京都市中京区):空也の教えを受けつぐ僧たちの中心となったお堂です。鹿を射た定盛が建てたという縁起が伝わる一方、938年に空也が開き定盛は第2祖とする説もあります(コトバンク「空也堂」。諸説あり)。開山忌の法要では、献茶ののち、僧による歓喜踊躍念仏(かんぎゆやくねんぶつ)が行われ、六斎念仏(重要無形民俗文化財)も奉納されます。2026年は11月8日(日)13時からと案内されています(京都観光Navi)
  • 月輪寺(つきのわでら。京都市右京区・愛宕山):鎌倉時代の空也上人像(重要文化財)が伝わります(Wikipedia「空也」)。山道を歩いて登るお寺です
  • 浄土寺(じょうどじ。愛媛県松山市):四国八十八か所の第49番札所で、鎌倉時代の空也上人像(重要文化財)が伝わります(Wikipedia「空也」)
  • 荘厳寺(しょうごんじ。滋賀県近江八幡市):鎌倉時代の空也上人像(重要文化財)が伝わります(Wikipedia「空也」)
💡 月輪寺・浄土寺・荘厳寺の像の公開日・拝観料は、公式の情報を確認できませんでした。お出かけ前に、それぞれのお寺に確かめてください。

06. 空也上人の見分け方ガイド

✅ これがあれば空也上人かも?チェックリスト

  • □ 首から鉦をさげ、手に撞木を持つ
  • □ 先に鹿の角がついた杖をつく
  • □ わらじばきで、前に歩き出すような姿
  • □ 口から小さな仏が出ている(六波羅蜜寺の像など)

まちがえやすい人物とのちがい

  • 一遍とのちがい:一遍の像も旅姿ですが、鹿の角の杖や口から出る仏はありません。一遍は踊り念仏の輪の中にえがかれることが多い人です
  • 空海(弘法大師)とのちがい:旅姿の弘法大師は、笠をかぶり錫杖(しゃくじょう)を持つことが多いです。空也は鉦と鹿の角の杖です

07. 空也上人の物語 ― かわいがった鹿と、角の杖

空也は、京の北の鞍馬山(くらまやま)に住んでいたことがあると伝わります。そこには、空也がかわいがっていた一頭の鹿がいました。

鹿は、毎日のように空也のそばに来ました。空也は、その鳴き声を聞きながら、念仏をとなえていたといいます。

ところがある日、定盛(さだもり)という猟師が、その鹿を矢で射てしまいます。

空也は、深く悲しみました。そして、その鹿の皮をもらって衣にし、角を杖の先につけたと伝わります。それからは、いつも鹿といっしょに歩くように、念仏をとなえて回りました(世界大百科事典、Wikipedia「空也」)。

猟師の定盛は、自分のしたことを悔いて、空也の弟子になったと伝わります(Wikipedia「空也」)。京都の空也堂には、この定盛が建てた、または第2祖になったという伝えがあります(コトバンク「空也堂」。諸説あり)。

──空也の像がつく鹿の角の杖は、ただの道具ではなかったのです。いのちを失ったものを、もう一度いっしょに歩かせる杖でした。

📖 出典:コトバンク「空也」(世界大百科事典「その毛皮で衣を作り,角を杖の頭につけて念仏を唱えた」)、Wikipedia「空也」。鹿との日々の様子は、筆者がやさしく書いたものです。伝承であり、史実として確かめられた話ではありません。

08. 空也上人のまとめと関連記事

この記事でわかったこと

  • 空也上人は、井戸を掘り橋をかけ、京の市で念仏をすすめた平安の「市聖」
  • 像の鹿の角の杖は、かわいがった鹿の角をつけたものと伝わる
  • 本人は生まれを語らなかったが、のちに「皇子」と伝えられるようになった

鉦を打って歩いた空也の念仏は、今も年の瀬の京都にひびきます。12月13日からの空也踊躍念仏に合わせて、六波羅蜜寺をたずねてみてはいかがでしょうか。

09. ゆる仏様トーク ― 空也上人編

🍵 ゆる仏様トーク①(たとえ話)

空也上人は、今でいえば「名刺を持たずに町に出て、井戸を掘りながら声をかけて回る人」です。肩書きは名のらない。でも、会った人はみんな顔を覚えている。そんな人でした。

🍵 ゆる仏様トーク②(ツッコミ)

比叡山で「光勝」というりっぱな名前をもらった空也。でも、本人はその名を使わなかったとされます。──そう、りっぱな名前より、町の人が呼ぶ「市聖」のほうが、空也にはしっくりきたのかもしれません。

🍵 ゆる仏様トーク③(ひとこと)

空也上人が、肩書きやプロフィールに悩む人に声をかけるとしたら――

「どこから来たかより、今どこを歩いているかです。さあ、いっしょに歩きましょう。」

※空也上人が残した言葉ではありません。生まれを語らず各地を歩いた空也の生き方をもとに、イメージしたセリフです。

10. 空也上人の謎 ― 生まれを語らなかった聖が、なぜ「皇子」と伝わるのか

【謎】自分の父母を語らなかった空也が、なぜ「天皇の皇子」と伝えられるのか
【事実の整理】
① 空也の生まれは、わかっていません。生きているうちから、すでに皇室の出であるという説があったとされます。でも本人は、父母のことをいわず、ふるさとを語らなかったといいます(世界大百科事典)。
② のちの本では、生まれの説が分かれます。『帝王編年記(ていおうへんねんき)』は醍醐天皇の皇子とし、『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』は仁明天皇の皇子・常康親王(つねやすしんのう)の子とします(世界大百科事典)。常康親王の子とする説は、『尊卑分脉(そんぴぶんみゃく)』を典拠に挙げる資料もあります(Wikipedia「空也」)。六波羅蜜寺では、醍醐天皇の第二皇子と伝えています(寺の伝え)。
②’ さらに『閑居友(かんきょのとも)』『撰集抄(せんじゅうしょう)』には、空也を「水の流れから生まれた化現(けげん)の人」、つまり仏が姿を変えてあらわれた人とする話もあります(世界大百科事典)。
③ ただし常康親王は869年に亡くなっています。903年生まれの空也の父とするのは、年が合いません(Wikipedia「空也」)。
④ 「空也」は、出家のとき自分で名のった名です。比叡山でもらった「光勝」の名は、使わなかったとされます(日本大百科全書、山川日本史小辞典)。
⑤ 空也は、宗派もお寺の組織もつくりませんでした。それでも、のちに各地に空也堂が建てられ、空也を慕う僧たちの集まりができました(日本大百科全書)。
【私の考察】
空也は、名前も、生まれも、肩書きも、自分からは語りませんでした(①④)。「空」の字のとおり、自分を空っぽにした人だったのかもしれません。
でも、空っぽの場所には、人の思いが入ってきます。市で念仏をすすめ、亡きがらをとむらい、井戸を掘ってくれた聖。人々は「あれほどの人なら、きっと高い身分を捨てて来た人にちがいない」と考えたのではないでしょうか。
「皇子が宮中を出て、市で人々と生きた」という物語は、空也の行いをいっそう尊いものに見せます。だからこそ、年の合わない説まで生まれるほど、人々は空也の空白を「皇子」の物語でうめていった(②③)。そう考えると、説が一つにまとまらない理由も見えてきます。人々は空白を、「皇子」だけでなく「仏の化身」という物語でもうめました(②’)。どちらも、空也を「ふつうの人ではない」と言いたかった声なのかもしれません。
【結論(あくまで推測)】
空也が「皇子」と伝わるのは、本人が生まれを語らなかったからこそ。語られなかった空白に、人々が「いちばん尊いものを捨てて来た聖」という物語を入れたのではないか。生まれを空にした聖は、人々の思いをうつす器になったのかもしれません。あくまで私の考察です。あなたはどう思いますか?
💡 出典:①②はコトバンク「空也」(世界大百科事典)、③はWikipedia「空也」、④はコトバンク「空也」(日本大百科全書・山川日本史小辞典)、⑤はコトバンク「空也」(日本大百科全書)。「空白に人々が物語を入れた」という読み方は、筆者の考察です。

11. 空也上人データベース早見表

項目 内容
分類 羅漢・祖師(念仏聖)
読み方 くうや(こうや)
別名 市聖・阿弥陀聖・市上人・光勝
生没年 903年〜972年
となえた言葉 南無阿弥陀仏
持ち物 鉦・撞木・鹿角杖(わさづえ)
ゆかりの日 空也忌(一般に11月13日とされる。空也堂では11月第2日曜に開山忌)、空也踊躍念仏(六波羅蜜寺・12月13日〜除夜)
主なご利益(伝承・行いから) 念仏・往生の願い・無病息災(筆者の見方をふくむ)
会える場所 六波羅蜜寺・空也堂・月輪寺・浄土寺(松山)・荘厳寺(近江八幡)

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