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京都・嵐山の宝厳院(ほうごんいん)は、天龍寺の塔頭(たっちゅう=大きな寺の中の小さな寺)です。春と秋の特別拝観のときだけ門を開く寺です。
この記事でわかること
- 二度、海を渡って明(みん)へ行った禅僧・策彦周良(さくげん しゅうりょう)と「獅子吼(ししく)の庭」
- 2026年秋の特別拝観(10月3日〜12月6日)と、58枚の朱色の襖絵
- 【謎】寺は何度も燃えたのに、なぜ庭だけが名園として生き残ったのか
この庭は、住む場所を失った寺と、主を失った庭がめぐりあった場所でした。
01. 宝厳院の基本情報(2026年秋の特別拝観)
| 寺号(読み方) | 宝厳院(ほうごんいん) |
|---|---|
| 山号 | 大亀山(読みは公式に記載なし) |
| 宗派 | 臨済宗天龍寺派(りんざいしゅう てんりゅうじは)。大本山天龍寺の塔頭 |
| ご本尊 | 十一面観音(十一面観世音菩薩) |
| 開基・開山 | 開基(かいき=寺を建てた人)は室町幕府の管領(かんれい=将軍を補佐する役職)細川頼之(ほそかわ よりゆき)。開山(かいさん=初代の住職)は聖仲永光(しょうちゅう えいこう) |
| 創建 | 寺伝では寛正(かんしょう)2年(1461年)。ただし細川頼之はそれより前に亡くなっていて、年代が合わないとの指摘もあります |
| 寺格 | 大本山天龍寺の塔頭 |
| 所在地 | 京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(さがてんりゅうじ すすきのばばちょう)36 |
| アクセス | 嵐電(京福電鉄)「嵐山」駅から徒歩約5分、JR嵯峨野線「嵯峨嵐山」駅から徒歩約10〜15分(資料により異なる)、阪急「嵐山」駅から徒歩約15分 |
| 拝観時間 | 特別拝観期間のみ。2026年秋は10月3日(土)〜12月6日(日)、9:00〜17:00閉門(受付は16:45まで) |
| 拝観料 | 庭園:大人700円、小中学生300円。弘源寺(こうげんじ)との割引共通券1,000円。本堂の特別公開は別に志納料が必要(金額は公式に記載なし) |
| 公式サイト | 宝厳院公式サイト(hogonin.jp)/電話 075-861-0091 |
02. 宝厳院のご本尊 ― 十一面観音
(撮影禁止のため画像なし)
① 一言まとめ
宝厳院の本尊は、11の顔で四方八方の人を見守る十一面観音です。本堂には、三十三体観音もまつられています(公式サイト)。
② 由来・位置づけ
観音様(観音菩薩)は、苦しむ人の声を聞いて救いに来る菩薩です。『法華経』の「観音経(かんのんぎょう)」では、相手に合わせて33の姿に変わると説かれます。宝厳院の33体の観音像は、この33の姿を仏像で表したものです(公式サイト)。
くわしい十一面観音の話は、十一面観音の記事で紹介しています。
③ 姿・特徴
公式サイトでは、頭の上の11の顔のうち、前後左右の10の顔は「十地(じゅうじ)」を表すと説明しています。十地とは、菩薩が修行してのぼっていく10の段階のことです。そしていちばん上の仏の顔は、修行の先にある悟りを表すといいます。
つまり、この観音様の頭の上には、修行の道のりがまるごとのっているのです。
一般に十一面観音は、左手に水瓶(すいびょう=清らかな水を入れる瓶)を持つ姿で表されることが多い仏様です。水瓶には蓮の花がさされることもあります。右手は下にのばして、願いを受けとめる形をとる像がよく見られます。
ただし、宝厳院の本尊の持ち物や大きさ、作られた年代は、公式に記載がありません。本尊は本堂の中にあり、撮影はできません。
なお、本尊を聖観音(しょうかんのん)とする資料もあります。この記事では公式サイトの説明に従いました(Wikipedia「宝厳院」でも同じ扱い)。
03. 宝厳院のご利益・祈願
宝厳院のご利益について、公式サイトに決まった記載はありませんでした。上は、本尊と庭の意味から考えた「訪ねたくなる理由」です。
こんな人におすすめ
- 受験や仕事で、あきらめずに努力を続けたい人(庭の「龍門瀑〈りゅうもんばく〉」は、努力して龍になる鯉の姿です)
- にぎやかな嵐山の中で、静かに心を整えたい人
- 紅葉や新緑を、ゆっくり歩きながら味わいたい人
ご利益の根拠:本尊の十一面観音は、四方八方の人を見守る観音様です。そして公式サイトは、庭を歩いて鳥の声や風の音を聴くことで、心がいやされると案内しています。
参拝に適した時期:紅葉の見ごろは、例年11月中旬〜12月上旬とされます(旅行サイト)。春の特別公開の時期は、新緑の「青もみじ」が見どころです。
04. 宝厳院 境内の見どころガイド(獅子吼の庭を歩く)
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山門ともみじの参道
山門をくぐると、もみじの枝が頭の上をおおう道が続きます。公式サイトでは「青紅葉のトンネル」として紹介されています。
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獅子吼の庭
嵐山の景色を借景(しゃっけい=遠くの山などを庭の一部に取りこむこと)にした、回遊式(かいゆうしき=歩いてめぐる)の庭です。「獅子吼」は、仏が説法することを意味します(公式サイト)。
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獅子岩・碧岩(へきがん)
庭には大きな岩がいくつも置かれています。中でも「獅子岩」は、獅子が寝そべっているように見える大岩です(旅行サイト)。
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三尊石・苦海・獣石、龍門瀑
庭には「三尊石(さんぞんせき)」「苦海(くかい)」「獣石」と名づけられた景物もあります(公式サイト)。龍門瀑は、鯉が滝をのぼって龍になる「登龍門」の話を石で表した滝です。公式サイトは、修行僧が悟りに至るまでの努力を表したものと説明しています。
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本堂と襖絵
本堂は2008年に再建されました。中には、58枚の襖絵「風河燦燦三三自在」があります(「05」で紹介)。法要などのため、襖絵を拝観できない場合もあると公式サイトは案内しています。
| 御朱印 | 内容 |
|---|---|
| 御朱印 | 公式サイトに記載なし。授与の有無・料金は現地か電話(075-861-0091)で確認してください |
05. 宝厳院の寺宝・秘宝ハイライト
田村能里子「風河燦燦三三自在」
本堂の3つの部屋を仕切る58枚の襖絵です。めずらしい朱色が使われ、その色は「命が燃える色」とされます。観音様の33の姿に重ねて、33人の老若男女が描かれています(公式サイト)。作者は田村能里子さんです。寺の本堂の襖絵を女性の画家が手がけたのは、田村さんが初めてとされます(Wikipedia「宝厳院」)。
策彦周良が作ったとされる「獅子吼の庭」
作庭したとされる策彦周良は、室町時代に2度、遣明船(けんみんせん=明の国へ送った船)で海を渡った禅僧です。もとは天龍寺の塔頭・妙智院(みょうちいん)の庭として作られました。江戸時代には、名所案内の本『都林泉名勝図会(みやこりんせんめいしょうずえ)』にも紹介されています(Wikipedia「宝厳院」)。
大正の別荘の書院と茶室
書院は1919年(大正8年)の建物です。日本郵船の重役・林民雄(はやし たみお)の別荘だったころに建てられました。大正から昭和のはじめ、数寄屋(すきや=茶室風の建築)建築の黄金期に建てられたものです(Wikipedia「宝厳院」)。拝観のときに入れるかどうかは、公式に記載がありません。
06. 宝厳院の参拝の作法
お寺の基本の作法は、お寺の参拝作法の記事でくわしく紹介しています。宝厳院では、次の順番で静かにお参りしましょう。
- 山門の前で軽く一礼します
- 手水舎があれば、手と口を清めます(宝厳院の手水舎の有無は公式に記載なし)
- 受付で拝観志納料を納めます(昼の券で夜の拝観には入れません)
- 本堂が公開されていれば、本尊の前で合掌し、一礼します
- 庭の順路にそって、ゆっくり歩きます
- 帰りに山門でもう一度一礼して、境内を離れます
子どもへの説明:「このお庭は、仏さまのお話を、鳥や風の音で聞かせてくれるんだよ。耳をすませてみようね」
07. 宝厳院の物語 ― 二度、海を渡った禅僧・策彦周良
文亀元年(1501年)、丹波(たんば=今の京都府中部など)に一人の男の子が生まれました。のちの策彦周良です。
少年は京都の鹿苑寺(ろくおんじ=金閣寺)で仏門に入ります。ところが永正8年(1511年)、船岡山(ふなおかやま)の合戦で寺を焼け出されてしまいます。少年は師とともに、ふるさとの丹波へ逃れました。
18歳で天龍寺に入り、正式な僧となった周良。師が亡くなると、天龍寺の塔頭・妙智院の住職になりました。
そして天文8年(1539年)、周良は遣明船の副使(ふくし=2番目の代表)として、3隻・460人で海を渡ります。北京まで行き、役目を果たして帰ってきました。
天文16年(1547年)には、今度は正使(せいし=いちばんの代表)として、4隻・630人あまりを率いて再び海へ出ました。途中で海賊に襲われ、89人が命を落としたといいます。しかも明の国は、約束の年より早く来たとして、一度は入国を断りました。それでも周良はあきらめず、上陸を許されるまで待ちつづけます。そして北京に入り、天文19年(1550年)に帰国しました(Wikipedia「策彦周良」)。
周良が帰った翌年、遣明船を出していた大内義隆が家臣に討たれます。周良の船は、最後の遣明船となりました。
思えば天龍寺は、建てる費用のために中国へ貿易船(天龍寺船)を出した寺です。それから約200年。同じ天龍寺の僧が、最後の遣明船を率いたことになります(天龍寺船の話は天龍寺の記事へ)。
その後、武田信玄に招かれて甲斐の恵林寺(えりんじ)へ行き、織田信長ら多くの武士とも交流しました。でも周良は、世に出ることを望みませんでした。妙智院に静かに住み、天龍寺を守ることにつとめたといいます。
荒海を2度こえた禅僧が、静かな寺で向きあった庭。それが、いま宝厳院にある「獅子吼の庭」だとされています。
08. 宝厳院に伝わる伝説・言い伝え
【寺伝】足利尊氏がまつった地蔵
本堂には、足利尊氏がまつったとされる地蔵菩薩の立像があります(公式サイト・寺伝)。尊氏は、天龍寺を建てた将軍です。宝厳院ができたとされる年より前に亡くなっているので、どこから伝わった像なのかも気になります。
【言い伝え】鯉が龍になる滝
庭の龍門瀑は、中国の急流「龍門」をのぼりきった鯉が龍になる、という話を表しています。公式サイトは、中国の禹(う)が治水で切り開いた急流と説明します。この石の滝の形は、鎌倉時代に宋から来た禅僧・蘭渓道隆(らんけい どうりゅう)が考えたと伝えられます(旅行サイト)。
【記録】「青もみじ」はここから広まった
今ではよく聞く「青もみじ」という言葉。2006年、京福電鉄が紅葉の時期以外の緑に目をつけ、初夏の宝厳院の木々を「青もみじ」として宣伝しました。そこから言葉が広まったとされます(Wikipedia「宝厳院」)。
【見どころ】岩から生える松
獅子吼の庭には、岩から生えている「破岩(はがん)の松」があります(Wikipedia「宝厳院」)。「岩を破る」と書く名前のとおり、土の少ない岩の上で生きる松です。どんな場所でも根を張るその姿に、見ているこちらも勇気をもらえそうです。
09. 嵐山・宝厳院周辺のスポット・アクセス詳細
「嵐山」駅から徒歩約5分
嵯峨野線「嵯峨嵐山」駅から徒歩約10〜15分
「嵐山」駅から徒歩約15分
名神「京都南IC」から約13km。天龍寺駐車場(有料・約100台)※旅行サイト(たびこふれ)の情報
所要時間の目安:庭をひとまわりして30〜40分ほど。本堂の襖絵も見るなら、もう少し時間をとりましょう。紅葉の時期は混みあうので、朝いちばんがおすすめです。
近くの寺社:すぐとなりは天龍寺。共通券のある弘源寺も近くです。北へ歩けば、常寂光寺・二尊院・祇王寺など、嵯峨野の紅葉の寺が続きます。
グルメ:嵐山は湯豆腐の店が多いことで知られます。天龍寺の境内には、精進料理の店「篩月(しげつ)」もあります。営業日や予約は事前に確認してください。
10. 宝厳院のまとめと関連記事
この記事でわかったこと
- 宝厳院は天龍寺の塔頭で、本尊は十一面観音。春と秋の特別拝観のときだけ参拝できる
- 「獅子吼の庭」は、2度明へ渡った策彦周良が、もとは妙智院の庭として作ったとされる
- 寺も庭も居場所を失いながら、2002年にこの地でひとつになった
鳥の声と風の音が「説法」になる庭。紅葉が嵐山を染めるころ、ぜひ宝厳院にお参りしてみてください。
11. ゆる仏様トーク ― 宝厳院編
🍵 ゆる仏様トーク①(たとえ話)
宝厳院は、今でいえば「春と秋しか開かない、予約のいらない人気レストラン」です。メニューは季節の庭だけ。でも、その一皿のために全国から人が集まります。
🍵 ゆる仏様トーク②(ツッコミ)
海賊に襲われ、入国を断られ、それでも北京まで行って帰ってきた策彦周良。その人が最後に選んだのは、静かな寺で庭と向きあう暮らしでした。──そう、仏様の道もまっすぐではなかったのです。荒海をこえた人だからこそ、静かな庭の音が聞こえたのかもしれません。
🍵 ゆる仏様トーク③(ひとこと)
本尊の十一面観音が、庭を歩く人にかけるとしたら――
※経典の言葉ではなく、「獅子吼の庭」の意味をもとにイメージしたセリフです。
12. 宝厳院の謎 ― 寺は何度も燃えたのに、なぜ庭だけが名園として残ったのか
【謎】
宝厳院の「獅子吼の庭」は、もとは妙智院という別の寺の庭でした。その妙智院は焼け、土地は別荘になり、2002年には宝厳院が移ってきました。持ち主は何度も替わり、建物は燃えました。それなのに、庭は江戸時代の名所案内の本に紹介され、今も名庭として人を集めています。なぜ庭だけが生き残り、「獅子吼(仏の説法)」の名をもち続けているのでしょうか。
【事実の整理】
① 宝厳院は、寺伝では1461年に今の上京区で創建されました。応仁の乱で焼け、天正年間(1573〜1591年)に再興。明治時代には河川工事で寺の土地が買い上げられ、塔頭の弘源寺の中に移りました(Wikipedia「宝厳院」)。
② 2002年、宝厳院は今の土地を買って移りました。ここは妙智院の跡地です。妙智院は1864年の禁門の変で焼け、大正時代には実業家の別荘になっていました(同)。
③ 庭は、策彦周良が妙智院の庭として作ったとされます。江戸時代の名所案内にも載りました(同)。
④ 大正時代、この土地は日本郵船の重役・林民雄の別荘になり、1919年に書院が建てられました。寺でなかった時代にも、庭のある土地として使われていたことになります(Wikipedia「宝厳院」)。
⑤ 公式サイトは、「獅子吼」は仏が説法することだと説明します。そして、庭を歩いて鳥の声や風の音を聴くことで、人生の真理を感じるとしています。
⑥ 公式サイトは、この庭が天龍寺の曹源池(そうげんち)庭園と同じく、「龍門瀑」の表現を受け継いでいると説明します。庭には、岩から生える「破岩の松」もあります(Wikipedia「宝厳院」)。
⑦ 中国・宋の詩人蘇軾(そしょく=蘇東坡)に、「渓声便是広長舌(こうちょうぜつ=仏の説法のたとえ)、山色豈非清浄身(しょうじょうしん)」という詩句があります。意味は「谷川の音は仏の説法、山の色は仏の清らかな体」です。「尽是」「無非」と書く異文もあります。禅の世界で広く知られ、道元の『正法眼蔵』にも「渓声山色(けいせいさんしょく)」という巻があります。
【私の考察】
私が注目したのは、①②④です。宝厳院も妙智院も、一度は「居場所」を失っています。そして④のように、この土地は寺でない時代さえありました。
寺の建物は、戦や火事で何度も燃えました。でも、庭は燃えにくいものです。岩は焼けても岩のまま。嵐山の借景は、どんな火事でも消えません。妙智院がなくなったあとも、③の庭の骨組みは、この土地に残りつづけたのではないでしょうか。別荘の主が庭のある土地を選んだのも、その骨組みがあったからかもしれません。
⑥も、その考えを支えます。龍門瀑の石組みは、本山の天龍寺の庭から受け継がれた形です。そして破岩の松は、岩に根を張って生きる木です。この庭の「骨組み」は、建物ではなく石と木でした。寺の名前が変わっても、石組みの系統は天龍寺の庭とつながったまま残ったのではないでしょうか。
そして⑤と⑦。「獅子吼」の説法をするのは、お坊さんではなく、庭そのものだと考えると、謎がとけてきます。鳥の声、風の音、山の色。それらが仏の説法になるなら、説法の主は、寺の持ち主が変わってもいなくなりません。だからこそ、主を失った庭は、住む場所を失った宝厳院を迎え入れても、同じ「獅子吼の庭」でいられたのだと思います。
【結論(あくまで推測)】
寺が燃えても庭だけが名園として残ったのは、この庭の骨組みが建物ではなく、石と木と借景だったからではないでしょうか。そして「説法」をするのも、お坊さんではなく庭そのものでした。岩と山と風の音は、持ち主が替わっても語りつづけます。居場所を失った寺と、主を失った庭は、その声のもとでひとつになったのだと考えます。ただし、今の庭のどこまでが策彦周良のころの姿なのかは、はっきりしていません。あくまで私の考察です。あなたはどう思いますか?

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