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京都・東山の泉涌寺(せんにゅうじ)の山内の、いちばん奥。天皇が開き、天皇が始めた写経を600年以上受けついできた小さなお寺があります。雲龍院(うんりゅういん)です。
この記事でわかること
- 1389年に始まった写経の伝統と、朱色の墨でなぞる写経体験のしかた
- 国の重要文化財の本堂「龍華殿(りゅうげでん)」と、台所の「走り大黒天」
- 【謎】三種の神器なしで即位した天皇が、なぜこの寺を開いたのか
筆を持てば、600年以上前に始まった祈りの続きに、あなたも加わります。
01. 雲龍院の基本情報
| 寺号(読み方) | 雲龍院(うんりゅういん) |
|---|---|
| 山号 | 瑠璃山(るりさん)(Wikipedia) |
| 宗派 | 真言宗泉涌寺派(せんにゅうじは) |
| 寺格 | 別格本山(べっかくほんざん=本山に次ぐ特別な格の寺)。総本山泉涌寺の別院 |
| ご本尊 | 薬師如来(やくしにょらい)と、日光菩薩・月光菩薩の薬師三尊 |
| 開基・開山 | 開基は北朝の後光厳天皇(ごこうごんてんのう)。開山は竹巌聖皐(ちくがんじょうこう)上人(公式サイトの表記は「竹厳」)。開基は寺を建てた願主、開山は最初の住職のことです |
| 創建 | 応安5年(1372年) |
| 札所 | 西国薬師霊場 第40番、泉山七福神 第5番(大黒天) |
| 所在地 | 京都府京都市東山区泉涌寺山内町36(泉涌寺の山内のいちばん奥) |
| アクセス | JR・京阪「東福寺」駅から徒歩約20分。市バス「泉涌寺道」から徒歩約15分 |
| 拝観時間 | 9:00〜17:00(受付は16:30まで) |
| 拝観料 | 400円(本山泉涌寺の拝観料とは別) |
| 拝観休止日 | 毎週水曜日(11月をのぞく)。ほかに成人の日・2月18日・4月27日・6月27日・9月の中秋のころ・12月23日など |
| 駐車場 | 泉涌寺の駐車場(無料・台数に限りあり) |
| 公式サイト | 雲龍院 公式サイト/電話 075-541-3916 |
・宗派・寺格・本尊・開基・開山・創建・札所(西国薬師40番)・拝観時間・拝観料・休止日・駐車場・アクセス:公式サイト「雲龍院ご案内」「参拝ご案内」(2026年10月確認)
・山号・泉山七福神:Wikipedia「雲龍院」
・東福寺駅からの時間は、公式の「駅から泉涌寺道まで約5分、そこから約15分」をもとにした目安です
02. 雲龍院のご本尊 ― 薬師三尊
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① 一言まとめ
本尊は、病気を治す仏様として知られる薬師如来です。両脇に日光菩薩・月光菩薩がひかえる「薬師三尊」の形です。仏様のくわしい話は、薬師如来の記事にまとめています。
② 由来・経典での位置づけ
薬師如来は、『薬師経』(やくしきょう)に説かれる仏様です。東の方にある「浄瑠璃世界(じょうるりせかい)」の主で、人々の病や苦しみを除く12の誓いを立てたとされます。
雲龍院の山号「瑠璃山」も、この浄瑠璃世界の「瑠璃」と同じ字です(字が同じというのは筆者の気づきで、寺の説明ではありません)。
公式サイトによると、本尊の薬師如来坐像は藤原時代(平安時代後期)の作です。Wikipediaは薬師三尊像を鎌倉時代としており、時代は資料によってちがいます(諸説あり)。
③ 姿・持ち物と本堂
薬師如来は、左手に薬の壺(薬壺〈やっこ〉)を持つ姿で表されることが多い仏様です。日光菩薩は太陽、月光菩薩は月の光で、昼も夜も人々を照らすとされます。
本尊がまつられる本堂は「龍華殿」です。康応元年(1389年)に後円融天皇(ごえんゆうてんのう)が建てたのが始まりです。今の建物は、1502年に後柏原天皇から下賜されたもの(公式サイト)とも、寛永年間の再建(Wikipedia)ともいわれます(諸説あり)。国の重要文化財です。
03. 雲龍院のご利益 ― 病気平癒と写経
公式サイトには、ご利益をまとめた説明はありません。上の4つは、本尊と寺の行いから選んだ筆者のおすすめです。
こんな人におすすめ:家族の健康を願う人。静かな場所で、心を落ち着けたい人。紅葉の時期に、混み合う名所をさけたい人。
参拝に適した時期:紅葉は例年11月下旬ごろが見ごろとされます(旅行サイト)。11月は水曜日も拝観できます(公式サイト)。
04. 雲龍院 境内の見どころガイド(龍華殿と悟りの窓)
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龍華殿(りゅうげでん)=本堂
1389年に後円融天皇が建てたのが始まりです。今の建物について、公式サイトの写経ページは1502年に後柏原天皇から下賜(かし=天皇から与えられること)されたものとしています。Wikipediaは寛永年間(1624〜1644年)の再建としており、資料によってちがいます(諸説あり)。昭和41年に重要文化財に指定されました。屋根は、さわらの薄い板を竹の釘で打ちつけた「こけら葺き」です(公式サイト)。
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霊明殿(れいめいでん)
歴代の天皇の位牌(いはい)にあたる「御尊牌(ごそんぱい)」をまつる、皇室の位牌堂です。今の建物は明治のはじめに建て直されました(公式サイト。Wikipediaは1869年)。
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書院と「悟りの窓」
書院には丸い「悟りの窓」があり、公式サイトは「訪れるたびに景色が変わる窓」と紹介しています。旅行サイトでは、四角い「迷いの窓」もあると紹介されています。2つの窓で知られる源光庵のほか、明月院にも悟りの窓があります。
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蓮華の間(れんげのま)
雪見障子(ゆきみしょうじ=下半分がガラスの障子)ごしに、椿・灯籠・紅葉・松の4つの景色が、横にならんで見える部屋として紹介されています(旅行サイト)。
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枯山水の庭
書院の前に広がる、水を使わない庭です。庭石のうち2つは、方広寺(ほうこうじ)の大仏殿の礎石(そせき=柱の土台の石)と伝わります(Wikipedia)。
雲龍院の写経体験(料金・時間・流れ)
写経では、薄く書かれた『般若心経』を、朱色の墨で上からなぞります。最後に願いと住所・名前を書き入れます(公式サイト)。
| 御朱印・写経 | 内容 |
|---|---|
| 写経 | 受付 10:00〜15:00。1人2,000円(拝観料・お抹茶込み)。所要約1時間30分。予約は不要(大人数は事前に予約) |
| 御朱印 | 公式サイトに記載なし。受付で確かめてください |
05. 雲龍院の寺宝・秘宝ハイライト
600年以上受けつがれる写経
公式サイトによると、1389年に後円融天皇が龍華殿を建て、如法写経(にょほうしゃきょう=決まった作法で身を清めて行う写経)を始めました。その勤めは、雲龍院に受けつがれているといいます。今の写経体験では、代々の習わしの朱色の墨で『般若心経』をなぞります(公式サイト)。寛永19年(1642年)には、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)から写経会のための仏具百点あまりが寄付されました(公式サイト)。
走り大黒天
台所(庫裏〈くり〉)にまつられる大黒天の像です。公式サイトは鎌倉時代、Wikipediaは室町時代の作としています(諸説あり)。米俵の上に立つ姿が多い大黒天ですが、ここの像は大きな袋を背負い、わらじをはいた姿です(公式サイト)。左足を一歩ふみ出した姿から「走り大黒」と呼ばれる、と旅行サイトで紹介されています。
06. 雲龍院の参拝の作法
お寺の基本の作法は、お寺の参拝作法の記事でくわしく紹介しています。雲龍院では、次の順番でお参りしましょう。
- 山門の前で軽く一礼します
- 受付で拝観料(400円)を納めます。写経をする人は、ここで申し込みます
- 龍華殿の薬師如来の前で、手を合わせて一礼します
- 霊明殿の前では、静かに一礼します
- 書院で悟りの窓と庭をながめ、最後に一礼して退出します
子どもへの説明:「ここは、むかしの天皇が、お経を書き写したお寺なんだよ。赤い墨で、なぞって書いてみようね」
07. 雲龍院の物語 ― 焼けても消えなかった写経
1372年に泉涌寺の奥に開かれた雲龍院。公式サイトによると、後光厳天皇と後円融天皇はたびたびこの寺を訪れ、開山の竹巌聖皐上人から教えを聞き、戒(かい=仏の教えを守る約束)を受けたといいます。1389年には本堂の龍華殿が建ち、身を清めて決まった作法で行う「如法写経」が始まりました(公式サイト)。
ところが1405年、盂蘭盆会(うらぼんえ)の夜に、お堂が焼けてしまいます。さらに応仁の乱のさなかの1470年には、寺のすべてが焼け野原になりました(公式サイト・Wikipedia)。
それでも、寺は何度も立ち上がります。1428年ごろには再建され、応仁の乱のあとも1482年ごろには復興したとみられます(Wikipedia)。
江戸時代のはじめ、後水尾天皇の支えで写経の道場が建て直されました。1642年には、写経会のための仏具が百点あまりも寄付されています(公式サイト・Wikipedia)。
──そう、戦火で建物が焼けても、写経という「行い」だけは消えなかったのです。写経の勤めは雲龍院に受けつがれ、今は訪れた人も、朱色の墨で般若心経をなぞることができます。
08. 雲龍院に伝わる伝説・言い伝え
【言い伝え】台所を走る大黒様
雲龍院の大黒天は、お堂ではなく台所にいます。大黒天は、お寺の台所を守り、食べ物にこまらないようにしてくれる神様とされてきました。一歩ふみ出した姿は、「福を運んで走ってくる」ようにも見えます(姿は旅行サイト、意味づけは筆者の見方)。
09. 雲龍院周辺のスポット・アクセス詳細
「東福寺」駅から泉涌寺道交差点まで約5分、そこから約15分
京都駅前から208系統、近鉄東寺駅の近くから207系統で「泉涌寺道」、徒歩約15分
名神高速のICから泉涌寺道へ(公式サイトに道順あり)。泉涌寺の駐車場(無料)
拝観だけなら約40分(筆者の目安)、写経もするなら約1時間30分(公式)
グルメ・休憩:写経にはお抹茶がつきます(公式サイト)。食事は、泉涌寺道のある東大路通や、東福寺駅のまわりの店を利用すると便利です(店は事前に確かめてください)。
近くの寺社:本山の泉涌寺、頭痛封じの今熊野観音寺は同じ山内です。紅葉の名所東福寺へも歩いて行けます。
10. 雲龍院のまとめと関連記事
この記事でわかったこと
- 雲龍院は、1372年に北朝の後光厳天皇の願いで開かれた、泉涌寺の別院
- 1389年に後円融天皇が始めた写経の伝統が受けつがれ、今は朱色の墨でなぞる写経を体験できる
- 重要文化財の龍華殿、台所の走り大黒天、悟りの窓など見どころが多い
紅葉が色づく11月、ぜひ雲龍院で筆を持ってみてください。
11. ゆる仏様トーク ― 雲龍院編
🍵 ゆる仏様トーク①(たとえ話)
雲龍院の写経は、今でいえば「600年続く、なぞり書きドリル」です。しかも、最初にこのドリルを始めたのは天皇。赤ペンでなぞるのは小学生の宿題のようですが、ここでは一字一字が祈りになります。
🍵 ゆる仏様トーク②(ツッコミ)
天皇の寺なのに、大黒様の居場所は台所。しかも、一歩ふみ出して今にも走り出しそう。──そう、福の神は、いちばん人の暮らしに近い場所で働いているのです。
🍵 ゆる仏様トーク③(ひとこと)
本尊の薬師如来が、写経の途中で字をまちがえて落ちこむ人に声をかけるとしたら――
※経典の言葉ではなく、病や苦しみを除く薬師如来の誓いと、この寺の写経をもとにイメージしたセリフです。
12. 雲龍院の謎 ― 三種の神器なしで即位した天皇は、なぜこの寺を開いたのか
【謎】
雲龍院を開いた後光厳天皇は、天皇のしるしである三種の神器(さんしゅのじんぎ)がないまま位についた天皇でした。その天皇と子孫たちは、なぜ泉涌寺の奥に寺を開き、写経を続けたのでしょうか。
【事実の整理】
① 南北朝時代、北朝の主な皇族が南朝に連れ去られました。そのため後光厳天皇は、三種の神器がないまま、急いで位につきました。上皇から位をゆずる言葉(詔宣〈しょうせん〉)も出なかったとする説があります。一方で、広義門院(こうぎもんいん)の院宣(いんぜん=上皇などの命令書)で位についたとする説もあります(諸説あり)。
位をゆずる手続きがない即位の先例として、古代の継体天皇の例が持ち出されました。また、神鏡を納めていた唐櫃(からびつ)が、神鏡のかわりとされました(Wikipedia「後光厳天皇」)。
② 1372年、後光厳天皇の願いで雲龍院が開かれました(公式サイト)。
③ 1389年、子の後円融天皇が龍華殿を建て、如法写経を始めました(公式サイト)。
④ 神器が北朝の天皇のもとに入るのは、1392年の南北朝の合一(明徳の和約〈めいとくのわやく〉)で、孫の後小松天皇の代です(Wikipedia)。
⑤ 後光厳天皇・後円融天皇・後小松天皇・称光天皇の4人が雲龍院をあつく敬い、後ろの山に4人の分骨所が営まれたとされます(公式サイト・Wikipedia)。
【私の考察】
私が注目したのは、①と③の順番です。神器なしで位についた天皇が寺を開き、その子が「写経」を始めた。そして神器が北朝にもどったのは、孫の代でした。
三種の神器は、目に見える「天皇のしるし」です。それを持てなかった北朝の天皇たちは、別の形で「自分たちが受けついでいるもの」を示したかったのではないでしょうか。それが、仏の教えを一字ずつ書き写す写経という「行い」でした。後円融天皇が始めた写経は寺に受けつがれ、4代の天皇がこの寺を敬いました。
⑤のとおり、4代の天皇がこの寺を敬い、同じ山に分骨所が営まれたとされます。雲龍院は、神器のかわりに「行い」と「祈り」で一つの家の流れをつないだ場所だったのかもしれません。
【結論(あくまで推測)】
後光厳天皇が雲龍院を開き、子の後円融天皇が写経を始めたのは、神器という「物のしるし」を持てない中で、写経という「行いのしるし」を寺に残し、受けついでいくためだったのではないか――私はそう考えます。ただし、天皇たちがそう考えて寺を開いたと書いた資料は、確認できていません。あくまで私の考察です。あなたはどう思いますか?

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