この記事でわかること
- 達磨大師の伝記と、梁(りょう)の武帝との問答
- だるまのご利益とゆかりのお寺
- 【謎】だるまの目入れの意味と、白い目で売られる理由
あの白い目には、修行の話がかくれているかもしれません。
01. 達磨大師の基本情報
| 分類 | 祖師(そし=宗派を開いたり伝えたりした高僧)。中国の禅宗の初祖 |
| 読み方 | だるま。正式には菩提達磨(ぼだいだるま) |
| 別名 | 達磨大師、達磨祖師。唐より前の書物では「達摩」とも書きます |
| おくり名 | 円覚大師(えんがくだいし)。聖冑大師(しょうちゅうだいし)とも |
| 梵名(ぼんみょう) | ボーディダルマ(bodhidharma)。「ダルマ」はサンスクリット語で「法(ほう=教え)」の意味です |
| 真言・種子字 | 決まったものは確認できませんでした |
| ご縁日 | 10月5日(達磨忌〈だるまき〉=命日とされる日)。少林山達磨寺では、誕生日と命日が同じという伝説にちなむ縁日です。11月1日に達磨忌を行うお寺(法輪寺など)もあります |
02. 達磨大師とは? ― 壁に向かって9年坐った禅の祖
① 一言まとめ
達磨大師は、インドから中国へ禅を伝えたとされるお坊さんです。中国の禅宗では「初祖(しょそ=最初の祖師)」とされます。日本の臨済宗・曹洞宗・黄檗宗も、この流れをくんでいます。
② 由来・伝記
伝承では、達磨は南インドの香至国(こうしこく)の王の第三王子でした。師の般若多羅(はんにゃたら)のもとで修行したと、宋の『景徳伝灯録(けいとくでんとうろく)』は伝えます。ただし、この王子の話が本当かどうかは疑われています。
伝承では、達磨は520年(普通元年)に海を渡って中国の広州に着いたとされます(524年・527年とする資料もあり、諸説あり)。梁の武帝(ぶてい)と問答をしたあと、北の魏(ぎ)の国へ移ります(くわしくは07の物語へ)。
そして嵩山少林寺(すうざんしょうりんじ)で、壁に向かって9年間坐禅したと伝わります。これが「面壁九年」です。ただし、教えの「壁観(へきかん)」を誤解して生まれた伝説だ、という説もあります。
達磨は528年に150歳で亡くなったといわれます。一方で、529年には神光(しんこう)という僧が、自分のひじを切って弟子入りを願ったと伝わります。のちの慧可(えか)で、禅宗の第二祖です。この2つの年では、入門より前に亡くなったことになります。伝記の年代には食い違いがあり、没年にも諸説あります。
実は、いちばん古い記録は、547年の『洛陽伽藍記(らくようがらんき)』です。そこでは、達磨は波斯国(はしこく=ペルシア)の人で、「自分は150歳だ」と語ったと書かれています。伝記の多くは、後の時代に形づくられたものと考えられています。
③ 姿・持物・印相の特徴
- 顔:大きな鼻、太い眉、ちぢれた髪とひげ、大きな耳飾りの姿で描かれます
- 目:まぶたのない、大きく見開いた目で描かれることが多いです。まぶたを切り取った伝説(10の謎を参照)と結びついています
- 姿の種類:壁に向かう「面壁達磨」、葦(あし)の葉に乗って川を渡る「蘆葉達磨(ろようだるま)」、片方のくつを持つ「隻履達磨(せきりだるま)」、筆ひと筆で描く「一筆達磨」などがあります
- 印相・光背・台座:達磨は人間の僧として表されるので、仏や菩薩のような決まった印相(いんぞう=手の形)や光背はありません。坐禅の姿では、衣の中で手を組むことが多いです
03. 達磨大師・だるまのご利益
🏠 家内安全
💰 商売繁盛
🏆 必勝祈願
🛡️ 病気よけ
- 願いごと成就:だるまに片目を入れて願いをかけ、かなったらもう片方の目を入れます
- 家内安全・商売繁盛:少林山達磨寺の縁起だるまには、顔の両側に「家内安全」「商売繁盛」などの願いが書かれます(公式)
- 必勝祈願:少林山達磨寺では、達磨忌にちなんで毎月5日に「金の必勝守(ひっしょうまもり)」を授けています(公式)
- 病気よけ:赤くて足のないだるまは、江戸時代に疱瘡(ほうそう=天然痘)よけのお守りとしても使われました(JAANUS)
ご利益の根拠:9年も壁に向かって坐りつづけた、という面壁九年の伝説が土台です。あきらめずにやりぬく姿が、願いをかなえる縁起物と結びついた、というのが筆者の見方です。
こんな人におすすめ:受験や試合など、目標に向かってがんばっている人。新しい年に願いを立てたい人。お店や会社を開いた人。
04. 達磨大師と関係の深い人物・仏様
達磨大師には、仏様のような眷属(けんぞく=おとも)はいません。かわりに、伝記に出てくる人物を紹介します。神仏習合で対応づけられた日本の神様は、確認できませんでした。
05. 達磨大師をまつる主要な寺院・会える場所
- 少林山達磨寺(群馬県高崎市):黄檗宗のお寺で、縁起だるま発祥の寺とされます。天明3年(1783年)、浅間山の噴火などで大飢饉が起こりました。9代目住職の東嶽(とうがく)和尚は、農民を救うためにだるま作りを伝えました(公式)。毎年1月6〜7日の「七草大祭だるま市」、10月5日の「達磨まつり」で知られます
- 達磨寺(奈良県北葛城郡王寺町):聖徳太子と片岡山の飢人の伝説が伝わるお寺です。くわしくは達磨寺の記事へ
- 法輪寺(だるま寺。京都市上京区):臨済宗妙心寺派のお寺です。達磨堂に、たくさんのだるまが納められています。数は8,000体以上とも1万体以上ともいわれます(資料により異なる)。2月の節分会と11月1日の達磨忌は、多くの参拝者でにぎわうとされます。境内は自由に入れ、衆聖堂(しゅしょうどう)などの拝観は300円です。時間は9時〜17時(受付16時30分まで)とされます(るるぶ・ことりっぷ)
- 斉年寺(さいねんじ。愛知県常滑市):国宝「慧可断臂図(えかだんぴず)」(1496年)を持ちます。雪舟(せっしゅう)が77歳で描きました。面壁する達磨と、教えを求める慧可の場面です(文化遺産オンライン)
- 嵩山少林寺(中国・河南省):達磨が面壁九年をしたと伝わる、禅の聖地です
06. 達磨大師の見分け方ガイド
✅ この特徴があれば達磨大師かも?チェックリスト
- □ 大きく見開いた目、太い眉、ひげのある、外国の人のような顔
- □ 大きな耳飾りをつけている
- □ 衣にすっぽり包まれて、坐禅をしている
- □ 壁や岩に向かって坐っている(面壁達磨)
- □ 葦の葉の上に立っている、または片方のくつを持っている
似た姿とのちがい
07. 達磨大師の物語 ― 梁の武帝との問答
中国に着いた達磨は、梁の武帝に招かれました。武帝は、たくさんのお寺を建て、お経を書き写させた、仏教に熱心な皇帝でした。
武帝はたずねます。「わたしはこれだけ寺を建てた。どんな功徳(くどく=よい報い)があるだろうか」。
達磨は答えました。「功徳など、ありません」。
おどろいた武帝は、また問います。「では、仏の教えでいちばん大切なことは何か」。達磨は「からりとして、聖なるものなど何もない(廓然無聖〈かくねんむしょう〉)」と答えます。
武帝は最後にたずねました。「では、わたしの前にいるあなたは、いったい誰なのだ」。達磨のこたえは、ひとこと。「知らぬ(不識〈ふしき〉)」。
武帝には、その意味がわかりませんでした。達磨は、この国ではまだ縁が熟していないと見て、長江を渡って北の魏へ去ったといいます。あとで武帝は呼び戻そうとしましたが、かないませんでした。
──そう、皇帝の自慢話に、達磨は一度もうなずかなかったのです。
【伝説】片方のくつ ― 隻履西帰(せきりせいき)
達磨が亡くなって3年ほどたったころ。西域(せいいき)から帰る途中の宋雲(そううん)という使者が、葱嶺(そうれい=パミール高原)で達磨に出会いました。達磨は、くつを片方だけ手に持っていました。「どこへ行かれるのですか」とたずねると、「インドへ帰る」と答えたといいます。
宋雲が帰って墓を開けてみると、棺の中には、片方のくつだけが残っていました(Wikipedia)。この話から、片方のくつを持つ「隻履達磨」の絵が生まれました。
08. 達磨大師のまとめと関連記事
この記事でわかったこと
- 達磨大師は、インドから中国へ禅を伝えたとされる禅宗の初祖。面壁九年で知られる
- 梁の武帝に「功徳など、ありません」と答えた問答が有名。伝記の多くは後の時代に形づくられた
- 日本では、群馬の少林山達磨寺から広まった縁起だるまのモデルになった
だるまに目を入れるとき、壁に向かって坐る達磨大師の姿を思い出してみてください。
09. ゆる仏様トーク ― 達磨大師編
達磨大師は、今でいえば「『わたしはこんなに寄付をした。えらいだろう?』と聞く社長に、『えらくはありません』と答えた新入社員」です。ふつうなら大ピンチ。でもその答えが、1500年たっても語りつがれる「伝説の問答」になりました。
9年間坐りつづけて、眠くなったらまぶたを切る。そんな厳しすぎる修行の人が、なぜか日本では赤くて丸い、ころんと起き上がる人形に。──そう、きびしさの果てに待っていたのは、まさかの「みんなに愛される縁起物」の道だったのです。
達磨大師が、だるまに目を入れる人に声をかけるとしたら――
※経典や語録の言葉ではなく、目入れの習わしをもとにイメージしたセリフです。


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