この記事でわかること
- 法然とはだれか。80年の生涯と、43歳で出会った一文
- 9歳で父を失ったとき、父がのこしたと伝わる言葉
- 【謎】法然はなぜ「勢至菩薩の化身(けしん。生まれかわり)」とされたのか
いちばん学んだ人が、いちばんやさしい道を選んだ。そのわけを、たどってみましょう。
01. 法然(法然上人)の基本情報
| 分類 | 祖師(そし)。平安末〜鎌倉時代の僧、浄土宗の開祖 |
| 読み方 | ほうねん |
| 名前 | 法然は房号(ぼうごう。呼び名)で、正式な名は源空(げんくう)。幼名は勢至丸(せいしまる) |
| 別名 | 法然上人(ほうねんしょうにん)・黒谷上人(くろだにしょうにん)・吉水上人(よしみずしょうにん)・円光大師(えんこうだいし)など |
| 梵名(ぼんみょう) | なし(日本の僧のため) |
| 生没年 | 1133年(長承2年)〜1212年(建暦2年)1月25日。数え年80歳 |
| 生まれ | 美作国久米(みまさかのくにくめ。今の岡山県久米南町)。生まれた地とされる場所に誕生寺があります |
| おもな著作 | 『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』・『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』 |
| 弟子 | 親鸞(しんらん)・源智(げんち)・信空(しんくう)など |
| 真言 | なし(浄土宗では「南無阿弥陀仏」の念仏をとなえます) |
| 種子字 | 決まったものは確認できませんでした |
| ご縁日(命日) | 1月25日。知恩院では毎年4月18日〜25日ごろに「御忌大会(ぎょきだいえ)」が営まれます(年により変わるため、知恩院公式サイトで確かめてください) |
02. 法然上人とは? ― 浄土宗の開祖、80年の生涯と一枚起請文
① 一言まとめ
法然は、「阿弥陀如来の名をとなえれば、だれでも極楽に生まれる」と説いた人です。むずかしい修行ができない人にも、救いの道をひらきました。
② 由来・生涯
法然は1133年、美作国久米に生まれました。父は漆間時国(うるまのときくに)という地方の役人です。9歳のとき(1141年)、父は夜討ちにあって亡くなりました(07でくわしく)。
1145年(1147年とも)、少年は比叡山に登り、源光に学びます。1147年には、皇円(こうえん)のもとで得度(とくど。正式に出家すること)しました。1150年、18歳で黒谷(くろだに)の叡空(えいくう)の弟子になりました。このとき「法然房源空」という名をもらいます。「源空」は、それまでの師の源光(げんこう)と叡空から一字ずつとった名です(Wikipedia)。
法然は、仏教の経典をくり返し読みました。それでも「自分はどうすれば救われるのか」の答えが見つかりません。
1175年、43歳の法然は、中国の善導が書いた『観経疏(かんぎょうしょ)』散善義(さんぜんぎ)の一文に出会います。
(いつでもどこでも、ひたすら阿弥陀仏の名をとなえつづける。それこそが、仏の願いにかなう正しい行いである。)
(コトバンク「法然」〈世界大百科事典〉の書き下し)
法然はこの一文で、念仏ひとすじの道を決めました。1175年のこの回心が、浄土宗のはじまり(立教開宗〈りっきょうかいしゅう〉)とされます。
比叡山をおりた法然は、白河(今の金戒光明寺の地と伝わる)や西山の広谷(ひろたに)をへました。そして、東山の吉水(よしみず)に草庵(そうあん。小さな庵)をむすびます(順番は伝記により諸説あり)。
1186年には、大原の勝林院で、ほかの宗派の学僧と一昼夜の問答をしました(大原問答)。1198年、関白だった九条兼実(くじょうかねざね)のたのみで、『選択本願念仏集』を書いています。
でも、念仏が広まると、反発も強くなります。1207年、念仏が禁じられ(承元の法難〈じょうげんのほうなん〉)、法然は「藤井元彦(ふじいもとひこ)」という俗人の名で讃岐(さぬき。今の香川県)へ流されました。弟子の親鸞も、このとき越後へ流されています。
1211年、京都にもどった法然は、東山大谷の禅房(ぜんぼう。僧の住まい)に入りました。そして1212年1月23日、弟子の源智のたのみで『一枚起請文』を書きます。その2日後の1月25日、80歳(数え年)で亡くなりました(Wikipedia)。
③ 姿の特徴
- お寺での姿:知恩院の御影堂(みえいどう)に、法然の御影(みえい。像)がまつられます
- えがかれ方:墨染めの衣を着た、おだやかな僧の姿でえがかれることが多いとされます。決まった持ち物は確認できませんでした
- 勢至菩薩の姿で:知恩院の勢至堂には、法然の本地(ほんじ。もとの仏の姿)として造られたと考えられる勢至菩薩坐像(重要文化財・鎌倉時代)が伝わります(文化遺産オンライン。10でくわしく)
- 御影の種類:二尊院の「足曳御影」のように、名前のついた法然の肖像画がいくつも伝わります
03. 法然上人のご利益 ― 極楽往生・心のおだやかさ・ゆるし
📿 念仏で心をととのえる
🕊️ うらみを手ばなす
💡 学びと智慧
- 極楽往生:阿弥陀如来の名をとなえる者は、みな極楽に生まれると説きました
- 念仏で心をととのえる:いつでもどこでも、となえるだけの念仏を広めました
- うらみを手ばなす:父の遺言で仇討ちをしなかった、と伝わります(07)
- 学びと智慧:智慧の菩薩・勢至菩薩の化身とされました(10)
ご利益の根拠:法然に決まったご利益があると書いた資料は、確認できませんでした。ここでは、その生涯と伝承から紹介しています(筆者の見方)。
こんな人におすすめ:だれかへのうらみや、くやしさを手ばなしたい人。むずかしいことより、毎日できる小さな祈りを大切にしたい人です。
04. 法然と関係の深い仏様・人物 ― 阿弥陀如来・善導・親鸞
05. 法然上人に出会える寺 ― 知恩院・誕生寺・大原
- 知恩院(京都市東山区):浄土宗の総本山です。法然が晩年をすごし、亡くなった大谷禅房の地とされます。勢至堂は、その禅房の跡に立つ知恩院でいちばん古い建物です(1530年の再建)。御忌大会は毎年4月18日〜25日ごろ。くわしくは知恩院の記事へ
- 誕生寺(岡山県久米南町):法然が生まれた地とされる寺です。9歳の夜の物語(07)がはじまった場所でもあります。拝観の情報は、お寺に確かめてください
- 勝林院(京都市左京区大原):1186年の大原問答の舞台です。法然が一昼夜、念仏の教えを語った本堂をたずねてみてください。近くの三千院の記事もあわせてどうぞ
- 金戒光明寺(京都市左京区):「くろ谷さん」とよばれる寺です。寺伝では、比叡山をおりた法然がはじめて草庵をむすんだ地とされます(02)
- 二尊院(京都市右京区嵯峨):法然の廟(びょう)がある寺です。法然の肖像画「足曳御影(あしびきのみえい)」が伝わります。くわしくは二尊院の記事へ
- 光明寺(京都府長岡京市):法然の遺骸(いがい)を荼毘(だび。火葬)にした地と伝わる寺です
06. 法然上人の見分け方ガイド
✅ これがあれば法然上人かも?チェックリスト
まちがえやすい人とのちがい
07. 法然の物語 ― 9歳の夜と、父の遺言
美作国の久米。勢至丸とよばれた少年は、9歳でした。
1141年のある夜、家が襲われます。父の漆間時国は、明石定明(あかしのさだあきら。貞明とも書く)という武士の夜討ちにあい、深い傷を負いました(Wikipedia)。
息をひきとる前、父は勢至丸にこう言い残したと伝わります。
(伝承の内容を、筆者がやさしく言いかえたものです)
勢至丸は、仇討ちをあきらめました。そして叔父のいる寺に入り、のちに比叡山へ送られます。
うらみの連鎖を、自分で断ちきる。その道を探しつづけた少年は、34年後、だれでもとなえられる念仏にたどりつきました。
──そう、念仏の道のはじまりは、9歳の少年が「うらまない」と決めた夜だったのかもしれません。
08. 法然のまとめと関連記事
この記事でわかったこと
- 法然は、善導の一文に出会って念仏ひとすじの道を選んだ、浄土宗の開祖
- 9歳で父を失い、仇討ちをしなかったと伝わる。流罪にもあいながら、80歳まで念仏を説いた
- 幼名は勢至丸。智慧の菩薩・勢至菩薩の化身とされた
知恩院の勢至堂の前に立ったら、そこが法然の最期の地だったことを思い出してみてください。
09. ゆる仏様トーク ― 法然上人編
法然は、今でいえば「図書館の本をぜんぶ読んだ人が、最後に『この一行でいい』と教えてくれた」ような人です。たくさん学んだ人の「これだけでいい」には、重みがあります。
亡くなってから800年以上。大師号は50年ごとに増えて、今は8つ。名刺をつくったら、肩書きだけで裏までいっぱいです。──そう、50年ごとに名前がおくられるのは、それだけ長く慕われてきたしるしなのです。
法然が、だれかをゆるせずに苦しんでいる人に声をかけるとしたら――
※法然の言葉そのものではありません。父の遺言で仇討ちをしなかったという伝承をもとに、イメージしたセリフです。


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