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【仏様図鑑】道綽(どうしゃく)-道綽禅師、小豆で念仏を数えた七高僧と「浄土の堂はできた」お告げの謎

(写真準備中)

七高僧の絵にえがかれた道綽禅師の写真(準備中)

道綽(どうしゃく)は、中国・唐のはじめのお坊さんです。曇鸞の碑文に出会って念仏の道に入り、善導の師となりました。浄土真宗の七高僧の第四祖です。

この記事でわかること

  • 道綽とはだれか。『安楽集』を書いた、善導の師
  • 小豆(あずき)や木の実の玉で、念仏の数をかぞえた話
  • 【謎】「浄土の堂はできた」と告げられた道綽が、そのあと17年も生きたわけ

お念仏のたびに一粒ずつ動かした豆。その一粒が、次の祖師へとつながっていきます。

01. 道綽(道綽禅師)の基本情報

道綽(どうしゃく)基本情報
分類 祖師(そし)。中国・隋〜唐の浄土教の僧
読み方 どうしゃく
別名 道綽禅師(どうしゃくぜんじ)・西河禅師(さいがぜんじ)
梵名(ぼんみょう) なし(中国の僧のため)
生没年 562年〜645年。玄中寺で、84歳(数え年。Wikipediaでは85歳)で亡くなったとされます
出身 并州(へいしゅう)の文水(ぶんすい。汶水とも書く。今の山西省文水県)
おもな著作 『安楽集(あんらくしゅう)』2巻
弟子 善導(ぜんどう)
位置づけ 浄土真宗の七高僧の第四祖。浄土宗では「浄土五祖」の第二祖
真言 決まったものは確認できませんでした
種子字 決まったものは確認できませんでした
ご縁日 決まったものは確認できませんでした(命日は4月27日とされます)
💡 出典:Wikipedia「道綽」、『続高僧伝(ぞくこうそうでん)』巻20「釈道綽」(中国語版ウィキソース)、コトバンク「道綽」。

02. 道綽禅師とは? ― 『安楽集』を書いた善導の師

① 一言まとめ

道綽は、「今の時代のわたしたちには、阿弥陀如来の浄土へ生まれる道がふさわしい」と説いた人です。そして、ふつうの人が毎日できる念仏を広めました。

② 由来・生涯

道綽は562年、并州の文水に生まれました。14歳で出家し、『涅槃経(ねはんぎょう)』を深く学びます。若いころに『大涅槃経』を24回も講義した、と『続高僧伝』は書きます。

30歳をすぎると、慧瓚(えさん)という禅の師について、戒律と坐禅の修行にはげみました(Wikipedia)。

609年、48歳のとき(Wikipedia・コトバンク。40歳とする辞典もあります)。道綽は玄中寺をおとずれます。そこは、かつて曇鸞が住んだ寺でした。寺には曇鸞の碑が立ち、そのめでたいしるしが記されていました(『続高僧伝』)。

道綽はこの碑文に心を打たれ、浄土の教えに入りました。そしてそのまま玄中寺に住みます(Wikipedia)。

道綽は『安楽集』で、仏の教えを「聖道門(しょうどうもん。この世で自分の力でさとる道)」と「浄土門(じょうどもん。阿弥陀仏の浄土に生まれてさとる道)」に分けました。そして、仏の時代から遠くはなれた今は、浄土門がふさわしいと説いたとされます(コトバンク「道綽」「聖道門」)。

その後の道綽は、『観無量寿経』を200回近くも講義しました。原文は「将二百遍(二百遍に及ぼうとした)」です。自分でも、1日7万回の念仏をとなえたといいます(『続高僧伝』)。

641年には、若い善導がたずねて来て、弟子になりました。道綽は645年、84歳(数え年。Wikipediaでは85歳)で玄中寺で亡くなったとされます。

③ 姿の特徴

  • 七高僧の一人として:浄土真宗のお寺の七高僧の絵では、曇鸞の次、善導の前に置かれる僧の姿でえがかれます
  • 決まった持ち物:道綽像に決まった持ち物があると書いた資料は、確認できませんでした

03. 道綽禅師のご利益 ― 毎日の念仏・こつこつ続ける力・極楽往生

🪷 極楽往生
📿 念仏をつづける
🫘 こつこつ積み重ねる力
👴 長寿・晩年の安らぎ
  • 極楽往生:阿弥陀如来の浄土に生まれる教えを説きました
  • 念仏をつづける:玉や豆で数をかぞえ、だれでも念仏をつづけられるようにしました(07)
  • こつこつ積み重ねる力:一粒ずつ積んだ豆が、数百万石にもなったと伝わります(07)
  • 長寿・晩年の安らぎ:70歳で歯が生えかわり、84歳でも心身がさわやかだったと伝わります(『続高僧伝』)

ご利益の根拠:道綽に決まったご利益があると書いた資料は、確認できませんでした。ここでは、その生涯と伝記から紹介しています(筆者の見方)。

こんな人におすすめ:毎日の小さな習慣を続けたい人。年を重ねても、心おだやかに過ごしたい人です。

04. 道綽と関係の深い仏様・人物 ― 曇鸞から善導へ

阿弥陀如来(あみだにょらい)道綽が念仏をすすめた、極楽の仏です
曇鸞(どんらん)七高僧の第三祖。道綽はその碑文に出会って浄土の教えに入りました
善導(ぜんどう)七高僧の第五祖。道綽の弟子で、法然に大きな影響をあたえました
天親(てんじん)七高僧の第二祖。道綽は、龍樹・天親、そして曇鸞・慧遠(えおん)にまでふれて浄土の教えを論じたと伝わります(『続高僧伝』)
法然(ほうねん)『安楽集』の「聖道門・浄土門」の分け方を受けつぎました
親鸞(しんらん)若いころの名「綽空(しゃっくう)」の「綽」は、道綽からとされます(諸説あり)
💡 曇鸞・善導・天親のくわしい紹介は、それぞれの記事へ。

05. 道綽禅師に出会える寺 ― 玄中寺と七高僧の絵

  • 玄中寺(げんちゅうじ。中国・山西省):道綽が曇鸞の碑文に出会い、住みつづけ、亡くなった寺です(Wikipedia)。現在の拝観の情報は確認できませんでした
  • 西本願寺(京都市下京区):浄土真宗本願寺派の本山です。阿弥陀堂に七高僧の影像(えいぞう。肖像画)がまつられます。くわしくは西本願寺の記事へ
  • 知恩院(京都市東山区):浄土宗の総本山です。浄土宗では、道綽は「浄土五祖」の第二祖とされます。知恩院に道綽の像や絵があるかは、確認できませんでした。くわしくは知恩院の記事へ
  • 浄土真宗のお寺・お仏壇:朝夕にとなえられる『正信偈(しょうしんげ)』に、道綽の段があります
💡 日本で道綽の像を本尊としてまつる寺は、確認できませんでした。拝観の時間や公開の有無は、それぞれのお寺に確かめてください。

06. 道綽禅師の見分け方ガイド

✅ これがあれば道綽禅師かも?チェックリスト

  • □ 七高僧の絵で、曇鸞と善導のあいだにいる中国の僧
  • □ 名札や題に「道綽禅師」とある
  • □ 『正信偈』で「道綽決聖道難証」の句から始まる段の人

まちがえやすい人とのちがい

  • 曇鸞とのちがい:どちらも玄中寺にゆかりがあります。曇鸞は北魏〜東魏の人、道綽は曇鸞が亡くなったあと(曇鸞の没年は諸説あり)に生まれた隋〜唐の人です
  • 善導とのちがい:浄土宗の善導大師像は、半身が金色につくられます(浄土宗公式。くわしくは善導の記事へ)。師の道綽にはそうした決まりは確認できません

07. 道綽の物語 ― 一粒の豆と、木の実の数珠

念仏は、だれでもとなえられます。でも、毎日つづけるのはむずかしいものです。今日は何回となえたのか、すぐにわからなくなってしまいます。

そこで道綽は、ある工夫をしました。人々に念仏をすすめるとき、麻の実や豆などを使ったのです。

「每一稱名。便度一粒。」
(仏の名を一回となえるごとに、一粒を動かす。)
(『続高僧伝』巻20)

こうして積み重なった豆は、数百万石(こく)にもなったといいます。日本では、このやり方は「小豆念仏(あずきねんぶつ)」とよばれます(Wikipedia)。

道綽は、もうひとつ工夫をしました。木欒子(もくれんじ)という木の実に穴をあけ、糸を通して数をかぞえる道具にしたのです。それを僧や町の人々にくばり、念仏をすすめたと伝わります(『続高僧伝』)。

山のように集まった人々は、手の中の豆や玉を一つずつ動かしながら、阿弥陀如来の名をとなえました。

──そう、道綽の念仏は、むずかしい学問ではありませんでした。手の中でかぞえられる、一粒一粒の積み重ねだったのです。

📖 出典:『続高僧伝』巻20「釈道綽」(中国語版ウィキソースの原文で確認。訳は筆者)、Wikipedia「道綽」(小豆念仏)。数は伝承をふくみます。場面の様子は、筆者がやさしく書いたものです。

08. 道綽のまとめと関連記事

この記事でわかったこと

  • 道綽は、曇鸞の碑文に出会って浄土の教えに入った、七高僧の第四祖
  • 豆や木の実の玉で念仏をかぞえ、ふつうの人に毎日の念仏を広めた
  • 『安楽集』の教えと弟子の善導を通じて、日本の法然・親鸞につながった

お寺で数珠を手にしたら、一粒ずつ豆を動かした道綽のことを思い出してみてください。

09. ゆる仏様トーク ― 道綽禅師編

🍵 ゆる仏様トーク①(たとえ話)

道綽は、今でいえば「毎日のウォーキングを続けてもらうために、町じゅうに歩数計をくばったお医者さん」です。目に見える数があると、人はがんばれます。それは1400年前も同じでした。

🍵 ゆる仏様トーク②(ツッコミ)

1日7万回の念仏。1回1秒でも、20時間ちかくかかる計算です。──そう、豆でかぞえたくなる気持ちが、よくわかります。

🍵 ゆる仏様トーク③(ひとこと)

道綽が、何をしても続かないと悩む人に声をかけるとしたら――

「今日の一粒でいいのです。一粒は、明日の一粒につながりますから。」

※道綽の言葉そのものではありません。「一回となえるごとに一粒」という『続高僧伝』の記述をもとに、イメージしたセリフです。

10. 道綽禅師の謎 ― 「浄土の堂はできた」と告げられたのに、なぜ17年生きたのか

【謎】67歳(数え年)で曇鸞から「浄土の堂はできた」と告げられた道綽は、なぜそのあと17年も生きたのか
【事実の整理】
① 『続高僧伝』によると、628年(貞観2年)4月8日、道綽は自分の命が終わると知り、人々が集まりました。そのとき、みなが七宝の船に乗った曇鸞の姿を見た、と伝えます。
② 曇鸞は道綽にこう告げたといいます。「汝淨土堂成。但餘報未盡耳。」(あなたの浄土の堂はできあがった。ただ、残りの報いがまだ尽きていないだけだ。)
③ 道綽は70歳で歯が生えかわり、84歳になっても心身がさわやかだった、と『続高僧伝』は書きます。この伝記は、道綽がまだ生きている84歳の時点で記事を終えています。
④ 641年、のちの浄土宗の高祖となる善導が、道綽をたずねて弟子になりました。善導は645年に道綽が亡くなるまで、教えを受けます(Wikipedia「道綽」「善導」)。
⑤ 道綽自身も、48歳のときに玄中寺で曇鸞の碑文に出会って、浄土の教えに入った人でした(02)。曇鸞はそのとき、すでに亡くなっていました。
【私の考察】
道綽が「浄土の堂はできた」と告げられてからも生きたのは、まだ「手わたす相手」に会っていなかったからではないか、と私は考えます。
道綽は、会ったことのない曇鸞から、碑文という「文字」で教えを受けとりました(⑤)。師と顔を合わせることなく、石に残された言葉だけで受けついだのです。
一方、道綽が告げられた「残り」の時間(②)の中で、善導がやって来ました(④)。お告げから13年後のことです。そして道綽は、善導に4年のあいだ、直接教えを伝えて亡くなりました。
曇鸞から道綽へは、碑文を通した「文字の受けわたし」。道綽から善導へは、顔を合わせた「人の受けわたし」。もしかすると、浄土の堂ができたあとの17年は、自分が受けられなかった「直接の手わたし」を、次の人にするための時間だったのかもしれません。
【結論(あくまで推測)】
曇鸞が告げた「残り」とは、善導に会い、念仏の教えを直接手わたすための時間だったのではないか。豆を一粒ずつ動かしたように、道綽は教えも一人ずつ、次の手へと動かしたのかもしれません。あくまで私の考察です。あなたはどう思いますか?
💡 出典:①②③は『続高僧伝』巻20「釈道綽」(原文で確認、訳は筆者)、④⑤はWikipedia「道綽」「善導」。お告げの「残り」を善導への手わたしと結びつける読み方は、筆者の考察です。「余報」は、ふつうは「この世での残りの寿命・報い」の意味です。

11. 道綽禅師データベース早見表

項目 内容
分類 祖師(隋〜唐の浄土教の僧)
読み方 どうしゃく(道綽禅師)
梵名 なし(中国の僧のため)
生没年 562年〜645年(数え年84歳。Wikipediaでは85歳)
出身 并州の文水(今の山西省文水県)
おもな著作 『安楽集』2巻
位置づけ 浄土真宗の七高僧の第四祖・浄土宗の浄土五祖の第二祖
真言・種子字・ご縁日 決まったものは確認できず(命日は4月27日とされる)
主なご利益(生涯と伝記から) 極楽往生・念仏をつづける・こつこつ積み重ねる力(筆者の見方)
出会える場所 玄中寺(山西省)・西本願寺(七高僧の影像)・浄土真宗のお寺

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