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【仏様図鑑】金剛智(こんごうち)-不空の師・真言八祖、金剛頂経の幻の「広本」はどこへ消えたのかの謎

仏様図鑑
金剛智(こんごうち)は、インドから海をわたって唐に来た密教のお坊さんです。『金剛頂経』(こんごうちょうぎょう)の教えをはじめて漢文に訳し、真言八祖の一人としてまつられています。

この記事でわかること

  • 金剛智とはだれか。不空の師で、中国密教の祖とされる人
  • 7歳の少女二人に、閻魔王への手紙を届けさせた伝説
  • 【謎】『金剛頂経』の「十万頌(じゅ)の広本」は、どこへ消えたのか

空海から数えると「師の師の師」。日本の密教のはじまりをたどる旅です。

01. 金剛智の基本情報

金剛智(こんごうち)基本情報
分類 祖師(そし)。密教のお経を訳した訳経僧(やっきょうそう)
読み方 こんごうち(金剛智三蔵〈さんぞう〉とも呼ばれます)
別名・おくり名 大弘教三蔵(だいこうきょうさんぞう。日本大百科全書)・灌頂国師(かんじょうこくし。精選版日本国語大辞典)。『宋高僧伝』は「国師」の号とします(諸説あり)
梵名(ぼんみょう) ヴァジュラボーディ(Vajrabodhi)。音をうつした漢字では「跋日羅菩提(ばじらぼだい)」
生没年 671〜741年(一説に732年没)
出身 中インドの王子とも、南インドのバラモン(インドの僧侶の身分)の出身ともいわれます(諸説あり)
師 龍智(りゅうち)
おもな弟子 不空(ふくう)・一行(いちぎょう)など
真言八祖での位置 付法(ふほう)の八祖の第五祖・伝持(でんじ)の八祖の第三祖(付法=教えを受けついだ順の8人、伝持=教えを広め伝えた人間の祖師8人)
真言・種子字・ご縁日 決まったものは確認できませんでした
💡 出典:コトバンク「金剛智」(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・ブリタニカ国際大百科事典)、Wikipedia「金剛智」。
没年は741年(開元29年)とする辞典が多いですが、『宋高僧伝』は開元20年(732年)とし、精選版日本国語大辞典も一説として挙げています。宋高僧伝は71歳で亡くなったとするので、この説では生まれた年は662年ごろになります。

02. 金剛智三蔵(ヴァジュラボーディ)とは? ― 中国密教の祖、不空の師

① 一言まとめ

金剛智は、インドの密教を船で唐に運び、『金剛頂経』の系統の教えをはじめて漢文に訳したお坊さんです。その教えは、弟子の不空、孫弟子の恵果をへて、空海に届きました。

② 由来・生涯

金剛智は671年、インドに生まれました。小さいころから記憶力がすぐれ、一日に一万字をとなえたと伝わります(『宋高僧伝』)。なんと10歳でナーランダー寺に入り、出家したとされます。一方、『宋高僧伝』は、16歳で仏の教えにめざめて出家し、そのあと師とナーランダー寺へ行ったと書きます(諸説あり)。

ナーランダー寺は、当時のインドでいちばん大きな仏教の学問寺でした。金剛智はここで、戒律や唯識(ゆいしき。心のしくみを考える教え)などを学びました。31歳ごろからは南インドの龍智に7年間つき、密教を受けたとされます(Wikipedia)。

その後、金剛智は師子国(ししこく。今のスリランカ)などをめぐります。やがて「中国では仏の教えがさかんだ」と聞き、船で東へ向かいました。『宋高僧伝』は、困難が多く「何年もかかって、ようやく着いた」と書きます。719年(開元7年)、金剛智は広州(こうしゅう)にたどり着きました。

翌720年、金剛智は洛陽(らくよう)・長安(ちょうあん)へ入ります。玄宗(げんそう)皇帝のもとで、大慈恩寺(だいじおんじ)や大薦福寺(だいせんぷくじ)で活動します。寺には祈りの壇を建て、お経を訳しました。723年ごろからは『金剛頂瑜伽中略出念誦経』(こんごうちょうゆがちゅうりゃくしゅつねんじゅきょう)4巻などを訳します。

741年、金剛智は故郷へ帰ることを思い立ちましたが、病気になり、洛陽で亡くなりました(Wikipedia)。数え年71歳です。弟子の不空の願いで、おくり名が贈られました。その名は「大弘教三蔵」(日本大百科全書)とも、「国師」(『宋高僧伝』)ともいわれます。

💡 出典:『宋高僧伝』巻1「唐洛陽広福寺金剛智伝」(中国語版Wikisourceの本文で確認)、Wikipedia「金剛智」、コトバンク「金剛智」。
中国に着いた年は、719年(精選版日本国語大辞典・宋高僧伝)と720年(多くの辞典)で分かれます。719年に広州に着き、720年に都に入ったと考えると、両方の説明が合います。

③ 姿の特徴

  • 僧の姿:頭を丸め、袈裟(けさ)を着た僧の姿でえがかれます
  • 東寺の祖師像:東寺の国宝「真言七祖像」(しんごんしちそぞう)のうち、唐で描かれた5幅の一つが金剛智です。805年に唐の画家・李真(りしん)らが描き、空海が日本へ持ち帰りました
  • 印相・光背・台座:祖師なので、決まった印相や台座はありません
  • 持物:東寺の七祖像の金剛智が手に何を持ち、どんな手の形をしているかは、今回は確認できませんでした
💡 出典:真言七祖像は加藤詩乃氏の研究発表の要旨(筑波大学)とJAANUS「Shingon hasso」。

03. 金剛智にまつわるご利益 ― 雨の祈り、病の祈り、旅の祈り

🌧️ 雨ごい
🏥 病気平癒
🌊 海の旅の安全
📜 学問・記憶力
  • 雨ごい:ひでりのとき、祈りの壇を建てて雨を降らせたと伝わります(07の伝説)
  • 病気平癒:病気の公主(皇帝の娘)を救ったという伝説があります(07の物語)
  • 海の旅の安全:困難の多い船旅をこえて、唐にたどり着きました
  • 学問・記憶力:小さいころから一日に一万字をとなえたと伝わります

ご利益の根拠:金剛智に決まったご利益があると書いた資料は、確認できませんでした。ここでは、生涯と伝説から紹介しています(筆者の見方)。

こんな人におすすめ:遠い国で新しい仕事を始める人。家族の病気を心配している人。全部がそろわなくても、手に入った一部から始めたい人(10の謎へ)。

04. 金剛智と関係の深い仏様・人物 ― 開元三大士と弟子たち

龍智(りゅうち)金剛智の師。真言八祖の第四祖(付法)です
不空(ふくう)金剛智の弟子。師の死後、海をわたってお経を集めに行きました
一行(いちぎょう)金剛智と善無畏の両方に学んだ唐の僧です
善無畏(ぜんむい)同じころ唐に来て『大日経』を訳した僧。金剛智とあわせて「開元三大士」と呼ばれます
准胝観音(じゅんていかんのん)金剛智は『七倶胝仏母准提大明陀羅尼経』(しちくていぶつもじゅんていだいみょうだらにきょう)を訳しました
閻魔大王(えんまだいおう)金剛智の公主蘇生の伝説に登場します(07の物語)
💡 「開元三大士(かいげんさんだいし)」は、唐の開元年間に密教を伝えた善無畏・金剛智・不空の3人のことです。

05. 金剛智ゆかりの場所・その教えに出会える寺

  • 東寺(教王護国寺。京都市南区):唐で描かれた金剛智の像をふくむ国宝「真言七祖像」が伝わります。公開の時期は、東寺の公式サイトで確かめてください
  • 大薦福寺(だいせんぷくじ。中国・陝西省西安市):金剛智が壇を建てて教えを広めた長安の寺です(Wikipedia)。今は小雁塔(しょうがんとう)のある寺として知られます
  • 大慈恩寺(だいじおんじ。中国・陝西省西安市):金剛智が住んだと伝わる寺です(世界大百科事典)。玄奘ゆかりの大雁塔(だいがんとう)がある寺でもあります
  • 龍門(りゅうもん。中国・河南省洛陽市):『宋高僧伝』は、金剛智を龍門の南、伊川(いせん)のほとりに葬って塔を建てたとします。Wikipediaは、743年に西龍門に塔が建てられたとします(諸説あり)
💡 中国の寺の公開状況は、資料によってちがいます。日本の寺の拝観情報は、それぞれの寺の記事・公式サイトで確かめてください。

06. 金剛智の見分け方ガイド

✅ これがあれば金剛智かも?チェックリスト

まちがえやすい人とのちがい

  • 不空とのちがい:不空は金剛智の弟子です。名前に同じ「金剛」が入るので注意(不空の別名は「不空金剛」)
  • 善無畏とのちがい:善無畏は『大日経』(胎蔵界)の系統、金剛智は『金剛頂経』(金剛界)の系統を伝えました
  • 金剛薩埵とのちがい:金剛薩埵(こんごうさった)は人ではなく菩薩で、八祖の第二祖とされる仏様です
💡 八祖像の並べ方や持物は、寺や時代によってちがいます。像のそばの名札(名号)がいちばん確かな手がかりです。

07. 金剛智の物語 ― 7歳の少女二人と、閻魔王への手紙

唐の都。玄宗皇帝の娘、第二十五公主が、長い病にふせっていました。目を閉じたまま何も話さず、もう十日から一か月ほどがたっていました。

金剛智は、公主のいる館へ向かいました。そして宮中から、7歳の少女を二人選びます。二人の顔を赤い絹でつつみ、床に横たえました。

次に、皇帝の手紙(勅書〈ちょくしょ〉)を一枚書かせ、別の場所で焼きます。金剛智がひみつのことばをとなえると、二人の少女は、焼いた手紙の文を一字もまちがえずにとなえはじめました。

金剛智は深い瞑想に入ります。そのふしぎな力で、二人は手紙を持って閻魔王(えんまおう)のもとへ向かったといいます。食事をするほどの短い時間のあと、閻魔王は、すでに亡くなっていた公主の守り役(保母)・劉(りゅう)氏に、公主のたましいを送りとどけさせました。たましいは、二人の少女といっしょに帰ってきたと伝わります。

すると公主は、起き上がりました。目を開け、いつものように話しはじめたのです。

──そう、海をこえてきた密教の僧は、あの世への使いまで出せる人として、都の人々に語りつがれたのです。

📖 出典:『宋高僧伝』巻1「金剛智伝」(中国語版Wikisourceの本文で確認)。原文には「以緋繒纏其面目」(赤い絹で顔をつつむ)、「焚於他所」(別の場所で焼く)、「亡保母劉氏」(亡くなった守り役の劉氏)、「公主起坐,開目言語如常」(公主は起きあがり、目を開いて、いつものように話した)とあります。会話や場面の様子は、筆者がやさしく言いかえました。
『宋高僧伝』は金剛智の死から250年ほどあとの988年にまとめられた伝記です。ふしぎな話は伝承として読んでください。

【伝説】空を割った雨と、屋根をつき破った龍

ある年、正月から5月まで雨が降りませんでした。あちこちの山や川の神をまつる祠(ほこら)で祈っても、まったく効きめがありません。

皇帝の命を受けた金剛智は、祈りの壇を建て、七倶胝菩薩(しちくていぼさつ)の像をえがきました。7日目、像に目を入れると、北西から強い風が吹きます。瓦が飛び、木がぬけ、雲がくずれるように雨が降りだしました。人々は「金剛智が龍をつかまえ、龍が屋根をつき破って飛んでいった」とうわさしたといいます(『宋高僧伝』)。

💡 金剛智が雨ごいの壇を建てて大雨になった話は、弟子の不空の伝記にも出てきます。そちらは不空の記事で紹介しています。

08. 金剛智のまとめと関連記事

この記事でわかったこと

  • 金剛智は、インドから海をわたって719年に唐に着いた密教の僧
  • 『金剛頂経』の系統の教えを、はじめて漢文に訳した
  • 弟子の不空から恵果、空海へと、その教えが日本に伝わった

八祖像を見かけたら、龍智と不空のあいだにいる、海をわたった人をさがしてみてください。

09. ゆる仏様トーク ― 金剛智編

🍵 ゆる仏様トーク①(たとえ話)

金剛智は、今でいえば「海外の本店から、まだだれも知らない新商品を船で運んできた、最初の駐在員」です。売り方の説明書(儀軌〈ぎき〉)まで、自分で翻訳しました。

🍵 ゆる仏様トーク②(ツッコミ)

病気の公主を救うために、7歳の少女を閻魔王のところへお使いに出す。現代の感覚では、思いもよらない方法です。──そう、仏様の道を伝える人の祈りは、ときに私たちの想像の外側にあったのです。なぜ7歳の子どもだったのか。子どもには清らかな力があると考えられていたのかもしれない、と想像がふくらみます(筆者の見方)。

🍵 ゆる仏様トーク③(ひとこと)

金剛智が、遠い国で新しいことを始める人に声をかけるとしたら――

「全部を運べなくても、だいじょうぶ。あなたが届けた一部から、次の人が旅を始めます。」

※金剛智の言葉そのものではなく、その生涯をもとにイメージしたセリフです。

10. 金剛智の謎 ― 『金剛頂経』の「略出」と、幻の広本はどこへ消えたのか

【謎】『金剛頂経』の「十万頌の広本」は、本当にあったのか。あったなら、どこへ消えたのか
【事実の整理】
① 金剛智が訳した『金剛頂瑜伽中略出念誦経』は、『金剛頂経』の系統で最初の漢訳とされます(日本大百科全書)。題には「略出(りゃくしゅつ)」、つまり「大きなものから一部をぬき出した」という言葉が入っています。
② 『金剛頂経』には、もともと「広本(こうほん)」と、その要点をぬき出した「略本」があったといわれます。けれど、今残る3種類の漢訳は、すべて略本です(ブリタニカ国際大百科事典)。「18会(え)・10万頌の大本があり、それが分かれて伝わった」ともいわれます(日本大百科全書)。頌(じゅ)は、お経を数える詩の単位です。
③ 金剛智の船旅は困難が多く、何年もかかりました(『宋高僧伝』)。広島大学の伊藤奈保子氏の研究紹介では、金剛智は商船で唐へ向かう途中に難破した、とされます。
④ 金剛智が亡くなると、弟子の不空は師の遺言にしたがい、スリランカとインドへ向かいました。目的は、『金剛頂経』の完全な本などを手に入れることだったとされます(Wikipedia「不空」)。
⑤ 不空が記録した伝説では、『金剛頂経』の教えは、南インドの「鉄の塔」の中から聖者に伝えられたとされます。のちに空海は、この聖者を龍猛(りゅうみょう)としました。これを「南天鉄塔(なんてんてっとう)」の伝説といいます。鉄の塔は、実際の塔ではなく、心の中の悟りの心をさすという考え方もあります。この鉄塔の話は、⑥と同じ『金剛頂経義訣』に出てきます。そこでは、大本の経本は床のように大きく、厚さが四五尺(1メートルあまり)あったと書かれています(原文「廣長如床,厚四五尺」)。
⑥ そして、広本の行方を語る伝承があります。不空の作とされる『金剛頂経義訣』(こんごうちょうぎょうぎけつ)は、金剛智自身の話として、こう伝えます。南の海で大風にあい、まわりの船は次々に沈んだ。船主は、船の荷物をすべて海に投げ入れた。金剛智は、いつも身近に置いていた2種類の経本のことを、こわさのあまり忘れてしまった。「百千頌(十万頌)の本も海に投げ入れられ、略本だけが残った」(原文「其百千頌亦擲海中,唯存略本」)。
【私の考察】
伝承の答えは、はっきりしています。広本は、海に沈んだのです(⑥)。けれど私は、この話を「事故の記録」としてだけ読むのは、もったいないと考えます。
なぜなら、この話があると、『金剛頂経』をめぐるいくつもの事実が、一本の線でつながるからです。題に「略出」とある理由(①)。今残る漢訳が、すべて略本である理由(②)。不空が「完全な本」を求めて、もう一度海へ出た理由(④)。どれも「広本は海に沈んだから」で説明できます。
しかも同じ『義訣』の中で、全体は二度、手の届かないところへ消えます。一度目は、床ほどもある大本が閉ざされた鉄の塔の中にあった、という話(⑤)。二度目は、十万頌の本が海に投げ入れられた、という話(⑥)。塔に閉じた全体と、海に消えた全体。手元には、いつも一部だけが残るのです。この形は、見ることのできない広い教えと、今ここにある一部の教えの関係を、とてもわかりやすく伝えています。
そう考えると、鉄の塔を「心の中」と見る考え方(⑤)にも、つながって見えます。塔の中にも、海の底にも、手は届かない。それなら全体は、修行する人の心の中にさがすしかない――そういう答えに行きついたのかもしれません。
【結論(あくまで推測)】
十万頌の広本は、伝承では海に沈みました。この話は、「略出」という題と、略本しかない現実を説明します。同時に、「全体はいつも手の届かないところにあり、最後は心の中にある」という考え方を、物語の形で伝えたのではないか。私はそう考えます。広本が実際に一冊の本としてあったのかは、確かめられませんでした。あくまで私の考察です。あなたはどう思いますか?
💡 出典:①②はコトバンク「金剛頂経」(日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典)。③は『宋高僧伝』巻1(原文「泛舶而來,以多難故,累歲方至」)と広島大学の研究紹介ページ「Monsoon Winds Brought Tantric Buddhism from India to Japan」。④はWikipedia「不空」。⑤は論文「The Myth of the South Indian Iron Stupa (Nanten tettō) in Japanese Esoteric Buddhism」の要旨とWikipedia「南天鉄塔」。⑥は『金剛頂経大瑜伽秘密心地法門義訣』(中国語版Wikisourceの本文で確認。作者は不空とされます)。

11. 金剛智データベース早見表

項目 内容
分類 祖師(訳経僧・真言八祖)
読み方 こんごうち(金剛智三蔵)
梵名 ヴァジュラボーディ(Vajrabodhi)
生没年 671〜741年(一説に662ごろ〜732年)
出身 中インド・南インドなど諸説あり
師・弟子 師:龍智/弟子:不空・一行など
来唐 719年に広州、720年に洛陽・長安
おもな訳経 金剛頂瑜伽中略出念誦経(4巻)・七倶胝仏母准提大明陀羅尼経など
真言・種子字・ご縁日 決まったものは確認できず
主なご利益(伝説から) 雨ごい・病気平癒・海の旅の安全(筆者の見方)
ゆかりの場所 東寺(真言七祖像)・大薦福寺・大慈恩寺・龍門

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