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【仏様図鑑】鑑真(がんじん)-唐招提寺を開いた律宗の祖、薬を鼻で見分けた鑑真和上と失明の謎

仏様図鑑

鑑真(がんじん)は、唐(とう。今の中国)から日本へ来て、正式な戒律(かいりつ)を伝えた僧です。「鑑真和上(がんじんわじょう)」とよばれ、唐招提寺を開きました。

この記事でわかること

  • 鑑真とはどんな人か。律宗(りっしゅう)の祖(そ)としての生涯と、国宝の坐像
  • 国の歴史書に残る、薬を鼻で一つずつ見分けた話
  • 【謎】鑑真の失明の理由は、なぜ記録ごとにちがうのか

目を閉じたあの像は、時代ごとに、ちがう涙を流してきたのかもしれません。

01. 鑑真の基本情報

鑑真(がんじん)基本情報
分類 羅漢・祖師(律宗の祖)
読み方 がんじん
梵名 なし(唐の僧〈祖師〉のため)
別名・称号 鑑真和上(がんじんわじょう)・大和上(だいわじょう)。758年に「大和上」の称号を受けました(Wikipedia)
生まれ 688年ごろ、唐の揚州(ようしゅう)生まれ。14歳で出家しました(唐招提寺公式)
亡くなった年 763年、唐招提寺で。76歳とされます(『続日本紀』は77歳とします)
開いた寺 唐招提寺(759年。奈良市)
真言・種子字 祖師のため、決まったものは確認できませんでした
ゆかりの日 御影堂(みえいどう)の特別公開で、国宝の坐像が年に一度公開されます(2026年は6月5〜7日。唐招提寺公式)
💡 出典:唐招提寺公式「鑑真大和上」「御影堂」「拝観のご案内」、Wikipedia「鑑真」、『続日本紀』天平宝字7年5月6日条(中国語版ウィキソース)。

02. 鑑真とは? ― 日本に正式な戒律を伝えた唐の高僧

① 一言まとめ

鑑真は、僧になるための正しい決まり(戒律)を日本に伝えた人です。そのために、何度も海をわたろうとしました。

② 由来・生涯

鑑真は揚州で生まれ、14歳で出家しました。洛陽(らくよう)や長安(ちょうあん)で学び、「江南第一の大師」とたたえられたといいます(唐招提寺公式)。

742年、日本の留学僧・栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)が、鑑真をたずねます。日本には、正式に僧をみとめる「伝戒の師」がいなかったのです。鑑真は、自ら日本へ行く決意をしました(唐招提寺公式)。

そこから12年間に5回の渡航に失敗し、6回目の753年にようやく日本に着きました(唐招提寺公式)。苦難の航海の話は、唐招提寺の記事でくわしく紹介しています。

754年、東大寺の大仏殿に戒壇(かいだん。戒律を授ける壇)が築かれます。鑑真は聖武天皇(上皇)をはじめ、約400人に戒を授けました。これを授戒(じゅかい)といいます(Wikipedia)。のちの「三つの戒壇」の話は、天下三戒壇の記事へ。

759年には唐招提寺を開きます。日本での約10年のうち、5年を東大寺、5年を唐招提寺ですごしました(唐招提寺公式)。

③ 姿 ― 国宝・鑑真和上坐像

  • どんな像:唐招提寺の御影堂にまつられる国宝です。奈良時代(8世紀)の作で、高さ80.1cmです(唐招提寺公式)
  • つくり方:脱活乾漆(だっかつかんしつ)という、漆(うるし)と布を重ねる技法です。今もあざやかな色が残ります(唐招提寺公式)
  • だれがつくったか:弟子の忍基(にんき)が、制作を指導したとされます(唐招提寺公式)
  • 特徴:日本最古の肖像彫刻とされます。両目を閉じ、静かにすわる姿です

03. 鑑真にちなむ祈り ― 志をつらぬく・心をととのえる・健康

⛵ 志をつらぬく(筆者の見方)
📿 心をととのえる(戒律)
🌿 健康(薬の伝承から・筆者の見方)
  • 志をつらぬく:5回の失敗のあとも、日本行きをあきらめなかった生涯から(筆者の見方)
  • 心をととのえる:戒律は、心と行いをととのえる決まりです。鑑真はそれを伝えた律宗の祖です
  • 健康:『続日本紀』に、薬の知識で皇太后の病に効果があったと書かれます(07で紹介。筆者の見方)

根拠について:鑑真は仏ではなく祖師なので、経典にもとづく決まったご利益はありません。上の内容は、生涯と記録から筆者がまとめたものです。

こんな人におすすめ:何度失敗しても、目標をあきらめたくない人。新しい場所で、一から何かを始める人です。

04. 鑑真と関係の深い人々 ― 栄叡・普照・聖武天皇

栄叡(ようえい)鑑真をまねいた日本の留学僧。日本に着く前に、旅の途中で亡くなりました
普照(ふしょう)栄叡とともに鑑真をまねいた僧。一度は鑑真と別れますが、のちに日本へ
聖武天皇(しょうむてんのう)上皇として、東大寺で鑑真から戒を受けました
忍基(にんき)鑑真の弟子。国宝の坐像の制作を指導したとされます
淡海三船(おうみのみふね)779年に伝記『唐大和上東征伝』を書いた人(Wikipedia)
盧舎那仏(るしゃなぶつ)唐招提寺の金堂の本尊。東大寺の大仏と同じ仏です

05. 鑑真に会える場所 ― 唐招提寺・東大寺・観世音寺

  • 唐招提寺(とうしょうだいじ。奈良市):鑑真が開いた律宗の総本山です。国宝の鑑真和上坐像は御影堂にまつられ、ふだんは非公開です。2026年は6月5〜7日に特別公開されました(終了)。2027年の日程は公式のお知らせで確かめてください。拝観は8:30〜17:00(受付16:30まで)、大人1,000円です。坐像の特別公開は、別に大人1,000円です(唐招提寺公式)
  • 御影堂の障壁画(しょうへきが):東山魁夷(ひがしやまかいい)が、10年をこえる歳月をかけて鑑真にささげた障壁画やふすま絵が、御影堂に収められています(唐招提寺公式)
  • 東大寺(奈良市):754年、鑑真が大仏殿に築かれた戒壇で授戒をおこなった寺です。くわしくは東大寺の記事へ
  • 観世音寺の戒壇院(福岡県太宰府市):日本に着いた鑑真が、最初の授戒をおこなったとされる場所です(Wikipedia)。天下三戒壇の一つです
  • 大明寺(だいみんじ。中国・揚州):鑑真が住職をつとめた寺です(Wikipedia)
💡 唐招提寺の境内、開山堂へ続く石段の左には、松尾芭蕉の句碑があります(観光庁多言語解説文)。謎のコーナーで、この句が出てきます。

06. 鑑真の像の見分け方ガイド

✅ これがあれば鑑真和上の像かも?チェックリスト

  • □ 両目を閉じている
  • □ 頭をそった僧の姿で、袈裟(けさ)をかけてすわっている
  • □ 両手をおなかの前で静かに組んでいる
  • □ 持ち物を手にしていない

まちがえやすい祖師像とのちがい

  • 空海(弘法大師)とのちがい:空海の像は、ふつう右手に五鈷杵(ごこしょ)、左手に数珠(じゅず)を持ちます。目も開いています
  • 良弁とのちがい:東大寺の良弁僧正像は、手に如意(にょい)という道具を持ちます。目は開いています
  • 行基とのちがい:行基の像は、立った姿や、目を開いた姿で見かけることが多いです

※像の姿は寺や時代によってちがいます。説明板もあわせて見てください。

07. 鑑真の物語 ― 薬を鼻で一つずつ見分けた

日本の国の歴史書『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、鑑真が亡くなった日の記事に、その生涯がまとめられています。そこに、ふしぎな話がのっています。

あるとき、朝廷は鑑真に、お経や論書(ろんしょ)の文字を正すよう命じました。写本には、まちがった字が多かったのです。しかも、どの本も同じようにまちがっていて、だれも正せませんでした。

鑑真は、それを暗唱で正したといいます。

「和上諳誦。多下雌黄。」
(和上は、そらで覚えていた文で、たくさんの字を正した。)
※雌黄(しおう)は、昔、字を消して直すのに使った黄色い顔料です。

さらに朝廷は、いろいろな薬を見せて、名前と本物かどうかを当てさせました。鑑真は目が見えません。それでも――

「和上一一以鼻別之。一無錯失。」
(和上は、一つずつ鼻で見分け、一つもまちがえなかった。)

『続日本紀』はさらに、皇太后が病気になったとき、鑑真が出した薬に効き目があった、と書きます(「所進醫藥有驗」)。当時の皇太后は、聖武天皇のきさき・光明皇太后(こうみょうこうたいごう)と考えられます。『続日本紀』は、その功で鑑真が大僧正(だいそうじょう)の位を受けたと書きます。ただし、ほかの記録では、鑑真の位は大僧都(だいそうず)だったとされます(諸説あり)。

目を失った僧は、記憶と鼻で、経と薬の「本物」を見分けたのです。

📖 出典:『続日本紀』天平宝字7年5月6日条(中国語版ウィキソース「續日本紀/卷第廿四」)。書き下しと現代語は、筆者がやさしく訳したものです。鑑真が薬草の知識を伝えたことは、Wikipedia「鑑真」にもあります。

08. 鑑真のまとめと関連記事

この記事でわかったこと

  • 鑑真は、日本に正式な戒律を伝えた唐の僧。律宗の祖で、唐招提寺を開いた
  • 754年に東大寺で、聖武天皇(上皇)らに戒を授けた
  • 『続日本紀』には、経の字を暗唱で正し、薬を鼻で見分けた話がのる

唐招提寺をたずねたら、松尾芭蕉の句碑の前で、閉じた目の意味を考えてみてください。国宝の坐像に会えるのは、毎年6月上旬の御影堂の特別公開です。

09. ゆる仏様トーク ― 鑑真編

🍵 ゆる仏様トーク①(たとえ話)

鑑真は、今でいえば「海外の大学の名誉教授が、6回目の挑戦でやっと来日し、国の資格制度を一からつくった人」です。しかも来日したときは60代半ば。新しい挑戦に、年齢は関係ないのかもしれません。

🍵 ゆる仏様トーク②(ツッコミ)

朝廷が出したのは、薬の「目きき」テスト。でも鑑真は目が見えません。ふつうなら、ここで終わりです。──そう、鑑真は「目きき」ならぬ「鼻きき」で、全問正解してしまったのです。

🍵 ゆる仏様トーク③(ひとこと)

鑑真和上が、何度も失敗して落ちこむ人に声をかけるとしたら――

「失ったものを数えるより、まだ使えるものを使いなさい。道は、そこから開けます。」

※記録に残る言葉ではありません。目を失っても記憶と鼻で本物を見分けたという『続日本紀』の話をもとに、イメージしたセリフです。

10. 鑑真の謎 ― 失明の理由は、なぜ記録ごとにちがうのか

【謎】鑑真はなぜ目を失ったのか。記録によって、理由がまったくちがう
【事実の整理】
① 鑑真の弟子の記録をもとにした伝記『唐大和上東征伝』(779年)。栄叡は端州(たんしゅう)で亡くなります。その後、韶州(しょうしゅう)で普照と別れるとき、鑑真は普照の手をとって「悲泣」したと書かれます。
② 同じ伝記では、失明はそのあとです。暑さが続いて目がかすみました。胡人(こじん。西方の人)が治せると言って治療しましたが、ついに失明した、とあります。
「眼光暗昧,爰有胡人言能治目,遂加療治,眼遂失明」
③ 日本の国の歴史書『続日本紀』(797年完成)。こちらは「時榮叡物故。和上悲泣失明」。栄叡が亡くなり、鑑真は悲しんで泣き、目を失った、と書きます。
④ 江戸時代、松尾芭蕉は1688年に唐招提寺で坐像をおがみました。『笈の小文(おいのこぶみ)』の前書きには「船中七十余度の難をしのぎたまひ、御目のうち塩風吹入て、終に御目盲させ給ふ」とあります。塩風が目に吹き入って失明した、というのです。句は「若葉して御目の雫(しずく)ぬぐはばや」です。
⑤ 現代の観光庁の多言語解説文では、日本語版が「白内障の手術の失敗」、英語版が「感染症」と、同じページの中でも説明がわかれます。唐招提寺公式は「次第に視力を失うこととなりました」と書き、原因にはふれていません。
【私の考察】
弟子の記録(①②)は、旅の順番を正確に追います。暑さと治療という「旅の事実」を書きました。
日本の歴史書(③)は、そこを一つにまとめました。目を失ったのは、日本の僧・栄叡のための涙だった、と。日本から見れば、鑑真の目は「日本のために失われた目」として記憶されたのではないでしょうか。
芭蕉(④)は、海の人として鑑真を見ました。塩風が目に入ったという理由は、伝記にはありません。けれど句の「雫」は涙です。芭蕉は知らず知らず、歴史書の「悲泣」と同じ場所にたどりついたのかもしれません。
そして現代(⑤)は、医学の言葉で説明します。どの時代も、自分たちがいちばん大事にするものさしで、鑑真の目を見てきたのです。
【結論(あくまで推測)】
失明の理由が記録ごとにちがうのは、それぞれの書き手が「鑑真の何を伝えたいか」を、目の話にこめたからではないか。旅の厳しさ、日本の僧への涙、海の苦難、そして医学。閉じた目の坐像は、見る人の心をうつす鏡になってきたのかもしれません。あくまで私の考察です。あなたはどう思いますか?
💡 出典:①②は『唐大和上東征伝』(中国語版ウィキソース)、③は『続日本紀』天平宝字7年5月6日条(同)、④は芭蕉『笈の小文』の前書き(旅行メディア・観光庁多言語解説文などに引かれた文による)、⑤は観光庁多言語解説文「唐招提寺 鑑真大和上」と唐招提寺公式「鑑真大和上」。「書き手ごとに伝えたいものが理由に表れた」という読み方は、筆者の考察です。

11. 鑑真データベース早見表

項目 内容
分類 羅漢・祖師(律宗の祖)
読み方 がんじん
梵名 なし(祖師のため)
別名・称号 鑑真和上・大和上
生没年 688年ごろ〜763年(76歳。『続日本紀』は77歳)
出身 唐・揚州
来日 753年(6回目の渡航)
主なできごと 754年 東大寺で授戒/759年 唐招提寺を開く
真言・ご縁日 決まったものは確認できず
ちなむ祈り(筆者の見方) 志をつらぬく・心をととのえる・健康
出会える場所 唐招提寺御影堂(国宝坐像・年1回公開)

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