この記事でわかること
・戦で命を落とした兄を弔うため、弟が命懸けで建てようとした五重塔の物語
・法隆寺・醍醐寺と並ぶ「日本三名塔」に数えられる、山口の国宝建築の美しさ
・京都に憧れた戦国大名・大内氏が築いた、知られざる「西の京」の歴史
山口県山口市の香山公園にある瑠璃光寺。境内にそびえる国宝・五重塔は、法隆寺・醍醐寺と並んで「日本三名塔」の一つに数えられ、室町時代にこの地で花開いた「大内文化」の最高傑作と称される、日本屈指の美しい建築です。
01. 瑠璃光寺の基本情報
| 正式名称 | 瑠璃光寺(るりこうじ) |
|---|---|
| 宗派 | 曹洞宗 |
| ご本尊 | 薬師如来 |
| 五重塔造営開始 | 大内盛見(室町時代前期) |
| 五重塔落慶 | 嘉吉2年(1442年)頃 |
| 寺格 | 日本三名塔(国宝五重塔) |
| 所在地 | 山口県山口市香山町7-1(香山公園内) |
| アクセス | JR山口線「山口駅」からバス約10分 |
| 拝観時間 | 公園内自由(資料館は有料) |
| 拝観料 | 境内無料 |
02. ご本尊「薬師如来」ってどんな仏様?
分類:如来
「西の京」山口を見守ってきた仏様
① 一言まとめ
瑠璃光寺のご本尊は薬師如来。人々の病を癒やし、現世での安穏をもたらす仏様で、大内文化が花開いた「西の京」山口の中心地で、長きにわたり信仰を集めてきました。
② 由来・経典上の位置づけ
現在の瑠璃光寺五重塔があるこの地には、もともと大内氏25代当主・大内義弘が建立した香積寺という寺がありました。義弘は応永6年(1399年)、足利義満との戦い(応永の乱)で命を落とします。弟の盛見は、兄の菩提を弔うためにこの地に五重塔の造営を始めますが、盛見自身も九州の少弐勢との戦いで戦死してしまいます。それでも造営は受け継がれ、嘉吉2年(1442年)頃、ついに五重塔が完成しました。
③ 姿・特徴
関ヶ原の戦いの後、毛利輝元が萩に移った際、香積寺も萩へと移されましたが、五重塔はこの地に残されました。その跡地に、仁保にあった瑠璃光寺が移築され、現在の姿になったと伝えられています。
03. ご利益・祈願
薬師如来による病気平癒のご利益に加え、五重塔が「兄弟の絆」と「追善供養」から生まれた経緯から、家族の絆や供養にまつわる祈願にもふさわしい寺院です。
04. 境内の見どころガイド
国宝・五重塔(日本三名塔)
高さ31.2メートル、檜皮葺の屋根を持つ五重塔は、法隆寺・醍醐寺と並ぶ「日本三名塔」の一つ。各層の屋根が上に行くほど小さくなる、安定感のある美しいシルエットが特徴です。
香山公園
瑠璃光寺五重塔を中心に整備された香山公園は、桜や紅葉など四季折々の景観を楽しめる名所として、地元の人々にも観光客にも愛されています。
大内文化の遺産
周防・長門の守護大名であった大内氏は、京の文化に強く憧れ、山口の地に京を模した街づくりを行いました。瑠璃光寺五重塔は、その大内文化を今に伝える最高峰の建築遺産です。
御朱印情報
| 種類 | 備考 |
|---|---|
| 薬師如来の御朱印 | 境内にて確認 |
05. 寺宝・秘宝ハイライト
31.2m ― 瑠璃光寺五重塔の高さ。檜皮葺の屋根と、上層に行くほど小さくなる各層のバランスが、室町中期における建築美の最高到達点と評価されています。
2代 ― 五重塔の造営に関わった大内氏当主の数。義弘の菩提を弔うため弟・盛見が造営を始めましたが、盛見自身も戦死し、その遺志が受け継がれて完成にこぎつけました。
06. 参拝の作法ガイド
- 境内に向かって軽く一礼します
- 本堂の前で姿勢を正し、静かに合掌して一礼します
- 五重塔を様々な角度からじっくり鑑賞します
- 堀に映る「逆さ五重塔」も見逃さずに楽しみます
07. 瑠璃光寺の由緒
瑠璃光寺五重塔の物語は、室町時代の大内氏の歴史と深く結びついています。周防・長門の守護であった大内氏25代当主・大内義弘は、応永6年(1399年)、足利義満との戦い「応永の乱」で命を落とします。この地には元々、義弘が建立した香積寺という寺がありました。
【史実】義弘の死を悼んだ弟の盛見は、兄の菩提を弔うため、香積寺の境内に五重塔の造営を始めます。しかし盛見自身もまた、九州の少弐勢との戦いで命を落としてしまいます。それでも五重塔の造営は受け継がれ、嘉吉2年(1442年)頃、ついに完成にこぎつけました。兄弟二代にわたる思いが込められたこの五重塔は、室町時代の山口で花開いた「大内文化」の最高傑作と評されています。
時代が下り、関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元が萩に移封された際、香積寺も萩へと移されましたが、五重塔だけはこの地に残されました。その後、仁保にあった瑠璃光寺がこの跡地に移築され、現在の瑠璃光寺として今に至っています。
【史実】京に憧れた大内氏と「西の京」
大内氏24代当主・大内弘世は、京都の高い文化に感銘を受け、1360年頃に政庁を山口へと移し、京を模した街づくりを進めたと伝えられています。以来、山口は「西の京」と呼ばれるようになり、瑠璃光寺五重塔はその大内文化の頂点を象徴する建築として今に伝えられています。
08. 周辺スポット・アクセス
09. まとめ
関連リンク
謎と考察コーナー:なぜ五重塔だけが残されたのか?
【事実の整理】
毛利輝元が萩に移封された際、五重塔の本来の所属寺院であった香積寺は萩へと移転しましたが、五重塔そのものはこの地に残されました。
【私の考察】
五重塔のような大規模な木造建築は、解体・移築が技術的にも費用的にも極めて困難だったことが、大きな理由の一つと考えられます。また、大内氏の栄華を象徴するこの五重塔を、あえてこの地に残すことで、山口の人々の心の拠り所として大切にしようという意図があったのかもしれません。
【結論(あくまで推測)】
真相は定かではありませんが、結果として五重塔がこの地に残り続けたことで、後に瑠璃光寺が移築され、現在まで大切に守られてきました。もし五重塔も萩へ移されていたら、今のような形で「日本三名塔」として親しまれることはなかったかもしれません。歴史の巡り合わせの妙を感じさせるエピソードです。
【編集メモ】五重塔の造営開始年・完成年については資料により若干の差異があるため、本記事では複数の主要な出典で共通する年代・経緯を採用しています。また五重塔がこの地に残された具体的な経緯についても、明確な一次史料の記述が確認できなかったため、謎と考察コーナーにて推測として扱っています。

コメント