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【仏様図鑑】善無畏(ぜんむい)-大日経を訳した真言の祖師、唐を出なかった三蔵の日本渡来伝説の謎

仏様図鑑
善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)は、インドの王家に生まれ、80歳ごろに唐へ来た密教のお坊さんです。「開元三大士」の一人で、真言宗のいちばん大切なお経の一つ『大日経』(だいにちきょう)を漢文に訳しました。

この記事でわかること

  • 善無畏とはだれか。大日経と求聞持法(ぐもんじほう)を訳した祖師
  • 鉢の水を小刀でかきまぜ、嵐をよんだ雨ごいの伝説
  • 【謎】唐を出た記録のない善無畏が、なぜ日本に来たと伝わるのか

空海と、海の向こうで見えない糸でつながる人です。

01. 善無畏の基本情報

善無畏(ぜんむい)基本情報
分類 祖師(そし)。密教のお経を訳した訳経僧(やっきょうそう)
読み方 ぜんむい(善無畏三蔵〈さんぞう〉・無畏三蔵とも呼ばれます)
梵名(ぼんみょう) シュバカラシンハ(Śubhakarasiṃha)。音をうつした漢字では「輸波迦羅(ゆばから)」
生没年 637〜735年(数え年99歳)
出身 インドの王家。東インドの烏荼国(うだこく。今のオリッサ)とも、中インドのマガダ国ともいわれます(諸説あり)
師 ナーランダー寺の達磨掬多(だるまきくた)
おもな弟子 一行(いちぎょう)など
真言八祖での位置 伝持(でんじ)の八祖の第五祖(伝持=教えを広め伝えた人間の祖師8人)
真言・種子字・ご縁日 決まったものは確認できませんでした
💡 出典:コトバンク「善無畏」(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・ブリタニカ国際大百科事典)、Wikipedia「善無畏」、『宋高僧伝』巻2「善無畏伝」(中国語版Wikisourceの本文で確認)。
亡くなった日は、開元23年(735年)の10月7日(宋高僧伝)・10月17日(ブリタニカ)・11月7日(Wikipedia)と資料で分かれます(いずれも旧暦)。

02. 善無畏三蔵(シュバカラシンハ)とは? ― 大日経を訳した伝持の八祖

① 一言まとめ

善無畏は、王の位をゆずって出家し、年をとってから唐へわたった密教の僧です。『大日経』や『虚空蔵求聞持法』(こくうぞうぐもんじほう)を訳しました。のちに空海が学んだ密教の、大きな柱の一つを運んだ人です。

② 由来・生涯

『宋高僧伝』によると、善無畏はお釈迦さまの叔父・甘露飯王(かんろぼんのう)の子孫とされます。国の争いで分かれた、烏荼国の王家の生まれでした。

なんと13歳で王になりますが、兄たちとの争いのあと、国を兄にゆずりました。そして出家し、インド各地を修行して回ります。

やがて、インドでいちばん大きな学問寺・ナーランダー寺で、達磨掬多に出会いました。善無畏はこの人を師とあおぎ、密教を受けつぎます。

その後、師にすすめられて東へ向かい、中央アジアをこえて、716年(開元4年)に長安に着きました。生まれ年から数えると、80歳ごろのことです。

唐の玄宗(げんそう)皇帝は、善無畏を大切にむかえました(07の伝説)。善無畏は717年に『虚空蔵求聞持法』を訳します。724年には洛陽(らくよう)の福先寺(ふくせんじ)で、『大日経』を訳しはじめました。このとき、弟子の一行が筆をとって書きとめました。

732年、善無畏は故郷へ帰りたいと願い出ましたが、皇帝は許しませんでした。735年(開元23年)、善無畏は亡くなりました。数え年99歳でした。『宋高僧伝』の題名から、洛陽の聖善寺(しょうぜんじ)の僧だったとわかります。

亡くなってから5年後の740年、遺体は洛陽の南、龍門(りゅうもん)の西山にある広化寺(こうけじ)の庭に葬られました。『宋高僧伝』は、修行の力で「全身が朽ちなかった」と伝えます。

💡 出典:『宋高僧伝』巻2「唐洛京聖善寺善無畏伝」(原文「享齡九十九,僧臘八十」〈数え年99歳、出家して80年〉、「二十八年十月三日,葬於龍門西山廣化寺之庭」)、コトバンク「善無畏」。
大日経を訳した年は、724年(宋高僧伝。訳しはじめた年)と725年(世界大百科事典)の両方の説明があります。

③ 姿の特徴

  • 僧の姿:頭を丸め、袈裟(けさ)を着た老僧の姿でえがかれます
  • 東寺の祖師像:東寺の国宝「真言七祖像」のうち、805年に唐で描かれた5幅の一つが善無畏です。空海が日本へ持ち帰りました
  • 印相・光背・台座:祖師なので、決まった印相や台座はありません
  • 持物:東寺の七祖像の善無畏が何を持ち、どんな手の形をしているかは、今回は確認できませんでした
💡 出典:真言七祖像は加藤詩乃氏の研究発表の要旨(筑波大学)とJAANUS「Shingon hasso」。

03. 善無畏にまつわるご利益 ― 記憶力、雨、長寿

📚 記憶力・学業
🌧️ 雨ごい
🍵 長寿
🌏 新しい挑戦
  • 記憶力・学業:見聞きしたことを忘れなくなるという修行法『虚空蔵求聞持法』を訳しました
  • 雨ごい:ひでりのとき、鉢の水から雨をよんだと伝わります(07の物語)
  • 長寿:数え年99歳まで生きました
  • 新しい挑戦:80歳ごろに国をこえて旅をし、そこから大きな仕事をなしとげました

ご利益の根拠:善無畏に決まったご利益があると書いた資料は、確認できませんでした。ここでは、生涯と伝説から紹介しています(筆者の見方)。

こんな人におすすめ:試験勉強をしている人。「もう年だから」と新しいことをあきらめかけている人。

04. 善無畏と関係の深い仏様・人物 ― 開元三大士と大日経

一行(いちぎょう)善無畏の弟子。大日経の訳を書きとめ、その講義を『大日経疏』(だいにちきょうしょ)にまとめたとされます
金剛智(こんごうち)同じころ唐に来て『金剛頂経』の系統を伝えた僧です
不空(ふくう)金剛智の弟子。善無畏・金剛智とあわせて「開元三大士」と呼ばれます
大日如来(だいにちにょらい)『大日経』の中心の仏。胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)の中心にえがかれます
虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)『虚空蔵求聞持法』で祈る菩薩です
歓喜天(かんぎてん)善無畏の訳とされる書物にも登場します(くわしくは歓喜天の記事へ)
💡 開元三大士の中で、善無畏はいちばん早く、いちばん年をとってから唐に来ました(716年・80歳ごろ)。金剛智が着いたのはその3年後です。弟子の一行は、善無畏と金剛智の両方に学びました。そのため、二つの系統の教えは、唐の都で早くから出会っていたことになります(筆者の見方)。

05. 善無畏ゆかりの場所・その教えに出会える寺

  • 東寺(教王護国寺〈きょうおうごこくじ〉。京都市南区):唐で描かれた善無畏の像をふくむ国宝「真言七祖像」が伝わります。公開の時期は、東寺の公式サイトで確かめてください
  • 久米寺(くめでら。奈良県橿原市):空海が東塔で『大日経』を感得(かんとく。見つけ出すこと)したと伝わる寺です。善無畏がこの寺に大日経を納めたという伝説もあります(10の謎へ)。真言宗御室派、本尊は薬師如来。近鉄橿原神宮前駅から歩いて5分ほどです(旅行メディア)。拝観の情報は寺に問い合わせてください
  • 縁城寺(えんじょうじ。京都府京丹後市):717年に善無畏が千手観音を安置したという伝説が残る寺です。ただし、この縁起は後世に作られたものとみられています(Wikipedia「縁城寺」。10の謎へ)
  • 弘明寺(ぐみょうじ。横浜市南区):善無畏がこの地を清めたという伝説が残る、高野山真言宗の寺です(伝説の年は720年・721年の諸説。10の謎へ)
  • 龍門(りゅうもん。中国・河南省洛陽市):寺ではなく葬地です。善無畏が葬られた広化寺があった西山です(宋高僧伝)
💡 久米寺には、東塔の大きな礎石(大塔跡)と、仁和寺から移した重要文化財の多宝塔が残ります(Wikipedia「久米寺」)。縁城寺・弘明寺の拝観は、それぞれの寺の案内で確かめてください。

06. 善無畏の見分け方ガイド

✅ これがあれば善無畏かも?チェックリスト

  • □ 真言宗の「真言八祖像」で、「善無畏」の名札がある(伝持の八祖の並び)
  • □ お経の題の下に「善無畏訳」とある(『大日経』『虚空蔵求聞持法』など)
  • □ 東寺の真言七祖像のうち、唐で描かれた5幅の一つに入っている

まちがえやすい人とのちがい

  • 金剛智とのちがい:善無畏は陸の道(中央アジア)で、金剛智は海の道で唐に来ました。お経の題の下の訳者名を見ると見分けられます
  • 一行とのちがい:一行は唐の僧で、善無畏の弟子です。インドから来た善無畏とは出身がちがいます
  • 付法の八祖とのちがい:善無畏は「伝持の八祖」には入りますが、「付法の八祖」には入りません
💡 伝持の八祖は、龍猛・龍智・金剛智・不空・善無畏・一行・恵果・空海の順です。善無畏は、不空と、弟子の一行のあいだに置かれます。

07. 善無畏の物語 ― 鉢の中の小さな赤い龍

ある年、唐の都はひどいひでりでした。皇帝は家来の高力士(こうりきし)を急いで送り、善無畏に雨ごいをたのみます。

ところが、善無畏はことわりました。「このひでりは、そういうめぐり合わせなのです。むりに龍をよんで雨を降らせれば、雨はかならず荒れます。かえって人を傷つけるだけです」。

それでも皇帝は言いました。「人々は暑さに苦しんでいる。風や雷になってもかまわない」。善無畏は、しかたなく引き受けました。

役人たちは、旗やのぼり、ほら貝、鈸(はち。シンバルのような楽器)などの雨ごいの道具をずらりと並べます。善無畏は笑って言いました。「これでは雨はよべません」。そして、すぐに片づけさせました。

善無畏は、鉢に水をくみ、小刀でかきまぜながら、インドのことばで呪文を何百回もとなえました。すると、指ほどの太さの、赤い龍のようなものがあらわれます。龍は頭をもたげて水面をのぞき、また鉢の底へもぐっていきました。

やがて鉢から白い気が立ちのぼります。「急いで帰りなさい。雨が来ます」。高力士が馬で走ると、空が暗くなり、大風と雷雨がおそってきました。雨は馬を追いかけるように強くなり、町の大きな木がたくさんぬけたといいます。

──そう、善無畏が先に言ったとおり、よばれた雨は荒れたのです。

📖 出典:『宋高僧伝』巻2「善無畏伝」(中国語版Wikisourceの本文で確認)。原文には「若苦召龍致雨,必暴」(むりに龍をよべば必ず荒れる)、「其大如指,赤色矯首」(指ほどの大きさで、赤く、頭をもたげる)とあります。会話の言い回しは、筆者がやさしく言いかえました。

【伝説】皇帝が夢で見た僧

開元のはじめ、玄宗は夢で、すがたのふつうでない僧に会いました。皇帝は自分で筆をとってその姿を描き、宮殿の壁にのこしたといいます。のちに善無畏が長安に着くと、その姿は夢の僧とぴったり同じでした。皇帝は「縁がある」とよろこび、善無畏を宮中の道場の教主にむかえたと伝わります(『宋高僧伝』。原文「與夢合符,帝悅有緣」)。

08. 善無畏のまとめと関連記事

この記事でわかったこと

  • 善無畏は、インドの王家に生まれ、80歳ごろの716年に長安に着いた密教の僧
  • 『大日経』と『虚空蔵求聞持法』を訳し、真言の伝持の八祖の一人とされる
  • 唐を出た記録はないのに、日本には「善無畏が来た」という伝説がいくつも残る

八祖像を見かけたら、80歳ごろに唐へ来て大日経を訳した、いちばん年長の祖師をさがしてみてください。

09. ゆる仏様トーク ― 善無畏編

🍵 ゆる仏様トーク①(たとえ話)

善無畏は、今でいえば「80歳で海外に移り住み、そこで一生の代表作を書きあげた人」です。しかも、王の位をゆずったあとの、第二の人生でした。

🍵 ゆる仏様トーク②(ツッコミ)

皇帝の役人がずらりと並べた雨ごいの道具を、「これではだめ」と笑って片づけさせる。使ったのは、鉢と小刀だけ。いちばんの大がかりな仕かけは、道具ではなく、本人の中にあったのです。80歳をこえたおじいさんに笑われた役人たちの顔を思うと、ちょっと気の毒になります。

🍵 ゆる仏様トーク③(ひとこと)

善無畏が、「もう年だから」と言う人に声をかけるとしたら――

「旅に出るのに、おそすぎることはありません。大切なものを運ぶ人は、いくつでも道の途中にいるのです。」

※善無畏の言葉そのものではなく、その生涯をもとにイメージしたセリフです。

10. 善無畏の謎 ― 唐を出なかった三蔵が、なぜ日本に来たと伝わるのか

【謎】唐を出た記録のない善無畏が、なぜ日本の寺々に「来た」と伝わるのか
【事実の整理】
① 『宋高僧伝』の善無畏は、716年に長安に着いてから、735年に亡くなるまで、唐で訳経を続けています。717年には、長安の菩提院(ぼだいいん)で求聞持法を訳していました。さらに732年、善無畏は故郷のインドへ帰りたいと願い出ますが、皇帝に許されませんでした(原文「求還西域,優詔不許」)。唐を出て海をわたった話は出てきません。
② ところが日本には、善無畏が来たという伝説がいくつもあります。Wikipedia「善無畏」は、次のような話をあげています。ただし、どれも公の記録にはない、とも書いています。

  • 717年:縁城寺(えんじょうじ)に千手観音を安置した
  • 718年:安居寺(あんごじ)を開いた
  • 718年:久米寺に仏舎利(ぶっしゃり。お釈迦さまの遺骨)と『大日経』を納めて塔を建てた
  • 720年:弘明寺(ぐみょうじ)のもとになった地を清めた(弘明寺の寺伝では721年。諸説あり)
  • 年不明:福岡県篠栗町(ささぐりまち)の若杉山の話

久米寺の大日経の伝説は、久米寺の一般的な紹介には出てこない話です。

③ 一方、善無畏が『大日経』を漢文に訳したのは、724〜725年です(01の出典)。718年に久米寺へ納めたという伝説は、漢訳される前の年です。しかも、訳のもとになったインドの原典の大部分は、唐の僧・無行(むぎょう)がインドで集めたものとされます(世界大百科事典)。善無畏が原典を日本へ運んだと読むのも、むずかしそうです。
④ その久米寺は、空海が東塔で『大日経』を感得したと伝わる寺です(Wikipedia「久米寺」・旅行メディア)。
⑤ 空海は若いころ、『虚空蔵求聞持法』の修行をしました。阿波(あわ)の山や土佐の室戸の岬にこもったことを、空海は自分で『三教指帰』(さんごうしいき)に書いています(Wikipedia「虚空蔵求聞持法」)。この求聞持法も、善無畏の訳です。
⑥ そして718年、唐で善無畏から密教を学んだと伝わる日本の僧・道慈(どうじ)が、日本へ帰ってきました。道慈は702年に唐へわたり、帰国後は大安寺の移転にかかわった三論宗の僧です(日本大百科全書・精選版日本国語大辞典)。
【私の考察】
日本の伝説は、善無畏を「空海の見えない最初の先生」にしようとしたのではないか、と私は考えます。
なぜなら、空海が密教に出会った二つの大事な場面に、どちらも善無畏の訳したお経があるからです。一つは、若いころの求聞持法の修行です(⑤)。もう一つは、久米寺の東塔での大日経との出会いです(④)。空海が唐にわたって恵果に会う前から、その手には善無畏の言葉がありました。
では、なぜ大日経は久米寺の塔の中にあったのか。この問いに答えるには、だれかが運んでこなければなりません。いちばんふさわしいのは、訳した本人です。だから伝説は、善無畏その人を日本へ来させ、塔に大日経を納めさせたのでしょう。
しかも、伝説の年は717〜721年、つまり奈良時代の養老年間に集まっています(②)。けれどこのころ、善無畏は長安で求聞持法を訳していたと記録されています(①)。伝説の年は、歴史の記録とまっすぐぶつかるのです。③の大日経の年の食いちがいとあわせると、この話は歴史の記録ではなく、「出会いのわけ」を語る物語だと考えられます。
では、なぜ養老年間なのか。ここで⑥が手がかりになります。718年は、善無畏に学んだと伝わる道慈が日本に帰ってきた年です。善無畏本人は海をわたりませんでした。けれど、その教えを受けた人は、この年にたしかに日本へ来ています。弟子が運んだという事実が、語りつがれるうちに「本人が来た」という伝説に変わったのかもしれません。故郷へ帰ることさえ許されなかった善無畏を、伝説は海の向こうの日本へ旅させたのです。
【結論(あくまで推測)】
空海は、唐へわたる前に、善無畏の訳したお経と出会っていました。善無畏が日本に来たという伝説は、そのことを「訳した本人が運んでくれた」と語りなおしたものではないか。そして伝説の年には、善無畏に学んだ道慈が帰国した718年の記憶が重なっているのではないか。私はそう考えます。あくまで私の考察です。あなたはどう思いますか?
💡 出典:①は『宋高僧伝』巻2(中国語版Wikisource)。②はWikipedia「善無畏」(日本での伝説の節)。③は01の出典。④はWikipedia「久米寺」と旅行メディア「ニッポン旅マガジン」。⑤はWikipedia「虚空蔵求聞持法」。⑥はコトバンク「道慈」。②の久米寺の話はWikipedia「善無畏」によります(Wikipedia「久米寺」・旅行メディアには記載なし)。③の無行はコトバンク「善無畏」(世界大百科事典)。
伝説が生まれた時期や、だれが語りはじめたかを書いた資料は見つかりませんでした。道慈と伝説を結びつけたのは筆者の推測です。空海が久米寺で大日経を感得した年も、今回は確認できませんでした。

11. 善無畏データベース早見表

項目 内容
分類 祖師(訳経僧・伝持の八祖の第五祖)
読み方 ぜんむい(善無畏三蔵)
梵名 シュバカラシンハ(Śubhakarasiṃha)
生没年 637〜735年(数え年99歳)
出身 インドの王家(烏荼国・マガダ国など諸説あり)
師・弟子 師:達磨掬多/弟子:一行など
来唐 716年に長安(80歳ごろ)
おもな訳経 大日経(7巻)・虚空蔵求聞持法など
真言・種子字・ご縁日 決まったものは確認できず
主なご利益(生涯から) 記憶力・学業・雨ごい・長寿(筆者の見方)
ゆかりの場所 東寺(真言七祖像)・久米寺(伝説)・龍門(葬地)

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