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【仏様図鑑】親鸞(しんらん)-親鸞聖人、六角堂の夢と「賀茂川の魚に」と言った浄土真宗の宗祖の謎

(写真準備中)

親鸞聖人の肖像画の写真(準備中)

親鸞(しんらん)は、鎌倉時代のお坊さんです。師の法然から念仏の教えを受けつぎ、浄土真宗の宗祖(しゅうそ。宗派を開いた人)とされます。

この記事でわかること

  • 親鸞とはだれか。90年の生涯と、報恩講(ほうおんこう)の日
  • 六角堂で95日目の明け方に見た夢の話
  • 【謎】「わたしが死んだら賀茂川(かもがわ)の魚に」と言った親鸞の墓が、なぜ本願寺のはじまりになったのか

何も持たないと言った人のもとに、なぜ多くの人が集まったのでしょうか。

01. 親鸞(親鸞聖人)の基本情報

親鸞(しんらん)基本情報
分類 祖師(そし)。鎌倉時代の僧、浄土真宗の宗祖
読み方 しんらん
別名 親鸞聖人(しんらんしょうにん)・見真大師(けんしんだいし)・愚禿釈親鸞(ぐとくしゃくしんらん。自分での名乗り)
それまでの名前 範宴(はんねん)→綽空(しゃっくう)→善信(ぜんしん)→親鸞(改名の年と順番には諸説あり)
梵名(ぼんみょう) なし(日本の僧のため)
生没年 1173年(承安3年)〜1263年1月16日(弘長2年11月28日)。数え年90歳
生まれ 京都・日野(今の京都市伏見区。法界寺のあたり)。父は日野有範(ひのありのり)
おもな著作 『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』・『正信偈(しょうしんげ)』(『教行信証』の中の詩)など
師 法然(ほうねん)
真言 なし(浄土真宗では「南無阿弥陀仏」の念仏をとなえます)
種子字 決まったものは確認できませんでした
ご縁日(命日) 11月28日(旧暦)。新暦では1月16日。この日を結びの日として「報恩講」が営まれます
💡 出典:Wikipedia「親鸞」、東本願寺(真宗本廟)公式「報恩講」特設サイト。見真大師の名は1876年(明治9年)に明治天皇からおくられました。真宗大谷派は1981年、浄土真宗本願寺派は2008年に、この大師号を使わないことにしています(Wikipedia)。
📅 報恩講(ほうおんこう)の日程
・東本願寺(真宗本廟):2026年11月21日(土)〜28日(土)(東本願寺公式)
・西本願寺:毎年1月9日〜16日の「御正忌報恩講(ごしょうきほうおんこう)」。2027年の細かな時刻は、公式サイトで確かめてください
報恩講は、親鸞の命日に合わせて営まれる、浄土真宗でいちばん大切な法要です。

02. 親鸞聖人とは? ― 浄土真宗の宗祖、90年の生涯

① 一言まとめ

親鸞は、「阿弥陀如来のはたらきにまかせる心こそが大切だ」と説いた人です。そして自分を「僧でも俗人でもない」と言い、家族とくらしながら念仏を伝えました。

② 由来・生涯

親鸞は1173年、京都の日野に生まれました。9歳のとき(1181年)、青蓮院で慈円(じえん)のもとで出家し、「範宴」と名のります。

それから約20年、比叡山で修行しました。横川(よかわ)の常行堂(じょうぎょうどう)で、念仏をとなえつづける「堂僧(どうそう)」をつとめたといいます(Wikipedia)。

でも、心の迷いは晴れませんでした。1201年、29歳の親鸞は山をおり、京都の六角堂に百日間こもります。そして95日目の明け方、夢のお告げを受けました(07でくわしく)。

親鸞はそのあと、吉水(よしみず)の法然をたずねて弟子になります。法然からは「綽空」という名をもらいました。

1207年、念仏の教えへの取りしまり(承元の法難〈じょうげんのほうなん〉)で、親鸞は越後(今の新潟県上越市)へ流されます。このとき「藤井善信(ふじいよしざね)」という俗人の名をつけられました。

ここから親鸞は、自分を「非僧非俗(ひそうひぞく。僧でもなく俗人でもない)」と言い、「愚禿(ぐとく)親鸞」と名のるようになります(Wikipedia)。

1211年にゆるされたあと、親鸞は妻の恵信尼(えしんに)や子どもたちと関東へ向かいました。常陸(ひたち)の稲田(いなだ。今の茨城県笠間市)などで、約20年にわたって念仏を伝えます。主著『教行信証』の草稿も、稲田で書かれたと伝わります。

60代のはじめごろ、親鸞は京都へもどりました(年や理由は諸説あり)。84歳のときには、教えをゆがめて伝えた息子の善鸞(ぜんらん)と、親子の縁を切っています(1256年)。

そして1263年1月16日(弘長2年11月28日)、京都で90歳(数え年)の生涯を終えました(Wikipedia)。

③ 姿の特徴

  • 肖像画:鎌倉時代に墨でえがかれた国宝「鏡御影(かがみのごえい)」がよく知られます。西本願寺の所蔵で、専阿弥陀仏(せんあみだぶつ)の筆、覚如の賛(さん。絵にそえた文)とされます(文化遺産オンライン・京都国立博物館の展覧会資料)。ほかに国宝の「安城御影(あんじょうのごえい)」の副本が西本願寺に伝わります(京都国立博物館の展覧会資料)
  • お寺での姿:東本願寺・西本願寺では、御影堂(ごえいどう)に親鸞の御真影(ごしんねい。木の像)がまつられます
  • 持ち物:墨染めの衣に、数珠を手にした僧の姿でえがかれることが多い、とされます。決まった持ち物は確認できませんでした

03. 親鸞聖人のご利益 ― 悩む人へのよりどころ・家族・念仏

🪷 極楽往生
🫂 悩みや弱さを受けとめる
🏠 家族とくらす中の信仰
📿 念仏・報恩
  • 極楽往生:阿弥陀如来のはたらきにまかせることで、だれもが浄土に生まれると説きました
  • 悩みや弱さを受けとめる:『歎異抄(たんにしょう)』には「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉が伝わります(Wikipedia「歎異抄」)
  • 家族とくらす中の信仰:妻や子とくらしながら念仏を伝えた、在家(ざいけ)の仏教の手本とされます
  • 念仏・報恩:浄土真宗では、念仏は「救われたことへのお礼(報恩)」としてとなえるものとされます

ご利益の根拠:浄土真宗では、お願いごとをかなえる「ご利益」を祈ることはすすめられません。ここでは、親鸞の生涯と教えから、心のよりどころとして紹介しています(筆者の見方)。

こんな人におすすめ:自分の弱さに悩んでいる人。家族や仕事を大切にしながら、仏教にふれたい人です。

04. 親鸞と関係の深い仏様・人物 ― 法然・聖徳太子・七高僧

阿弥陀如来(あみだにょらい)浄土真宗のご本尊。親鸞が「すべてをまかせる」と説いた仏です
法然(ほうねん)親鸞の師。『正信偈』では「本師源空(げんくう)」とよばれます
聖徳太子(しょうとくたいし)親鸞があつくうやまった人。六角堂は太子の創建と伝わります
覚信尼(かくしんに)親鸞の末娘。父の遺骨をおさめる大谷廟堂を建てました(10)
七高僧(しちこうそう)親鸞が教えの流れとしてあげた7人。龍樹(りゅうじゅ)・天親(てんじん)・曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)・善導(ぜんどう)・源信(げんしん)・法然です
恵信尼(えしんに)親鸞の妻とされる人。1921年に西本願寺で見つかった手紙が、親鸞の生涯を知る手がかりになりました
💡 「親鸞」という名前が、七高僧の天親と曇鸞からとられたとされる話は、曇鸞の記事でくわしく紹介しています。

05. 親鸞聖人に出会える寺と報恩講 ― 本願寺・六角堂・青蓮院

  • 東本願寺(真宗本廟。京都市下京区):浄土真宗(真宗大谷派)の本山です。御影堂に親鸞の御真影がまつられます。報恩講は2026年11月21日〜28日(公式)。くわしくは東本願寺の記事へ
  • 西本願寺(京都市下京区):浄土真宗本願寺派の本山です。親鸞の娘・覚信尼(かくしんに)が建てた廟堂(びょうどう。お墓のお堂)にはじまるとされます。御正忌報恩講は毎年1月9日〜16日。くわしくは西本願寺の記事へ
  • 六角堂(頂法寺〈ちょうほうじ〉。京都市中京区):29歳の親鸞が百日こもり、夢のお告げを受けたお堂です。くわしくは六角堂の記事へ
  • 青蓮院(京都市東山区):9歳の親鸞が出家したお寺です。くわしくは青蓮院の記事へ
  • 日野誕生院(ひのたんじょういん。京都市伏見区):親鸞が生まれた地とされる場所です。拝観の情報は確認できませんでした
💡 報恩講の期間は、お寺の中がとても混みあいます。法要の時刻や、参拝できる場所は、それぞれのお寺の公式サイトで確かめてください。

06. 親鸞聖人の見分け方ガイド

✅ これがあれば親鸞聖人かも?チェックリスト

  • □ 本願寺の「御影堂」にまつられている僧の像
  • □ 名札や題に「親鸞聖人」、古い額や資料なら「見真大師」とある
  • □ 『正信偈』を書いた人として紹介されている

まちがえやすい人とのちがい

  • 法然とのちがい:法然は浄土宗の開祖で、親鸞の師です。知恩院など浄土宗のお寺でまつられるのは、ふつう法然です
  • 蓮如とのちがい:蓮如(れんにょ)は室町時代の本願寺の僧で、親鸞の子孫です。本願寺を大きくした人として知られます
  • 一遍とのちがい:一遍は時宗の開祖です。踊り念仏で全国を歩いた人で、親鸞とは別の人です

07. 親鸞の物語 ― 六角堂、95日目の夢

比叡山で約20年。親鸞は、まじめに修行をつづけました。それでも、「この自分は本当に救われるのか」という迷いは消えませんでした。

1201年、29歳の親鸞は山をおります。向かったのは、京都の町の中にある六角堂でした。聖徳太子が建てたと伝わるお堂です。親鸞はここに、百日間こもると決めました。

そして95日目の明け方。夢の中に、救世菩薩(くせぼさつ)が現れたと伝わります。救世菩薩は、聖徳太子、またはそのもとの姿の観音さまと受けとめられています(六角堂のご本尊は如意輪観音です)。菩薩は、こんな意味の偈(げ。詩)を告げたといいます。

「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」
(修行する人が、前の世からの縁で女性と結ばれることがあるなら、わたしがその女性の身となろう。一生をかざり、命の終わりには極楽へみちびこう。)

お坊さんが妻をもつことは、仏教のきまり(戒律)では許されていませんでした。この夢は、「ふつうの人のくらしの中でも、仏は見すてない」というしるしだったと受けとめられています。

夢のあと、親鸞は吉水の法然のもとへ通い、弟子になりました。のちに親鸞は、妻とともにくらしながら念仏を伝えることになります。

──そう、親鸞の新しい道は、山の上ではなく、町の真ん中のお堂からはじまったのです。

📖 出典:Wikipedia「親鸞」(百日参籠の95日目の暁、救世菩薩の示現、偈の文)。この夢告は『親鸞夢記』や『恵信尼消息』に伝わるとされます。現代語の意味は筆者がやさしく書いたもので、偈の受けとめ方には諸説あります。夢の様子は伝承をふくみます。

08. 親鸞のまとめと関連記事

この記事でわかったこと

  • 親鸞は法然の弟子で、浄土真宗の宗祖とされる鎌倉時代の僧
  • 六角堂の夢から法然のもとへ。流罪のあとは「僧でも俗人でもない」立場で念仏を伝えた
  • 命日に合わせた報恩講は、東本願寺で11月21日〜28日、西本願寺で1月9日〜16日

本願寺の大きな御影堂に立ったら、「何も持たない」と言った人のことを思い出してみてください。

09. ゆる仏様トーク ― 親鸞聖人編

🍵 ゆる仏様トーク①(たとえ話)

親鸞は、今でいえば「名門校で長く勉強したあと、町の教室で心にひびく先生に出会った人」です。20年の学びがあったからこそ、ひとりの先生の言葉が胸にひびいたのかもしれません。

🍵 ゆる仏様トーク②(ツッコミ)

範宴、綽空、善信、親鸞、そして流罪のときの藤井善信。人生で名前が5つ。──そう、名前が変わるたびに、親鸞の道も大きく曲がっていったのです。

🍵 ゆる仏様トーク③(ひとこと)

親鸞が、「自分はだめな人間だ」と落ちこむ人に声をかけるとしたら――

「わたしも同じです。だからこそ、あなたも見すてられないのですよ。」

※親鸞の言葉そのものではありません。自分を「愚禿(おろかな者)」と名のった親鸞の姿をもとに、イメージしたセリフです。

10. 親鸞聖人の謎 ― 「賀茂川の魚に」と言った人の墓が、なぜ本願寺になったのか

【謎】「賀茂川の魚に」と言った親鸞の墓が、なぜ本願寺になったのか
【事実の整理】
① 親鸞のひ孫の覚如(かくにょ)は、『改邪鈔(がいじゃしょう)』第十六条に、親鸞のこんな言葉を書きのこしています。「某(それがし)閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」(わたしが目をとじたら、賀茂川に入れて魚にあたえなさい)。
② 覚如はつづけて、これは「この肉身をかろんじて仏法の信心を本とすべき」ことをあらわした言葉だ、と説明します。そして、お葬式を一大事にするべきではない、と書きました。
③ 『歎異抄』第六条には、「親鸞は弟子一人ももたず」という言葉が伝わります。人が念仏するのは阿弥陀如来のはたらきで、自分の手がらではない、という意味です(Wikipedia「歎異抄」)。
④ 実際には、親鸞の遺骨は川には流されませんでした。東山の大谷に葬られています(Wikipedia「大谷本願寺」)。
⑤ 親鸞の死から10年後の1272年。娘の覚信尼は、関東の門弟(もんてい。教えを受けた人々)の協力を得て、遺骨を吉水の北へ移し、大谷廟堂を建てました(同)。
⑥ 覚信尼は、廟堂の土地を寄進しました。そして、各地にちらばる門弟に代わって、自分の子孫が廟堂を守る「留守職(るすしき)」となることを定めたとされます(コトバンク「覚信尼」。建てたいきさつや寄進の年は、辞典によって説が分かれます)。
⑦ その廟堂を、1321年に「本願寺」と名のるお寺にしたのが、①の言葉を書きのこした覚如でした(Wikipedia「大谷本願寺」)。
【私の考察】
親鸞は、弟子を「自分のもの」と言いませんでした(③)。自分の体さえ、魚にあたえてよいと言った、と覚如は伝えています(①)。つまり親鸞は、何ひとつ「自分のもの」を持とうとしなかった人です。
だからこそ、その廟堂も「親鸞家の墓」にはなりませんでした。門弟の協力で建ち(⑤)、家族は「留守」、つまり門弟に代わって守る役目でした(⑥)。持ち主のいない場所は、教えを聞いたみんなの集まる場所になります。
そして本願寺を開いた覚如は、「体より信心が本」という親鸞の言葉を、わざわざ書きのこしました(①②)。覚如にとって大事なのは、遺骨そのものより、そこに集まる人々の信心だったのかもしれません。
ただし覚如は、留守職を一族で受けつぐ形を強め、関東の門弟と意見がぶつかったとも言われます。それでも、「みんなが集まる場所」という性格は、のちの本願寺に受けつがれていったと私は考えます。
【結論(あくまで推測)】
親鸞が何も「自分のもの」にしなかったからこそ、その墓はだれか一人のものではなく、念仏する人みんなの場所になった。だから、小さな廟堂は大きな本願寺へと育ったのではないか。あくまで私の考察です。あなたはどう思いますか?
💡 出典:①②は覚如『改邪鈔』第十六条(寺院の法話ページの引用で確認。『改邪鈔』は1337年の成立とされます)、③はWikipedia「歎異抄」、④⑤⑦はWikipedia「大谷本願寺」、⑥はコトバンク「覚信尼」。廟堂のはじまりの話は、西本願寺の記事でもふれています。「何も持たなかったから、みんなの場所になった」という読み方は、筆者の考察です。

11. 親鸞聖人データベース早見表

項目 内容
分類 祖師(鎌倉時代の僧・浄土真宗の宗祖)
読み方 しんらん(親鸞聖人・見真大師)
梵名 なし(日本の僧のため)
生没年 1173年〜1263年(弘長2年11月28日)・数え年90歳
師 法然
おもな著作 『教行信証』・『正信偈』など
真言・種子字 なし(念仏「南無阿弥陀仏」)
命日・行事 11月28日(旧暦)・1月16日(新暦)。報恩講(東本願寺 2026年11月21日〜28日/西本願寺 1月9日〜16日)
心のよりどころ(教えから) 極楽往生・悩みや弱さを受けとめる・家族とくらす中の信仰(筆者の見方)
出会える場所 東本願寺・西本願寺・六角堂・青蓮院

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