この記事でわかること
- 阿難が「多聞第一」と呼ばれた理由と、女性の出家を取りなした話
- 教えをいちばん多く聞いた阿難が、悟るのは最後のほうだったという物語
- 【謎】お盆の施餓鬼(せがき)のもとになった阿難の話は、もとは「自分の命を延ばす」話だった。それがなぜ日本では「縁のない霊」の供養になったのか
お経のはじめの「如是我聞(にょぜがもん)=わたしはこう聞きました」。その「わたし」とされる人の物語です。
01. 阿難(阿難陀)の基本情報
| 分類 | 羅漢・祖師(らかん・そし/十大弟子の一人) |
| 読み方 | あなん |
| 別名 | 阿難陀(あなんだ)、阿難尊者(あなんそんじゃ)。「歓喜(かんぎ)」「慶喜(きょうき)」と訳されます |
| 梵名(ぼんみょう) | アーナンダ(Ānanda)。パーリ語でも同じです。意味は「よろこび」 |
| 家族 | お釈迦さまのいとことされます。父の名は経典によってちがいます(斛飯王〈こくぼんのう〉・白飯王〈びゃくぼんのう〉など。諸説あり)。提婆達多(だいばだった)の弟とする伝えもあります |
| 称号 | 多聞第一(たもんだいいち)。お釈迦さまの説法をいちばん多く聞き、よく覚えていたことによります |
| 真言・種子字(しゅじじ)・ご縁日 | 確認できる資料では見つからなかった(本記事では省略) |
02. 阿難とは? ― お釈迦さまの説法をいちばん多く聞いた十大弟子
① 一言まとめ
阿難は、お釈迦さまの身のまわりの世話をした弟子です。いつもそばにいたので、説法をいちばん多く聞きました。仏様ではなく、実在したとされるお坊さんです。
② 生涯と経典上の位置づけ
名前の「アーナンダ」は「よろこび」という意味です。『大智度論(だいちどろん)』では、生まれたことを知らされた浄飯王(じょうぼんのう=お釈迦さまの父)が、大いによろこんだからだとされます。
生まれた日にも、ふしぎな伝えがあります。お釈迦さまが悟りを開いた夜に生まれた、という話です。いっぽうパーリ語の伝えでは、お釈迦さまと同じ日に生まれたとされます(諸説あり)。
阿難は、阿那律(あなりつ)など釈迦族の若者たちと出家しました。のちに、お釈迦さまの侍者(じしゃ=おそばづきの世話役)に選ばれます。お釈迦さまが55歳ごろのことで、亡くなるまで約25年つかえたとされます。
阿難の大きな仕事の一つが、女性の出家の取りなしです。お釈迦さまの育ての母・摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)が、出家を願い出ました。お釈迦さまは、はじめは許しませんでした。
そこで阿難が、「女性も悟ることができますか」とたずねます。そして、育ての母の恩を挙げて願いました。こうして女性の出家者(比丘尼〈びくに〉)の教団が生まれたと伝わります。
お釈迦さまが亡くなったあと、弟子たちは教えを確かめ合う会議を開きました(第一結集〈だいいちけつじゅう〉)。このとき経(教え)を声に出して唱えたのが阿難です。議長役の迦葉(かしょう)のくわしい話は、迦葉の記事にまとめています。
お経のはじめによくある「如是我聞(にょぜがもん)」。この「我(わたし)」は、多くの場合、阿難を指すとされます。
禅宗では、迦葉から教えを受けついだ祖師とされます。インドの祖師を迦葉から数えると2代目です(お釈迦さまから数えて3代目とする数え方もあります)。
最期にも伝えがあります。阿難は120歳で亡くなったとされます(法顕〈ほっけん〉の旅行記など)。ガンジス川の両岸で、阿闍世王(あじゃせおう)と、ヴァイシャーリーの人々(離車族〈りしゃぞく〉)が阿難を待っていました。
阿難はどちらの側にもかたよらないよう、川の中洲で舟の上から空に昇り、火に包まれて亡くなったといいます。遺骨は二つに分かれて両岸に落ち、それぞれが塔を建ててまつったと伝わります(パーリ語の伝えでは別の川とされるなど、諸説あり)。
③ 姿の特徴 ― 若々しい僧の顔
阿難の像は、若い僧の姿で造られることが多いのが特徴です。ふっくらとした顔で、まっすぐに立ちます。手に持つ道具の決まりは、とくにありません。
日本や中国のお寺では、釈迦如来の両わきに迦葉と阿難が立つことがあります。年をとった姿が迦葉、若い姿が阿難です。お釈迦さまと年が大きく離れた弟子だった、という伝えとも合います。
03. 阿難とご縁のある祈り ― 学び・記憶・人の世話
阿難は、決まったご利益をさずける仏様ではありません。けれども、その生き方から、いくつかの祈りと結びついてきました。
こんな人におすすめ
- 試験や資格の勉強で、たくさんのことを覚えなければならない人
- 介護や子育て、仕事のサポート役など、だれかをそばで支えている人
- お盆の施餓鬼会(せがきえ)に参加して、由来を知りたい人
結びつきの根拠:阿難は、説法をいちばん多く聞いて覚えた「多聞第一」です。また、約25年お釈迦さまの世話をし、女性の出家を取りなしたとされます。さらに、施餓鬼は「阿難が焔口餓鬼(えんくがき)に告げられて行ったのが始まり」と伝えられます(コトバンク:百科事典マイペディア)。
04. 阿難と関連する仏様・人物
神仏習合で阿難に対応づけられた神様は、確認できる資料では見つかりませんでした。
05. 阿難尊者に会える寺院 ― 萬福寺・源光庵・大報恩寺など
- 萬福寺(まんぷくじ/京都府宇治市)― 黄檗宗(おうばくしゅう)の大本山です。2024年に国宝となった大雄宝殿(だいゆうほうでん)に、本尊の釈迦如来と、脇の阿難・迦葉がまつられます。まわりには十八羅漢像も並びます。拝観は9時〜17時(受付16時30分まで)、大人500円・中学生と小学生300円です(公式サイト)。
- 源光庵(げんこうあん/京都市北区)― 「悟りの窓」「迷いの窓」で知られる禅寺です。本堂の本尊釈迦如来の脇に、阿難尊者と迦葉尊者がひかえます(公式サイト「源光庵 縁起」)。
- 大報恩寺(千本釈迦堂/京都市上京区)― 快慶(かいけい)とその工房による晩年の作とされる十大弟子立像(重要文化財・10体そろって伝わる)の中に、阿難の像があります。
- このほか、長崎の崇福寺や千葉の眼蔵寺にも、迦葉と並ぶ阿難の像(県指定文化財)があります。くわしくは迦葉の記事をご覧ください。
06. 阿難の見分け方 ― 迦葉・ほかの十大弟子との違い
07. 阿難の物語コラム ― 頭が枕につく前に
お釈迦さまが亡くなり、教えを確かめ合う会議(第一結集)が開かれることになりました。集まるのは、悟りを開いた聖者(阿羅漢〈あらかん〉)だけです。
ところが阿難は、まだ悟りを開いていませんでした。いちばん多く教えを聞いた人なのに、です。議長の迦葉は、阿難が会議に加わることを認めませんでした。
阿難は、会議の前の晩、ひと晩じゅう修行にうちこみました。そして会議の日の朝、少し休もうと横になりかけます。
そのときでした。体を横たえようとした、その途中で、阿難は悟りを開いたといいます。立っているのでも、横になっているのでもない姿でした。
のちの人は、阿難の悟りをこう語りつぎました。こうして阿難は会議に加わり、覚えていた教えを声に出して唱えたのです。
ただし会議では、阿難はいくつかの「過ち」も問われました。女性の出家を取りなしたこと、お釈迦さまに長く生きてほしいと願わなかったことなどです。阿難は過ちとは思わなかったものの、仲間の和を乱さないよう、わびたと伝わります。
なお『西遊記』の終わり近くでは、阿難と迦葉が三蔵法師に経典をわたす役で登場します。経典をわたす前にお礼の品を求める、人間くさい役で描かれます(Wikipedia「阿難」)。
08. 阿難(阿難陀)のまとめと関連記事
この記事でわかったこと
09. ゆる仏様トーク ― 阿難編
阿難は、今でいえば「社長の話を25年ぶん全部覚えている秘書」です。会議の議事録がなくても、「あのとき社長はこう言いました」と一字一句再現できる。……会社にひとりいてくれたら、本当に助かります。
教えをいちばん多く聞いた人が、悟るのはぎりぎり最後。しかも、横になろうとした、その途中で。──そう、たくさん知っていることと、悟ることは、同じではなかったのです。
※経典の言葉ではなく、阿難の生き方をもとにイメージしたセリフです。


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