龍智菩薩(りゅうちぼさつ)は、南インドの密教のお坊さんです。龍猛(りゅうみょう。龍樹)の弟子とされ、その教えを金剛智に伝えました。真言宗では、八祖の一人としてまつられます。
この記事でわかること
- 龍智菩薩とはだれか。龍猛と金剛智のあいだに立つ真言八祖で、金剛智の師
- 金剛智と不空が、海をこえて龍智のもとをたずねた話
- 【謎】2〜3世紀の龍猛の弟子が、なぜ8世紀まで生きていたとされるのか(玄奘が会った700歳のバラモンの記録とあわせて)
何百年もの時をこえて、教えを手から手へ渡した人の物語です。
01. 龍智の基本情報
| 分類 |
祖師(そし)。密教を伝えたインドの僧 |
| 読み方 |
りゅうち |
| 別名 |
龍智菩薩・龍智阿闍梨(あじゃり。密教の師) |
| 梵名(ぼんみょう) |
ナーガボーディ(Nāgabodhi) |
| 生没年 |
不明。8世紀まで長生きしたと伝わります |
| 出身・活動地 |
南インド |
| 師 |
龍猛(龍樹)とされます |
| おもな弟子 |
金剛智。不空も教えを受けたとされます |
| 真言八祖での位置 |
付法(ふほう。教えを受けついだ順)の八祖の第四祖。伝持(でんじ。教えを広め伝えた順)の八祖の第二祖 |
| 真言・種子字・ご縁日 |
決まったものは確認できませんでした |
💡 出典:コトバンク「龍智」(ブリタニカ国際大百科事典など)、Wikipedia「金剛智」「不空金剛」。
コトバンクは、龍智の伝記は「信仰的色彩が濃く」、史実はよくわかっていない、と説明しています。この記事でも、伝承は伝承として紹介します。
02. 龍智菩薩(ナーガボーディ)とは? ― 龍猛の教えを受けついだ真言八祖
① 一言まとめ
龍智は、南天鉄塔をひらいたと伝わる龍猛から密教を受けつぎ、それを金剛智に渡した人です。真言の教えのバトンで、インドの最後の走者のような位置にいます。
② 由来・生涯
龍智の一生は、ほとんどわかっていません。コトバンクは、龍智は龍猛の弟子とされ、「八世紀まで長寿を保ち」、金剛智に教えを授けたという、と伝えます。
はっきりした場面が残るのは、弟子たちの伝記の中です。金剛智は31歳のとき南インドへ向かい、龍智に7年間つきました。そこで『金剛頂経』の系統のお経などを学んだとされます(Wikipedia「金剛智」)。金剛智は671年生まれとされるので、700年ごろのことになります。
さらに741年、金剛智が亡くなると、弟子の不空もインドの龍智のもとへ行きました。そして、胎蔵(たいぞう。『大日経』の教え)と金剛(『金剛頂経』の教え)の両方の灌頂(かんじょう。教えを正式に授ける儀式)を受けたといいます(Wikipedia「不空金剛」。師については諸説あり)。
つまり龍智は、2〜3世紀の龍猛の弟子でありながら、8世紀の金剛智と不空の師でもあったことになります。この長い長い年月が、10の謎のテーマです。
💡
不空が龍智に会った場所は、資料によって書き方がちがいます。Wikipedia「不空金剛」は「インドの龍智阿闍梨」とし、コトバンク「不空」は、不空がスリランカにわたって龍智に学んだと説明しています。一方、不空に灌頂を授けた師を、スリランカの普賢阿闍梨(ふげんあじゃり)とする伝記もあります(漢典「不空」。諸説あり)。龍智の伝記のもとになった古い資料(呂向〈りょこう〉の『金剛智行記』など)の原文は、今回は確認できませんでした。
③ 姿の特徴
- 僧の姿:頭を丸め、袈裟(けさ)を着た僧の姿でえがかれます
- 東寺の祖師像:東寺の国宝「真言七祖像」には龍智の像があります。龍猛像とともに、821年に日本で新しく描かれたとされます。出典は加藤詩乃氏の研究発表の要旨です
- チベットの絵:八十四成就者(はちじゅうしじょうじゅしゃ。インドの密教の聖者たち)の一人としても描かれます。ルービン美術館の18世紀の絵は、龍樹を中心に、まわりに成就者たちを描いたものです。龍智はその一人として、黄色い帽子の僧の姿で描かれています
- 印相・光背・台座:祖師なので、決まった印相や台座はありません
💡 出典:東寺の像は加藤詩乃氏の発表要旨(筑波大学)、チベットの絵は Himalayan Art Resources(ルービン美術館蔵 P2000.14.3)。東寺の龍智像の持物や手の形は、今回は確認できませんでした。
03. 龍智にまつわるご利益 ― 受けつぐ力と、長寿
🍵 長寿
🤝 師弟の縁
📜 伝統を受けつぐ
- 長寿:8世紀まで生きたと伝わる、長寿の祖師です
- 師弟の縁:遠い国から来た弟子たちに、教えを手わたしました
- 伝統を受けつぐ:龍猛から金剛智へ、教えのバトンをつなぎました
ご利益の根拠:龍智に決まったご利益があると書いた資料は、確認できませんでした。ここでは、伝承の中での役わりから紹介しています(筆者の見方)。
こんな人におすすめ:家の仕事や伝統の技を受けつごうとしている人。よい師にめぐりあいたい人。長生きを願う家族がいる人。たとえば、親方から技を教わりはじめた若い職人さんや、祖父母の長寿をお祝いする家族にもぴったりの祖師です。
04. 龍智と関係の深い仏様・人物 ― 龍猛から不空まで
龍猛(りゅうみょう)龍智の師とされる、付法の第三祖。
龍樹と同じ人とされます
金剛智(こんごうち)龍智に7年つき、密教を唐へ運んだ付法の第五祖です
不空(ふくう)金剛智の弟子。師の死後、インドで龍智に学んだとされます(普賢阿闍梨とする説もあり)
金剛薩埵(こんごうさった)付法の第二祖。
龍猛に教えを授けたとされる菩薩です
大日如来(だいにちにょらい)付法の第一祖。真言の教えのみなもとの仏です
05. 龍智ゆかりの場所・その姿に出会える寺
- 東寺(教王護国寺〈きょうおうごこくじ〉。京都市南区):国宝「真言七祖像」の中に、821年に日本で描かれた龍智の像があります。公開の時期は、東寺の公式サイトで確かめてください
- 神護寺(じんごじ。京都市右京区):八祖像が8幅そろって残るものとしては、最古の作品が伝わる寺です。その手本は東寺の真言七祖像とされます(慶應義塾ミュージアム・コモンズの解説)
- 醍醐寺(だいごじ。京都市伏見区):951年に完成した国宝の五重塔(952年とする資料もあります)の内部に、真言八祖の壁画が描かれています。8人をそろえて描いたものとしては、現存最古とされます(JAANUS)
💡 龍智一人だけをまつる寺は、今回は確認できませんでした。龍智が
金剛智に教えを授けた南インドの場所も、くわしくは伝わっていません。寺の祖師像は、ふだん見られないことも多い宝物です。公開の情報は、それぞれの寺の公式サイトで確かめてください。
06. 龍智の見分け方ガイド
✅ これがあれば龍智かも?チェックリスト
- □ 真言八祖像で、「龍智」の名札がある
- □ 付法の八祖では、龍猛と金剛智のあいだに置かれている
- □ 東寺の真言七祖像では、日本で描かれた2幅の一つ(もう一つは龍猛)
まちがえやすい人とのちがい
- 龍猛(龍樹)とのちがい:龍猛は龍智の師です。どちらも名前に「龍」の字があるので注意
- 金剛智とのちがい:金剛智は龍智の弟子で、インドから唐へわたった人です。龍智が唐へわたったという記録はありません
- 龍王とのちがい:八大龍王のような龍の神ではなく、人間のお坊さんです
07. 龍智の物語 ― 海をこえてたずねてきた二人の弟子
南インドの、ある寺。そこに、龍猛から教えを受けついだ老いた僧がいました。龍智です。
あるとき、31歳の若い僧がたずねてきます。のちに唐へわたる金剛智でした。金剛智は、それまでに戒律や心のしくみの学問をおさめていました。けれど、まだ密教のいちばん深いところは知りません。
金剛智は、この師のもとに7年間とどまりました。龍智は、『金剛頂経』の系統のお経を、一つずつ授けていきます。やがて金剛智は師のもとを去り、海をこえて、遠い唐の国へ向かいました。
金剛智が龍智のもとに来てから、およそ40年。唐で金剛智が亡くなりました。その弟子の不空は、師の願いを受けて、船で師子国(ししこく。今のスリランカ)・南インドへ向かいます。そして、師の師である龍智のもとをたずね、胎蔵・金剛の灌頂を受けたと伝わります(灌頂の師は普賢阿闍梨だったとする伝記もあります)。
弟子と、その弟子。二代の弟子を、一人の師がむかえたのです。
──そう、龍智は自分では唐へわたらずに、海の向こうへ教えを送り出していたのです(会った場所をスリランカとする資料もあります)。
📖 出典:Wikipedia「
金剛智」(31歳で南インドの龍智に7年師事)、Wikipedia「
不空金剛」(741年に金剛智が亡くなったあと、インドの龍智阿闍梨のもとで五部灌頂〈胎蔵・金剛の両方をふくむ正式な灌頂〉を受けた)。場面の様子は、筆者が想像をまじえて物語にしました。金剛智と龍智が出会った寺の名前は伝わっていません。
08. 龍智のまとめと関連記事
この記事でわかったこと
- 龍智は、龍猛の弟子とされる南インドの密教の僧で、付法の八祖の第四祖
- 弟子の金剛智に7年かけて教えを授け、その弟子の不空にも灌頂を授けたとされる
- 伝記は伝承が中心で、8世紀まで長生きしたと伝わる
真言八祖の像を見かけたら、龍猛と金剛智のあいだで、静かにバトンをにぎっている人をさがしてみてください。
09. ゆる仏様トーク ― 龍智編
🍵 ゆる仏様トーク①(たとえ話)
龍智は、今でいえば「創業者から直接教わり、孫の代の社員まで自分で研修した、伝説の大先輩」です。しかも、その創業者が生きていたのは、何百年も前のことでした。
🍵 ゆる仏様トーク②(ツッコミ)
金剛智に教えたのが700年ごろ。不空に教えたのが741年より後。そのあいだ40年以上。そもそも師の龍猛は2〜3世紀の人。計算すると、龍智は約500年生きていたことになります。──そう、真言の祖師の時計は、私たちの時計とはちがう速さで進んでいたのです。
🍵 ゆる仏様トーク③(ひとこと)
龍智が、だれかから大切なものを受けついだ人に声をかけるとしたら――
「受けとったものは、あなたの手を通って、次の人へ渡っていきます。急がなくていい。手わたすことだけを、忘れないで。」
※龍智の言葉そのものではなく、その伝承をもとにイメージしたセリフです。
10. 龍智の謎 ― 龍猛の弟子は、なぜ数百年を生きたとされるのか
【事実の整理】
①
龍猛(龍樹)は、150〜250年ごろの人とされます(コトバンク「龍樹」)。
② 龍智は龍猛の弟子とされ、「八世紀まで長寿を保ち」、
金剛智に教えを授けたとされます(コトバンク「龍智」)。金剛智が龍智についたのは700年ごろ、
不空が教えを受けたのは741年より後です(02の生涯)。
③ 師の
龍猛にも、数百歳まで生きたという伝承があります(くわしくは
龍樹の記事へ)。
④ そして、
玄奘の伝記『
大慈恩寺三蔵法師伝』巻2には、ふしぎな人が出てきます。インドへの旅の途中、北西インドの磔迦国(たっかこく)でのことです。城の西、道の北にある大きなマンゴーの林に、700歳だというバラモンがいました。見た目は30歳ほどです。しかも「
龍猛の弟子で、師からじかに教えを受けた」人でした(原文「其人是龍猛弟子,親得師承」)。玄奘はここに1か月とどまり、『経百論』『広百論』を学んだといいます。どちらも龍猛の弟子・
提婆(だいば)の論書で、龍猛の流れをくむ「空」の学問の本です。
⑤ ただし、このバラモンの名前は書かれていません。会った場所も北西インドで、龍智がいたとされる南インドとはちがいます。龍智と同じ人かどうかは、わかりません。
【私の考察】
龍智の長寿の伝承は、ゼロから作られたのではなく、もともとインドで語られていた「いまも生きている龍猛の弟子」という話の上に重なっているのではないか、と私は考えます。
まず、師と弟子の何百年もの時間をだれかが生きてつなぐ、という見方があります。これは
龍樹の記事の謎でも考えました。この記事では、その先を④の記録から考えます。
おもしろいのは、④の時期です。
玄奘が「
龍猛の直弟子で700歳」という人に会ったのは、629年に始まる旅の途中です。
金剛智が龍智をたずねる約70年前のことになります。つまり、「龍猛の弟子が、いまも長生きしてどこかにいる」という話は、真言の系譜がまとめられるより前から、インドで語られていたのです。
そして、④のバラモンが教えたのは、
龍猛の「空」の学問でした。名前のない「生きている龍猛の弟子」は、北西インドで
玄奘に空の論書を授けました。南インドの龍智は、
金剛智に密教を授けました。同じ「長生きの直弟子」という形が、場所と伝える教えだけを変えて、二度あらわれているように見えます。
「
龍猛の直弟子に会えば、龍猛の教えにじかにふれられる」。そう考える人が、7世紀のインドにはすでにいたのでしょう。だから、のちに龍猛の密教の教えを受けついだ人も、自然と「長生きの直弟子」の姿で語られるようになったのかもしれません。
【結論(あくまで推測)】
龍智が数百年を生きたとされるのは、
玄奘のころにはすでにインドで語られていた「いまも生きている
龍猛の弟子」という伝承の形を、密教の系譜が受けついだからではないか。空の学問を伝えた名もないバラモンと、密教を伝えた龍智は、同じ形の二つのあらわれだったのかもしれません。私はそう考えます。あくまで私の考察です。あなたはどう思いますか?
💡 出典:①はコトバンク「龍樹」。②はコトバンク「龍智」とWikipedia「金剛智」「不空金剛」。③は『
大唐西域記』巻10とWikipedia「龍樹」。④は『
大慈恩寺三蔵法師伝』巻2(中国語版Wikisource。原文「七百歲婆羅門」〈700歳のバラモン〉、「可三十許」〈30歳ほどに見える〉、「仍就停一月」〈そのまま1か月とどまる〉)。不空の師の諸説は漢典「不空」。
玄奘が磔迦国に着いた年は確認できませんでした。「約70年前」は目安です。④のバラモンを龍智とした資料も見つかりませんでした。二つを結びつけたのは筆者の考察です。
11. 龍智データベース早見表
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